第二話 春朗(しゅんろう)と北斎と卍(まんじ)と 〈3〉
北斎は19歳で勝川春章の門をたたき、翌、安永7[1778]年に、春朗の画号で浮世絵師としてデビューした。
「……で、答えは?」
みさごさんがたたみかける。
「すいません。わかりません」
ぼくはすなおに白旗をあげた。
「泉ちゃん、わかるよね?」
「勝川春好です」
「……あ、思い出しました。北斎が勝川派を破門された原因が春好との不仲説とか、師匠にだまって狩野派を学んでいたからとかでしたよね」
今の問題が「春好との不仲説」のエピソードだ。のちに北斎はこの屈辱をバネに画道を精進したと語ったそうだ。
「お、司ちゃん、少しは勉強してるみたいじゃん。古い本には、寛政6[1794]年頃、破門されたか? なんて書いてあるけど、師匠の春章はその2年前に亡くなっているから、つじつまがあわないんだよね」
春朗は、28歳の天明6[1786]年から2年間だけ群馬亭と云う画号をもちい、そののちまた春朗へもどしている。
みさごさんに云わせると、どうやらこの間、一時的に破門されていたようだ。
「飯島虚心『葛飾北斎伝』上巻・俵屋宗理の条に、北斎が絵だけじゃ食べられなくて七味唐辛子を売り歩いたり、年末に柱暦(安物のカレンダー)を手売りしていたら春章夫妻とバッタリあって恥ずかしい思いをした、なんてエピソードがあるんだよ」
北斎が俵屋宗理を襲名するのは、寛政6[1794]年の冬と云われている。その2年前に亡くなった春章と会えるはずもないので、このエピソードは群馬亭時代のものだ。
「きっと、お情けで再入門? されたんだと思う」
ざっくり云うと、フリーのイラストレーターとして食べていけなかったから、勝川春章デザインスタジオのイラストレーターとして再雇用された、みたいなことだ。
そんなうしろめたさもあってか、再入門(?)後の北斎は勝川姓を名のらず、勝春朗、あるいはただの春朗と名のっていた。
そのため、春章が亡くなると、あらためて勝川派と決別したらしく、画号も叢春朗へかわる。叢=雑草魂(?)的な意味あいだろう。
3
「第二問。北斎が俵屋宗理を襲名したとされる寛政6~7[1794~95]年に大ブレイクした浮世絵師はだれちゃん?」
「え? それって北斎と関係なくないですか?」
「それがそうでもないんだな。それにこれは日本美術史の基礎中の基礎なんだよ」
え? だれだ? 困惑するぼくの前で、泉が両手のひらを広げてヘンな顔をしてみせた。たぶん歌舞伎で云うところの〈見得〉だ。
「……ひょっとして、写楽?」
「泉ちゃんダメじゃん。ヒント出しちゃ」
みさごさんの抗議に泉が舌を出して肩をすくめた。ぼくはとにかく北斎の勉強にかかりきりで、まだまだほかの浮世絵師の作品までそれほど手がまわらない。
写楽の浮世絵なんて、泉がヒントを出してくれた『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛』と『市川蝦蔵の竹村定之進』くらいしか知らない(もちろん作品名はあとで調べた)。
「写楽と北斎ってなんか関係あるんですか?」
「大アリクイだよ。北斎は写楽名義で武者絵とか描いてるんだもん」
「そうなの、泉?」
少なくとも、ぼくが勉強してきた北斎の解説にそんなことは書かれていない。ぼくの問いに泉も首をかしげた。
「泉ちゃんはまじめで勉強熱心だけど、ちょっと常識にとらわれすぎるとこあるよねー。美術はもっと自由に虚心に観なきゃ」
「すいません」
泉が少ししょげた。常識にとらわれていたからこそ先の贋作を見ぬけなかったのだ。
ぼくみたいになんの知識もないペーペーであれば先入観にとらわれることもないが、先入観がなければ自由にゆたかに作品を鑑賞できるかと云われれば、そうでもない。
今もってぼくは作品の善し悪しなんてわからない。
ただ、たくさん見ているうちに漠然とではあるがなんとなくおもしろさがわかってきた気はしている。……これが気のせいでないことを願いたい。
「東洲斎写楽が謎の絵師だってことくらいは知ってるでしょ?」
「そうなんですか?」
「本当にシロートなんだね。……逆に新鮮でおもしろいかもかも」
あきれられるかと思ったら、むしろ嬉しそうな顔をされた。これが黛さんなら絶対零度の一瞥でおわりそうだ。
「東洲斎写楽は、寛政6[1794]年5月から寛政7[1795]年1月のおよそ10ヶ月で、約150枚の個性的な役者絵(歌舞伎役者を描いた浮世絵版画)をのこして、こつ然と姿を消してしまったんだよ」
