第五話 波と雪と富士山と 〈2〉
黛さんは壁に飾られた浮世絵版画の前に車イスを進めながら訊いてきた。
「歩く速度はこのくらいでよいか?」
「ええ。作品の高さを確認するだけですから大丈夫です」
「そうか。で、高さはどうだ?」
「とくに問題ないと思います」
画面の中心が視線より少し上にあるが見にくいことはない。
「そうか……む?」
黛さんが足をとめると、ぼくの車イスをななめうしろにずらして作品の前へ立った。うしろへさがると腕組みをして壁面をにらむ。
「この作品の間隔、少し右へよってないか?」
黛さんのとなりに立った泉もしたり顔でうなづいた。
「そうですね。ほんの少し右へよっている気がします」
「よし。なおすぞ」
泉が展示室をよこぎって大きな展示ケースのわきにあった脚立をもってきた。
「司ちゃん、もう少しうしろさがって」
泉がそう云って脚立の上に立った。短い制服のスカートがふわりとゆれてターコイズブルーと白のストライプがのぞく。よこしまな心で泉のスカートのなかをのぞいてはいけないと、ぼくはあわてて車イスを脚立から遠ざけた。
泉が作品をワイヤーでぶらさげているレールのフックをふたつ微妙に左へずらす。
「黛さんどうですか?」
「ちょっといきすぎた。0.5mmもどしてくれ」
「はい」
泉がフックの根元に少しふれて手を離した。作品が右によってるってミリ単位だったの?
「どうですか?」
「うむ。よいと思う。泉さんはどうだ?」
泉は脚立からおりて黛さんのとなりに立つとうなづいた。
「いいと思います」
「よし。ありがとう」
泉が脚立を元あったところへもどし、黛さんがふたたびぼくの車イスを押す。
「きちんとととのえたつもりでも、こうして気になるところがでてくる」
「そうなんですか」
ぼくにはちっとも気にならなかったが、作品から近いせいだろうか? 展示室さいごの壁面をまわったところで、今度は泉が足をとめた。
「黛さん、この作品かなり左へよっていませんか?」
泉がうしろにさがって遠くから作品の間隔を確認すると、黛さんも足をとめてうなづいた。
「そうだな。これはひどい。よし。なおすぞ」
「そんな神経質にならなくても大丈夫じゃないですか?」
黛さんは脚立をとりにいきながら答えた。
「いや。こう云うのはすぐなおしておかないと、あとあと気になるのだ、神崎司」
黛さんがぼくのすぐわきへ脚立を立てると軽快にのぼった。短い制服のスカートがふわりとゆれて美しい脚線美の奥に純白のシルクが光る。ぼくはあわてて車イスを脚立から遠ざけた。
黛さんが作品をワイヤーでぶらさげているレールのフックをふたつ微妙に右へずらすと、水平器つきのメジャーを額の上にあてて、作品をまっすぐになおした。
「泉さんどうだ?」
「さすがです、黛さん。完璧です」
黛さんは脚立からおりて泉のとなりに立つと満足げにうなづいた。
「よし」
黛さんが脚立を元あったところへもどし、ぼくのところへもどってきた。
「ちゃんと気にしているつもりでもこれだ」
そう云って第一展示室をあとにした。
作品はもちろんのこと、黛さんも泉ももう少しぼくの位置から見えるスカートの中のことを気にしてほしい。春のパン祭りならぬ夏のパンチラ祭りだ。
3
第二展示室・第三展示室は美術館2階にある。2階へつづく階段へまきこまれるようなかたちでレトロなエレベーターが設置されている。
むかしのアメリカ映画にでてくるような、外側の鉄骨もあらわなやつだ。
もっとも、安全対策のため全体は透明の強化アクリル板でかこまれているし、エレベーター本体も下半分がスモーク状になった透明な強化アクリル板で内側からおおわれている。
