06 騎士は談義し決意する、この地より始まる大事業を
世界は、素敵だ。
ワタシを介して、神が眺めているのだから。
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「ウィロウ卿、こちらでしたか」
幕舎に入ってくるなり、フェリポ司祭は汗をひと拭きした。背負うた籠の中身は全て書類か。精力的なことだ。先までは厭世の偏屈者と見ていたものだが。
「すまない。探させたようだ」
「いえいえお気になさらず。駐屯軍の再編は火急の要件ですからね」
再編か。言葉としてはそれで間違いないが。
トロール討伐の被害が大き過ぎた。一千名からいた兵が三百と少しにまで倒れ減った今、できることといえば指揮系統の整頓が精々。補充の当てもない。
「物語でなし、魔物に打ち勝ったとてそれで一件落着とはいきません。外敵警戒、残敵掃討、傷者救助、瓦礫撤去、治安巡回、伝令早馬……さもあれ、軍隊とは非常時における最大の実行力。つまるところが人間の精鋭。感謝の言葉が尽きません」
相も変わらずよく回る舌だ。身振り手振りも大げさで。
「為すべきことを為すのみ。そも神院の働きなしには取り戻せまいよ。日常は」
「いやいや我々など馳走と唇をつなぐ木匙。名画と瞳をつなぐ灯明。恐縮、恐縮」
この男がかくも上機嫌である。それはまったく非日常的ではあるが。
「我らは奇跡に照らされて生き長らえた、と御僧は言いたいのだな。駐屯軍の奮闘の結果ではなく、超常の力に救済されたからであると」
この男が弁論で人を惑わし、試す。それは実に日常的なことだ。
「承知している。わきまえているとも。開拓軍尉の代行を任されたとはいえ、強引な軍政を敷くつもりなどない。英雄を気取るつもりもな。当面、軍と院は権限の上下なく協力すべきだろう」
「さすがはウィロウ卿。冷厳なる視界。怜悧なる思考。うふ、それでこそですよ」
ふむ。こうも尊大さを露骨にするとは、酒に酔うているのか、それとも生存の興奮冷めやらぬのか……いや違う。違うな。これは。
「回天の志を同じくするに、貴殿ほど相応しい軍人も稀でしょう」
やはりか。やはり野心を口にしたな、フェリポ司祭。
これは誘いだ。私を、武門の誉れ高きウィロウ家の人間を、この神官は共謀者にせんとしている。それも不退転の覚悟をもってしてだ。
爛々たる眼差し。みなぎる覇気。それでいて胸襟を開いている。
私が頷けばそのまま赤心をさらしてこよう。断金の交わりとなろう。されど首を横に振れば……殺しにくるだろう。その手に聖槍を握りしめて。
先んじて斬るべきところだ。本来ならば。
しかし、私は目を閉じるのだな。暗闇を欲して。己が内奥に瞬く予感を見つめるために。ひとつの判断に命を懸けるために。
「天……天か。残酷なる天下にあって、その趨勢を論ずるか」
「はい。稀有絶妙の時を得ましたので」
「……クロイを、旗頭にするつもりか」
「うふ。少し違います。とてもとても似て非なる」
括目した。確信の瞬間に備えた。
「祀り奉るのですよ。神を。彼女という選ばれし者を媒介に……人間の神を」
神。
あまりにも腑に落ちる言葉だ。そのまま腹の底に居座り、灼熱し、心身を震えさせる。父祖の武勇名誉を想う時のようだ。しかも亡母の温もりをも思わせて、胸に沁み入る。
「あれは……そうなのだな」
「ええ、そうです」
「そうであろうと、感じた。そうあってほしいと、願いもした」
「それこそが赤心。偽ることなき真心かと」
「偽りでもまやかしでもなく、寄す所とすることを、許されるのだな」
「無論。大いなる実存に臨んでは、むしろ敬虔な態度と言えましょう」
「そうか……」
込み上げてきた熱いものを、頬に流れるままにした。何を恥じよう。目の前の男とて白目を充血させているではないか。
「我らは、世界に、在っていい……!」
嗚咽を堪えて、言った。宣言した。何という晴れがましさか。
戦っても戦っても、死んで死んで死にゆくばかり。それが人間の歴史だった。祈っても祈っても祈っても、届かない。届く先がない。それが人間の世界だった。