「たった10ヶ月だったんですか?」
ぼくはおどろいた。浮世絵に関する知識もまるっとないが、北斎・写楽・歌麿・広重の名前くらいは知っている。
北斎の画業はおよそ71年。のこされた作品は3万点におよぶとも云われているのに、写楽はたった10ヶ月の画業で世界的にも有名だなんて。
「写楽の正体は阿波の能役者で斎藤十郎兵衛って人なんだけど、あんなに絵がうまいのにほかに作品がないってオカシくない? ホントにそんな人いるの? みたいな話になって、一時は〈写楽別人説〉が雨後のタケノコみたいに唱えられたこともあるんだよ」
写楽の正体は歌麿だとか北斎だとか『東海道中膝栗毛』の作者・十返舎一九だとか云う説が30近くもあったらしい。
「さきほど都大路部長は、北斎が写楽名義で武者絵を描いたとおっしゃいましたけど、北斎が写楽ではないと云うことですか?」
「うん。あ、それと泉ちゃん。みさごのことは〈みさご〉って呼んでいいよ。都大路部長とか云われるとオカタイ中間管理職みたいじゃん。司ちゃんだって、みさごのことなれなれしくみさごさんって呼んでるんだからさ」
……なれなれしいのはどっちだ? と思ったが、ぼくはだまっていることにした。節電・省エネ・脱原発の時代に不毛な会話でムダにエネルギーを消費するのは愚策だ。
「まちがいなく東洲斎写楽って人はいたんだよ。あの時代に役者の顔をあれだけ個性的に描き分けることができた浮世絵師はいないもん。司ちゃんじゃないけどさ、逆に浮世絵のシロートだったから描けたんだと思う」
写楽の描いた役者の顔は能面を参考にしていたなんて説もあるそうだ。
「写楽の作品って4期に分類されているんだけど、第2期目から代作者もくわわって、第3期以降は複数の代作者だけで粗悪な大量生産をしちゃったってわけ。……あ、第3期に描かれた3枚つづきの『大童山土俵入り』だけは写楽の真作だけど」
「そうなんですか?」
泉が目をまるくした。なんだかすごいことを云っているらしいのだが、ぼくにはよくわからない。
「この話にこれ以上踏みこんでいくと、北斎から写楽に脱線して司ちゃんがついてこれなくなっちゃうから、とりあえずそう云うことにしといて」
「……写楽〈共同制作説〉ってありましたよね?」
泉が訊ねた。もう少しこの話をつづけたいようだ。
「惜しいって感じだけどね。あれは絵のことぜんぜんわかってない人が云ってるんだよ。たとえば、アニメとか参考にするとわかりやすいんだけど、アニメって共同制作じゃん?」
1秒間に最大24コマ(枚)の絵を描くアニメには、場面のはじまりとおわりを描く〈原画〉と云う作業があり、原画と原画の間の動きを分割して描く〈動画〉と云う作業がある。
〈動画〉がぺーぺーの仕事、すなわち北斎で云えば〈春朗期〉にあたる。
「共同制作って云っても、目はAさんが描いて、手はBさんが描くわけないじゃん。アニメにキャラクター・デザインとかメカ・デザインがあるみたいに、その世界観を包括するデザイナーがいなくちゃ話にならないんだよ」
「つまり、写楽って云う個性的なデザイナーが中核にいたんですね」
泉の言葉にみさごさんがうなづいた。
「うん。目はAさん、鼻はBさんがデザインするみたいな、めんどくさいこともしないし。だから全員そろって写楽! みたいな共同制作はムリ」
そりゃそうだ。
「よしんば共同制作だったとしても、着物の模様のデザイナーが別にいた、くらいだと思うよ」
写楽・第1期は大首絵と云われるもので顔のアップ(上半身)だ。第2期は全身像。これで写楽絵のキャラクター・デザインが完成する。
さっき、みさごさんが云っていた3枚つづきの『大童山土俵入り』は、本物の写楽による相撲絵用のキャラクター・デザイン画をかねていたのだそうだ。
「正直めちゃくちゃなんだよ。第3期に写楽絵は55枚も出てるんだけど、この枚数って、寛政6[1794]年に写楽以外の浮世絵師たちが描いた役者絵の総数に匹敵するんだって」
極端なたとえで云えば、日本のマンガ家全員が1年間かけて描いた原稿とおなじ枚数を、ひとりのマンガ家が2ヶ月で描きあげたようなものだ。ぶっちゃけありえない。
「まだ役者絵と相撲絵だけならマシだったんだけど、版元の蔦屋重三郎は調子こいて、写楽がキャラクター・デザインしてない武者絵まで出版しちゃった。それを描いたのが北斎。荒木飛呂彦の画風でガンダム描いてくれって云われたようなもんよね」
……それは想像がむずかしい。ハートマークとかついてそうだけど。
みさごさんによると「二代目市川門之助追善絵」の2枚「武者絵」の2枚「大童山」を単体で描いた2枚は、まちがいなく北斎だと云う。