そのエレベーターで2階へ上がり、ぼくたちは第二展示室へ入った。やはり展示室は暗いが、こちらは照明の調整もおわっているので作品は見やすい。
「やっぱりライティングが決まると展示って感じがしますね」
「もっと明るいところで観てほしい気もちはあるが、作品の保護を考えるとこれが精一杯だ」
油彩画の展示なら150~200ルクス、浮世絵版画はその半分以下にあたる50~60ルクスの光量で展示するのがのぞましいとされる。光源は紫外線カットのLEDだ。
第二展示室の中央には版本を展示した平台の展示ケースがずらりと二列にならんでいた。
『椿説弓張月』などの読本や『北斎漫画』だ。壁面には第一展示室同様、浮世絵版画がかけられている。〈為一期〉以前の摺物が多い。
「前期と後期でこれ全部展示替えするんですか?」
「そうだ」
「大変ですね」
「人ごとか?」
「手伝えたら手伝ってますって」
「足が治ったらこき使ってやるさ」
……足が治ったら陸上部へ復帰すると思うんですけど。練習のあとでなら手伝いますけど。
第二展示室のチェックをおえると、さいごの第三展示室へまわる。展示室内のレイアウトは第二展示室とおなじだが、こちらは名所絵(風景画)メインだ。
展示室の奥に脚立が立っていた。その上で背をのばして照明の調整をしている人がいた。
「淡井さんなにしてるの? お昼ごはんは?」
泉が訊ねると、淡井さんはおどろいたようにふりかえった。
「どうしても、ここのライティングが気になって。でも今おわりました。これからお昼にします」
「熱心だな。まだ時間はあるのだから、ゆっくりやればよいのに」
黛さんがぼくの車イスを押しながら脚立の上の淡井さんへ近づいた。
黛さんお願いですからあまり近づきすぎないでください。夏のパンチラ祭り第3弾淡井さんプレゼンツなんてことになったらうれしいけれど困ります。
淡井さんが軍手をとってブラウスの胸ポケットにしまうと、こちらへ背をむけて脚立の上に座った。ヤレヤレ、夏のパンチラ祭り第3弾は回避されたようだ。
「よっと」
淡井さんが脚立に手をついて体をひねりしながらぴょんととびおりると、短い制服のスカートが脚立を安定させるための横の金具へ引っかかり。
淡井さんは完全にスカートのめくれ上がった状態でぼくの眼前に着地した。二度あることは三度目の正直。夏のパンチラ祭り改め夏のパンモロ祭り淡井さんプレゼンツは、かわいいピンクの水玉だった。
「きゃっ!」
腰よりも高い位置でスカートの引っかかった淡井さんはバランスをくずし、ぼくの胸の中へ倒れこんできた。そして淡井さんのスカートに引きずられた脚立も倒れ、ギプスでかためられたぼくの左足を直撃した。
「ぎゃああああ!」
ぼくもたまらず悲鳴をあげ、黛さんがおどろいて車イスから手をはなした。
「ふたりとも大丈夫?」
泉が淡井さんの元へ駆けよってスカートに引っかかった脚立の金具をはずした。ぼくは左足がしびれるように痛くて声もでない。
「大丈夫か、神崎司?」
泉が脚立をかたづけ黛さんが淡井さんの体を抱え起こそうとしているところに、階下で淡井さんとぼくの悲鳴を聞きつけた美術館部のみんながやってきた。
「ちょっとどうしたの?」
「司ちゃんが淡井ちゃんを抱きしめているんだよ!」
「司ちゃん、ナイスエロス!」
「……もはや鬼畜」
「神崎くんたら梓まで!」
淡井さんを抱え起こした黛さんが真顔でボケた。
「……呪いのセクハラ車イス4人目の犠牲者がでた」
ややあって黛さんがぼくの方を見た。ツッコミを期待していたらしいのだが、ちょっと今は痛すぎてムリです。




