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第二話 春朗(しゅんろう)と北斎と卍(まんじ)と 〈4〉

    4


「ただ、北斎が「俵屋宗理(たわらや そうり)」みたいに、まるっと改名するのは多くないですよね?」


 泉の言葉にみさごさんがうなづいた。


「ほかの改名とは意味あいがちがうから。浮世絵ギョーカイから決別とまでは云わないものの、距離をおいたってことなんだよ」


「え? そうなんですか?」


 これはぼく。


「浮世絵って大量複製品じゃん。でも俵屋は肉筆の(おうぎ)とか屏風(びょうぶ)とか売ってた町絵師のブランドだから。浮世絵は本屋でマンガの単行本を買う感覚だけど、俵屋の商品はデパートでインテリアとして版画や絵を買う感覚かな?」


 なるほど。ちょっとお高い感じになるのか。


 俵屋は『風神雷神図屏風(ふうじんらいじんずびょうぶ)』(江戸時代初期)などで有名な俵屋宗達(たわらや そうたつ)につらなる京都のブランドだったらしい。


 装飾性の強い画風で、今は「琳派(りんぱ)」と総称されている。


 尾形光琳(おがた こうりん)紅白梅図屏風(こうはくばいずびょうぶ)』(18世紀前半)や酒井抱一(ほういつ)夏秋草図屏風(なつあきくさずびょうぶ)』(19世紀前半)なんかが有名だ。


 しかし、宗理(そうり)時代の北斎は、いわゆる琳派(りんぱ)風の作品をあまりのこしていない。


 美人画など浮世絵テイストの肉筆風俗画(にくひつふうぞくが)摺物(すりもの)狂歌絵本(きょうかえほん)が多いため、俵屋宗達や尾形光琳(おがた こうりん)の画風をうけつぐ「琳派(りんぱ)」の系譜からも無視されている。


「それじゃ、第三問。宗理(そうり)時代の北斎は、摺物(すりもの)とか狂歌絵本を手がけていますが、摺物(すりもの)ってなに?」


「あの、個人的なヤツです。自費出版とか私家版とか同人誌みたいな」


「正解ぴょん」


 浮世絵版画には摺物(すりもの)とよばれる作品がある。


 これは版元(出版社)がひろく売りだす役者絵や美人画、名所絵(風景画)とは異なり、個人的に作成し、知人へ配るなどしたものだ。ようするに販売目的ではない。


 オーダーメイドかつ非売品なので制作枚数こそ少ないが、ふつうの浮世絵版画よりも高級な紙を使っていたり、彫りや()りもていねいだったりして豪華なのだと云う。


 摺物(すりもの)嚆矢(こうし)絵暦(えごよみ)だそうだ。文字どおりイラストつきのカレンダーである。


 江戸の(いき)な人々が豪華(ごうか)絵暦(えごよみ)をつくって、正月に知人へ配布し、そのできばえを競いあったらしい。


 そのうち、俳諧(はいかい)師や狂歌師が自作の句に浮世絵師のイラストをそえて、新年の挨拶として配るようになった。


 これらをひっくるめて、歳旦摺物(さいたんすりもの)と云う。年賀状の原点である。


 それ以外にも役者の襲名・改名披露みたいなイベントやお祝いごとの記念品として配布された。


 北斎が宗理(そうり)時代に手がけた摺物(すりもの)も狂歌ものが多かったらしい。


「て云うか、狂歌全盛期だからね。年号で云うと寛政のひとつ前だけど、江戸狂歌は天明[1781~89]年間が頂点とされてるくらいだし。美人画の代名詞みたいな喜多川歌麿がブレイクするきっかけになったのも天明期の狂歌絵本なんだよ」


 ちなみに、狂歌と云うのは和歌の一ジャンルである。


 俳句だったら季語が必要だし、川柳もテーマが決まっているが、狂歌は滑稽(こっけい)諧謔(かいぎゃく)、ようするに、おもしろければなんでもOK、お笑いバーリトゥードな和歌だ。


 その歴史は古く、日本最古の歌集『万葉集』では戯笑歌(ぎしょうか)、『古今集』では俳諧(はいかい)歌として知られている。


 江戸狂歌の名作と云えば、日本史の授業で一度はきいたこともあるかと思うが、


 白河の 清きに魚の すみかねて もとの(にご)りの 田沼こひしき


 泰平の 眠りを覚ます 上喜撰(じょうきせん) たつた四杯で 夜も眠れず


 なんてやつがある。前者はきびしい寛政の改革を風刺したもので、後者は(北斎没後の句だが)黒船来航に周章狼狽(しゅうしょうろうばい)する幕府を皮肉ったものだ。


摺物(すりもの)=狂歌って云うくらい狂歌関係の摺物(すりもの)は多いんですよね?」


 泉の問いにみさごさんがうなづく。


「自費出版で狂歌本とか出すとお高くなるんで、一枚絵の摺物(すりもの)として趣味人たちの狂歌サークル内で出まわっていたんだけど、摺物(すりもの)ではおさまらないほどの質量と世間からの需要で狂歌絵本が誕生したくらいだから」


 勝川派と断絶し、浮世絵師として干されかけた北斎だったが、狂歌サークルをパトロンにオーダーメイド絵師として糊口(ここう)をしのぎながら、さまざまな画風を自家薬籠中(じかやくろうちゅう)とすべく研鑽(けんさん)をつんだ。


「第四問。北斎は宗理(そうり)美人とよばれる画風を確立しましたが、ズバリその特徴は?」


 これはド直球な問題だ。答えられないとヤバイ。


「えっと、なんだっけな? 顔が妙にタテ長なんだよな」


「あはは。妙にタテ長って」


 必死で記憶をたぐるぼくの言葉に泉が笑った。


「ブー! 時間ぎれ。正解はうりざね顔に富士額(ふじびたい)でした」


 ああ、そうそう。うりざね顔だ。


 北斎の勉強をはじめる前は美人画なんてどれもおなじに見えていたが、今はおおざっぱにだが、歌麿や北斎の区別がつくようになってきた。


 たとえて云うと、歌麿と北斎はいとうのいぢとブリキくらい画風がちがう。


 わからない人にはまったくわからないが、わかる人にはかんたんに見わけがつく。


 北斎は寛政10[1798]年、39歳の時に、宗理(そうり)の号を門人へゆずる(画号をかえましたって告知した摺物(すりもの)がのこっている)。


 ここではじめて北斎(北斎辰政(たつまさ))と云う画号が登場した。


 もっとも、その前年から北斎宗理(そうり)と云う画号を使っているし、百琳宗理(ひゃくりん そうり)なんて画号も使っていたので、改号そのものより俵屋との決別、フリーのイラストレーターとして二度目の独立を宣言したと思えばよいらしい。


 北斎宗理(そうり)宗理改(そうり あらため)北斎、先ノ宗理(そうり)改北斎、北斎辰政(たつまさ)、画狂人北斎などと、北斎メインでいろんな画号を使っている。


 こんなのも改号のひとつとカウントされるため、北斎の画号は30にもおよぶ。


 ちなみに、北斎とか辰政(たつまさ)って云うのは、妙見(北斗七星)信仰にもとづくものだそうだ。

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