「シロートにでもわかると思うけど、武者の顔とか鬼の描写がまんま北斎だよ」
みさごさんは作業の手を休めると『美術館部』のロゴが入ったタブレット端末の電源を入れた。
「ほらこれ。泉ちゃん、司ちゃん、見てみそ」
泉がぼくの車イスのあとからつづく。
タブレット画面に表示された写楽絵の画像はマンガでつちかった(名前も知らない背景アシスタントの線のクセまで見わけることのできる)ぼくの目でなくとも、北斎のタッチであることは一目瞭然だ。
「ホントだ。武者の鼻のところとか完全に北斎じゃん」
「云われてみればそうだね」
泉もぼくの肩ごしに顔をのぞかせて首肯する。それを自力で見ぬけなかったことがちょっとくやしそうだ。
「でしょ? 構図のとり方も、対角線上でシンプルにまとめる写楽のクセとはぜんぜんちがうんだよ。役者絵の中にも北斎はあるけど、今回の『葛飾北斎展』とは関係ないから、また今度ね」
そう云うと、みさごさんが作業机にもどった。ぼくたちもカルガモの子どもみたいにあとをついていく。無言で考えごとをしていた泉がみさごさんへさらに喰いさがった。
「北斎が写楽絵に関与していることはわかりました。複数の代作者がいなければ短期間で大量生産できなかったことも。ただそれが、北斎が写楽でなかったことを示す根拠にはなりませんよね?」
「たとえば、写楽の絵って全体として見た時、一般的にどう評価されてる?」
泉がハッとした表情でつぶやいた。
「質が落ちる……」
ふつうの浮世絵師は、まず黄表紙や洒落本と云われるコメディ系の軽い読み物のイラストからはじまって、少しずつ大きなサイズの浮世絵版画を手がけるようになるらしい。
北斎も勝川春朗としてデビューした年は、細判と呼ばれる小さな浮世絵版画や黄表紙から出発している。
しかし、写楽はイキナリ大判の大首絵でデビューして、どんどん絵のサイズが縮小されていく。
下手くそなのをかくすために背景が描かれるようになったなんて云われることもあるらしい。なんともしょっぱい話だ。
「ちゃんと作品の細部を比較・検討すれば、複数の代作者がいたことはあきらかだし、第3~4期の中にも悪くない絵はあるけど、精緻さと絶妙なバランス感覚は写楽の真作におよばない。複数の代作者がいない前提で〈北斎=写楽説〉をとなえている人は、だれも全体的な画質低下やサイズ縮小の説明ができてないんだよ」
「そうですね……」
「それに北斎が写楽だったら画風を変える必要ないし、自分が写楽だったことをかくしておく必要ないじゃん。みさごなら自慢しちゃうけど」
写楽はほかの浮世絵師と鼻の描き方が異なると云う。
ほかの浮世絵師が鼻のラインを顔の中心にとるのにたいして、写楽は立体を意識しているのかズラしているそうだ。
もちろん、北斎も鼻のラインを顔の中心にとる。そんな細かい描きわけをしたところでふつうの人なら気がつくまい。
「北斎の韜晦癖と自己顕示欲のせめぎあいって笑えるよね?」
はて、いったいなんの話をしているのやら?
「やっぱ忍者の家系だから、正体かくしたくなったりするのかな? 北斎って改号魔じゃん」
今、ぼくたちはふつうに彼のことを「葛飾北斎」と呼んでいるが、北斎は絵師として活動した71年間で30回は改号(改名)している。
古い画号を弟子にムリヤリ売っていたと云いながら(北斎と云う画号も弟子に売ってしまった)自分がだれかわからなくなることをおそれて「前北斎為一」みたいな書き方をしている。
今は「為一」って名のってますけど、前の「北斎」です、みたいな。だったら改名なんてしなけりゃいいのに。
北斎の代表作『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』 の落款(サイン)も「北斎改為一」であって「葛飾北斎」ではない。
また、だいぶあとの話ではあるが、北斎は数回、お寺の境内などで120畳分もある巨大な達磨絵を描くパフォーマンスをして世間の耳目を集めている。
「ああ云う性格だったら「先ノ写楽改宗理」とか名のりそうなもんじゃない? おそらく写楽の才能に嫉妬していたから、写楽の代作者のひとりだったから、北斎はそのことをかくしつづけたんだと思う」
俵屋宗理襲名後の北斎は晩年にいたるまでほとんど役者絵を描いていないらしい。
死ぬまで絵筆をふるった人間がだれより得意な画風を封印しつづけるものだろうか? 写楽の武者絵にも描かれた武者や鬼の画風は、そのまま継承・発展させていると云うのに。