第二話 春朗(しゅんろう)と北斎と卍(まんじ)と 〈5〉
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「画号は北斎を中心とするものにかわったけど、一般に研究者が〈宗理期〉とよんでいるのは、北斎45歳の享和4(文化元)[1804]年くらいまでなんだよ」
「ただ、北斎が宗理から改名してから次の〈北斎期〉になるまで、摺物や狂歌絵本以外にもバラエティにとんだ仕事をしていますよね?」
みさごさんの説明に泉が訊ねた。
「年表で見るとあっと云う間かもしれないけど、7年間ってけっこう長いもん。時太郎可候のペンネームで黄表紙を描いたりしてるし、享和[1801~04]年間には、その可候名義で浮世絵ギョーカイにも復帰してるし」
写楽第1期の作品みたいに背景を雲母で銀色っぽくぬりつぶした(雲母摺りと云う)大判の美人大首絵(『風流なくてなゝくせ』)や浮絵の「忠臣蔵(『新板浮絵忠臣蔵(しんばん うきえ ちゅうしんぐら)』)」連作を描いたりしている。
ちなみに、浮絵とは浮世絵の略語ではない。
家屋敷を一点透視図法で描いて遠近感を強調した絵のことだ。
前景の家屋敷と後景の消失点が異なるため、背景のせり上がったふしぎな空間になっている。
よく云えば3D映画を観ているような錯覚におちいるし、悪ざまに云えばちょっと気もち悪い。
北斎は〈春朗期〉にも浮絵の作品をけっこう描いているが、浮絵は北斎が考案したものではない。
「『新板浮絵忠臣蔵(しんばん うきえ ちゅうしんぐら)』とほぼ同時期に描かれた狂歌絵本『画本忠臣蔵』(享和2[1802]年)とか、文化3[1806]年にも『仮名手本忠臣蔵』(全11枚)を描いてるけど、どんな気もちだったんだろうね? 北斎って吉良家に縁のあった人らしいじゃん。アンチ赤穂浪士派じゃなかったのかな?」
みさごさんがそう云って笑った。
「北斎と吉良家になにかつながりがあったんですか?」
ぼくの質問に泉がこたえた。
「北斎が吹聴していたらしいんだけど、北斎の母方の曾祖父が、赤穂浪士討ち入りの時に吉良邸で殺された家老の小林平八郎だったんだって。いまだ歴史的な確証はないんだけど。……て云うか、調べている人いるのかな?」
「あと、中島伊勢の屋敷が本所の吉良邸跡地にあったんだよ。北斎が生まれたころに幕府から拝領して引越してきたんだって」
「……中島伊勢? ああ、あれですか。北斎が養子に出された家」
なにやら因縁めいた話だけど、けっきょく北斎は中島家を継がなかったのであんまり関係なくないか?
「歴史的に有名な事件で殺されたご先祖さまの暮らしていたところで多感な思春期をすごしたのは、ちょっとふしぎな感じだったかもしれませんね」
「北斎の言葉とされるものが正しければ、吉良家ゆかりの北斎の母方と中島家に接点があったんだろうね。北斎の長男は中島家の鏡磨師を継いでるし、次男は御家人の養子になって御天守番(ようするに忍者)へ出世してるんだよ」
古い本だと北斎のことを「貧しい農家の出身」なんて書いているものもあるが、貧しい農家出身の子ども(北斎)が、場合によっては苗字・帯刀を許される家格の幕府御用達職人の家へ養子に出されることなどありえないと云う。
まして、そんな一介の町絵師の子どもが御家人へ養子にいくなどアンビリーバボーだそうだ。
幕末の動乱期に活躍し、農民から武士へとりたてられた新選組局長の近藤勇ですら、最後は武士としての〈切腹〉ではなく、農民として〈斬首〉されている。
そのくらい身分における差別意識は根深かった。
一時期、北斎が学んでいたとされる江戸幕府の御用絵師の狩野派も、武士でなければ学ぶことができなかったくらいだ。
具体的に北斎を「武家の出」と書いた資料はないそうだが、状況証拠が十重二十重に武家出身であることをしめしている。
「そう云えば、戦国時代の御用商人のなかには隠密もいたそうですね」
泉の言葉にみさごさんが鷹揚にうなづいた。隠密すなわち忍者だ。
「ちょっち話が北斎とはズレるけど『忠臣蔵』で悪役にされちゃった吉良家って、別に悪人じゃなかったらしいんだよね」
「そうなんですか?」
これはぼく。
赤穂浪士討ち入りで殺された吉良上野介は領民にもしたわれた名君だったと云う。
一方「松の廊下」で刃傷沙汰におよんだ浅野内匠頭は圧政で領民からうとまれていた上に、刃傷沙汰の前にはたびたび奇行があったともつたえられる。梅毒で脳をおかされていたなんて説もある。
赤穂浪士討ち入りも忠義の仇討ちではなく、当時の刑法では「ケンカ両成敗」のはずなのに、赤穂藩だけとりつぶされたのはオカシイと云う抗議のためだったらしい。
ようするに、吉良家は被害者なのだ。
「それは気の毒な」
「幕府としても吉良家をうとんじる理由はないわけ。だから赤穂浪士討ち入り事件のほとぼりが冷めたころに、表向きは幕府の御用鏡磨師、しかしてその実体は忍者の中島家へ吉良邸跡地をあたえて、吉良家ゆかりの忍者だった北斎(川村)家をむかえ入れたってこと。だから北斎は武家の出であることをハッキリさせられなかったんだよ」
「それで北斎〈隠密〉説なんですね」
瞳をキラリン! とかがやかせながらイイカゲンなことを云うみさごさんに泉が追従した。
「北斎が忍者だったかどうかは知らないけど、70代後半に相州浦賀へ潜居したか? なんてキョドった(挙動不審な)話は、幕府の密命で動いていた! みたいな歴史ミステリになりそうかもかも」
天保5[1834]年ころ、75歳の北斎は江戸をはなれて相州浦賀へかくれ住んでいたと云う話がある。
身内にまつわるトラブル、借金、あるいは描いてはいけないものを描いたために逃げていたなど諸説あるが、いずれも根拠と説得力にとぼしい。
「還暦まで生きるのもめずらしかった時代に、70代後半のおじいちゃんを忍者としてコキつかいますかね?」
ぼくのハテナにみさごさんがチッチッチッと人さし指をふった。
「そう思うのがふつうだからこそ、だれにもあやしまれず行動できるとも考えられるじゃん。意外な人間が犯人だってのはミステリの基本なんだよ」
「なんの犯人ですか、なんの!?」
ぼくは少々あきれながらも、みさごさんの博識と想像力のゆたかさに舌をまいた。
外見はかわいらしい中学生にしか見えないが(ホントは高等部2年だけど)、実はもう40歳くらいだったりして。
そう云えば、イチゴパンツなんてのも、たぶん昭和のアイテムだ。……女のコの下着事情なんて知らないけど。
「司ちゃん。今なんかすっごく失礼なこと考えてなかった?」
みさごさんが野性のカンでぼくにするどいツッコミを入れた。感知退儺師か、あんたは?
「いいえ。さすがは〈アルテ・バッジ〉のリーダーと心底感服していたところです」
「なんか云い方わざとらしくない?」
「あ、そうだ。みさごさん『画本東都遊』も北斎改名後ですよね?」
ぼくの口調からみさごさんに図星をさされたことに気づいた泉が、話のベクトルを変えるべく訊ねた。ナイスフォロー泉。
「いかに北斎の評価が高まっていたかをしめす好例かもかも」
みさごさんがうなづいた。