勝ったぞ、我らは。届いたぞ、祈りが。
今日というこの日に、人間は、望みの絶えた種族ではなくなったのだ。
「……結論から述べましょう」
穏やかな声音だ。こういう風にも話せたのだな、この男は。
「クロイ様を王城へお連れするのは時期尚早。今の国家中枢は、素直に希望を抱けるほど純情でなく、英断して変革を行えるほど勇敢でもありません」
「潰されるか」
「ええ。困難は人を頑なにするばかりか……鈍感にも残酷にもしますからね」
「……そうだな。その通りだ」
同意せざるをえない。言外に証左とした事実が、ある。口にするのも憚られる、忌まわしい現実が。生き残ってなお一層に呪わしい真実が。
開拓。
肥沃な土地を求めて、魔境のほとりへと人員を送り込むことを言う。
重大事だ。必要なことだ。人間の領域を押し広げていく、種族の尊厳をかけた国策事業だ。軍院民が一丸となって取り組む、種族の未来をかけた攻勢行動だ。
それが、そのはずが……実際のところは。
棄民だ。これでは。
魔物の爪牙をもってする、人口調整の手段と化しているではないか。そればかりか、開拓団を生贄にすらしている。その犠牲をもって後方に安全圏を確保している。そうまでするのか。そこまでしないと、秩序を保てないというのか。
憤ろしく、哀しい。どうしようもないほどに。
「畏くも、神は奇跡を賜うに際し、この地をお選びになられました……人間の悲劇であるところの開拓地を」
フェリポ司祭が私を見据えている。目を逸らしはしない。言葉を待つ。
「ならば我々は、ここより始めるべきではないでしょうか。抗いを。戦いを。挑みを。試みを。行いを。救いを。つまりすなわち素晴らしき……回天の事業を」
愉快げに舌を回すものだ。私とて、目が細まる。痛快さがある。
「風呂だな。まるで」
「突飛なことを言い出しましたね。して、そのこころは」
「世界はひどく寒かった。恩寵に浴し温まるのに、何も頭からである必要はあるまいよ。湯とは足先からそろりと浸かるもの。じわりと過ごせば頬までゆだる。明日を生きる活力となる」
うむ、我ながら上手いことを言ったぞ。どんなものだ。
「ええと、なんと言いますか……俗っぽいというか若々しくないというか……ゴホン、まあ、あれです。我が神院の営業する洗霊風呂、ウィロウ卿におかれましてはいつもご利用いただきありがとうございます」
「む? こちらこそだ。あれはいいものだからな」
「説法の方にも参席してくれますと、湯の沸かし甲斐があるのですけどね……」
「よく言う。聖典を解釈してあげつらう、あれが説法か」
「これまでは。しかしこれからは」
「確かに。また風呂に入れる日が来たならば、拝聴しよう」
共に笑った。どんなにか問題が山積していようとも、この胸に希望の火が宿っているのだから、笑うことができる。
ひとしきり愉快を味わったところで、問う。
「ところで、背負うた籠の中身は何だ。どれも正式な書状のようだが」
「各種依頼書ですよ。開拓軍尉代行殿の署名捺印をいただこうと思いまして」
「ふむ。御僧が必要性を認めたものなら、細かく吟味するつもりもないが……」
検めた、その内容たるや。
開拓軍司令部の置かれた砦への、物資補給申請および兵卒補填申請に始まり。各開拓地への援軍要請と注意喚起。有力商家複数への支援懇請。冒険者組合および傭兵組合への人員派遣依頼。魔術師組合への研究報告。新聞組合への取材提案。どれにも漏れなく、今回討伐した魔物の種類と数とが記載されている。
宛名だけ記されたものが、二枚。
ひとつは大神院へのもの。私の返答次第で内容を変えるつもりだったのだろう。それでいて先に署名捺印を求めてくる。つまりは院絡みの色々を白紙委任しろと主張しているのだな。
そして、もうひとつは……ウィロウ家へのもの。覚悟を見せろと言うことか。
「まずは鐘を鳴らしましょう。そして反響に耳を澄ませるのです」
こいつめ。澄まし顔で。
「ここから全てを始める、そのために」