かなわんわあ
池のほとりに腰を下ろし釣り糸を垂らしていると、ほどなくしてアタリがきた。引き上げてみるとかかったのは半尺ほどの小魚。持ち帰るほどでもないし、かといって逃がすのにも惜しい気がする、そんな風に考えていると、背後から声がかかった。
「あんちゃん、その魚もらえん?」
振り返ってみると誰もいない。おや、と見まわすと少し離れたところに一匹のトラ猫がちょこんと座ってこちらを見ていた。互いに目と目を見つめていると、猫の口が開いた。
「魚くれんの? ねえったら」
驚いて辺りを再び見まわし、誰かがいたずらをしているのかと人影を探してみるがやはりいない。すると猫がまた口を開いた。
「なんやきょろきょろして、けったいな兄さんやな。くれんのやったらもうええわ」
「え、ああ……ごめん。魚ね、いま外すから……ほら」
魚を針から外して猫の前に放ってやった。
「おおきに。ほなもらっていくわ。ありがとさん」
猫は魚をぱくりと咥えるとくるりと踵を返して草むらの中に消えていった。しばらく猫が姿を消した草むらを呆然と見ていたが、ぱしゃんと魚が跳ねる音で我に返った。今のはなんだったのだろう。白日夢を見ていたのだろうか。不思議な気持ちを抱えたまま再び釣り針を池に落とす。
少しして、また背後から声がした。
「兄さんか? 魚をもらえるって聞いて来たんやけど」
ああ、またか。振り返る前に確信した。ゆっくりと一呼吸して振り向くと、やはりそこに居たのは猫だった。今度は黒猫で、四つ足で立ったまま尻尾をくねくねと動かし嬉しそうにしている。誰かここに来てくれないかな、他の人間がやってきて、この猫が本当に言葉を話しているのか、それともこちらの頭がおかしくなってそのように聞こえているだけなのか、客観的な判定を下してほしいと切に願った。
「釣れたらあげてもいいけど……ちょっと聞いていいかな?」
「なんや? なんでも聞いてちょうだい」
「君たちって……その……しゃべれるの? 人の言葉を」
「しゃべれるか? こうしてしゃべってますやん。あー、あー、聞こえてますかあ」
猫は尻を下ろすと、右の前足を口の横にあてて呼びかけるような仕草をした。
「それがどないしたん?」
「気を悪くしたらごめん。でも、猫がしゃべれるなんて今まで知らなかったし、聞いたこともなかったから驚いちゃって」
「それはしゃあないわ。兄さんのせいやない。うちら普段はしゃべらんようにしてるから」
「うちらってことは君だけじゃなくて、どの猫もってこと?」
「せや。いや、全部の猫がってわけやないな。最近は言葉をよう使えんのもおるって話や」
「へえ」
「でな、しゃべらんようにしてるのも深いわけがあってな」
猫はふんと鼻を鳴らした。
「昔むかしの大昔のことや、うちらは人間の前でも普通にしゃべってたって話や。けどな、そのうちにぎくしゃくしてきたんやて」
「ぎくしゃく?」
「せや、ぎくしゃく。うちら猫って人間と近い距離で暮らしてるやろ、だからついつい言わんでもええことを言っちゃたり、隠し事を高いところから覗いていてそれを吹聴しちゃったりしてな」
「ああ、それはぎくしゃくしてくるね」
「せやろ。口は災いの門ってやつやな。それにな、うちらのしゃべり方、これもあかんねん」
「へえ、なんでだろ」
「関西弁、というのに似てるやろ」
「うん、そうだね。というか関西弁じゃないの?」
「ちゃうねん。似てるけど違うんや。これは言わば伝統的な猫語なんやけど、関西弁と似ていたのが悲劇ちゅうわけや」
「悲劇、ずいぶんと大層な話になったね」
「大層なんてもんやないで兄ちゃん、悲劇としか言いようがありません。関西の人間は誇り高いんやな、自分たちの話し方に拘っていて標準語やっけ、そんなもん使わんのや。そんで、関西弁を半端に真似されるとムズムズするちゅうて怒んのやて」
「ああ、聞いたことある。嫌がるんだってね」
「そうなんや。だからうちらが猫語をしゃべると、初めのうちは機嫌よく聞いてるけど、段々と顔つきが険しくなって、しまいには怒ってしまうんやと。そんなこともあって人前ではようしゃべらんようになったんやて」
「そうなんだ。それじゃこの会話も聞かれてたら怒られちゃうか」
「せやで。だから兄ちゃん、ここでの話は内緒やで。他人に話したらあかんよ」
「分かった、誰にも言わないよ」
もっとも、こんな話を伝えたところで頭がおかしくなったと思われるだけだが。
「ところで魚は……今日はあかんみたいやね。しゃあないな、ほなさいなら」
そういうと猫はとっと駆け出して、先ほどのトラ猫のように草むらに消えてしまった。
「悪かったね……」
そうしてひとり残されて、池のほとりはまた静かになった。
手の中で竿がぶるぶると細かく震え、目を覚ました。どうやら釣りをしながら、うとうとと微睡んでいたようだ。寝ぼけまなこできょろきょろと辺りを見回すが、猫の姿はない。おかしな夢を見たもんだ、と吹き出しそうになりながら水面を見ると、釣り糸があちらへこちらへと走っていた。これは大物だ。慎重に竿を立てて引き寄せると、ぐいっと一気に引き上げた。
糸の先には三尺ほどもある鮒がだらんとぶら下がり、尾びれををぱたぱたと振っていた。
すると鮒は上を向いた大きな口をぱくぱくとさせ。
「痛い、痛いって。なんなん、ほんま。かなわんわあ」