第五話 波と雪と富士山と 〈1〉
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「ふわ~あ」
ぼくはだれもいない学芸員室で電話番と云う名の無聊をかこっていた。ひらたく云うとヒマだった。美術館部に入部してこんなにのんびりしているのははじめてかもしれない。
ほかの部員たちは今も展示室で9月にひかえる『葛飾北斎展』の展示準備に忙殺されている。
私立アルテア学園付属美術館は8月25日から展示替えのため長期休館に入っていた。
前回の展覧会の作品搬出は1日で完了したが『葛飾北斎展』展示準備は4日目をむかえていた。
今回は浮世絵版画や版本がメインの展示なので作品数も多いし、備品倉庫から平台の展示ケースをたくさんださねばならなかったりして大変だったらしい。
もちろん、ぼくだって好き好んで電話番に甘んじているわけではない。手伝いたい気もちは山々だが、展示準備には高所作業が多いと云う(て云うか、脚立を使用するだけなんだけど)。
壁面天井のレールからワイヤーをつるして壁に作品を展示したり、パネルを貼ったり、照明の調整をする作業は、車イスで地べたをはいずりまわることしかできないぼくにはムリだ。
展示室をうろちょろされる方がかえってあぶないと云う上層部(美術館部部長・都大路みさご、美術館部2年・黛繭乃)の判断で、展示室立ち入り禁止の沙汰が下された。
みさごさんはともかく黛さんにさからうつもりはない。
正直、作品展示の舞台裏なんかも見てみたかったのだが、ぼくが展示室へ顔をだすと幼なじみの美術館部1年・出雲泉に気をつかわせてしまう。
ぼくが美術館部に入ってから、泉はずっとぼくのお守りをまかされていたのだ。たまにはぼくのことなど忘れて部活に集中させてあげたい。
しかし、電話番と云うのは本当にヒマだ。この4日間でかかってきた電話は7件。美術館の開館時間と休館日の確認がほとんどである。それくらい美術館のウェブサイト(夏希さんのデザインでとてもカッコイイ)で確認してくれればよいのにと思わぬこともない。
休館日でも併設されているレストランは営業していますか? なんてのもあった。もちろん休業である。今は展示作業にいそしむ美術館部員の休憩室だ。
昨日と一昨日のお昼には『葛飾北斎展』会期中にレストラン『水羊亭』でだす特別ランチの試食会があった。
先日ワケあって食べそこねた〈イタリア風柳川丼〉と〈フレンチ風深川丼〉だ。
美術館部の女のコたちに好評だったのは魚介の風味が濃厚で上品な〈フレンチ風深川丼〉だったが、ぼくは卵とじでガッツリ系のイメージがある〈イタリア風柳川丼〉の方がおいしかったと思う。
「……どじょうもうなぎとおんなじで精のつく食べ物って云われてるのよね」
エロスな観点(?)から〈イタリア風柳川丼〉へ軍配を上げた夏希さんの言葉に、上埜さんと小早川さんが上げかけた手を下ろしたので、実質的には5対4の僅差だったが。
窓の外から正午25分を告げる鐘の音が聞こえてきた。4限目の授業終了時間にあわせて鳴るためだ。
美術館では来館者用に正午を告げるチャイムがすでに鳴っている。美術館部員の女のコたちは、レストラン『水羊亭』でおのおの昼食をとっているはずだ。
数週間前まで陸上部のホープだったぼくは、まったく体を動かしていないものだから、お昼になってもさほどお腹が空かない。弁当は持参しているが、ひとりで食べるのも味気ないなと思っていたら電話が鳴った。内線だった。
「はい、神崎です」
「黛だ。昼食はすんだか、神崎司?」
「えっと、お腹が空いてないんで、まだ食べてませんけど」
「展示のチェックをたのみたいのだが、でてこられるか?」
展示のチェック?
「かまいませんけど、電話番はどうします?」
「みさごの机にある電話の留守電ボタンを押せば、休館中の自動メッセージが流れるようになっている」
「わかりました」
ぼくは受話器を置き、黛さんから指示されたとおりにすると学芸員室をあとにした。
……て云うか、休館中の自動メッセージがあるのに、どうしてぼくは電話番なぞさせられていたのだろう? なぞだ。
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「すまんな、神崎司」
レストラン『水羊亭』へ顔をだすと黛さんが云った。
「いいえ。ヒマをもてあましていたのでありがたいです」
「あれ? 司ちゃんどうしたの? お昼すんだ?」
美術館部1年・上埜海香たちと同じテーブルをかこんでいた泉がぼくに気づいてやってきた。
「いいや。まだお腹空いてないんで。泉は?」
「今すませたとこ」
「これから展示のチェックをしようと思って私がよんだのだ」
黛さんの言葉に泉が小首をかしげた。
「展示のチェックですか?」
「うむ。車イスの来館者にも見やすいような展示位置を心がけているが、実際に車イスから展示された作品がどう見えるか、神崎司に確認してもらおうと思ってな」
たとえば、作品の展示位置が高すぎないかどうかとか、作品の正面に立った時、照明が額の低反射強化ガラスに反射して見えにくくないかどうかとか、そう云ったチェックをするらしい。
「どうやっても多少の映りこみは避けられないが、最善をつくしてよりよい展示にするのが美術館部のモットーだ」
しごくごもっとも。
黛さんがぼくのうしろへまわると車イスを押してくれた。
「それではいくぞ、神崎司」
「あ、自分で動かしますよ」
「黛さん、私押します」
ぼくと泉の言葉に黛さんが小さく首をふった。
「……介護者の歩調と云うのも確認しておきたいのでな。今回は私が押そう。不服か、神崎司?」
「いいえ。むしろ恐縮ですと云うか、おそれ多いと云うか。黛さんさえよければぼくはべつにかまいませんけど」
「そうか。ならばいこう」
黛さんが1階の第一展示室へむかってぼくの車イスを押して歩きだした。なんとなく泉もついてくる。
ぼくの横を歩く泉と目があうと、泉はぼくを軽くにらんでぷいと顔をそむけた。……いったいなにが気にさわったのだろう?
私立アルテア学園付属美術館は受付を正面に右翼がレストラン『水羊亭』左翼が第一展示室だ。
「ずいぶん暗いですね」
展示室へ入るなりぼくは云った。
「ここはまだ照明の調整をしていないから作品に照明が当たっていない。作品の展示位置だけチェックしてくれればよい」
入口わきに展示室のテーマ解説パネルが貼られていて、手前中央に版本を展示した平台の展示ケースがふたつ背をむけてならんでいた。
ぐるりには武者絵を中心とした浮世絵版画がかけられているが、展示室の一番奥にある大きな展示ケースは空だ。
「あの展示ケースにはよそから借りてくる肉筆画が展示される。搬入は30日なのでライティングの作業も明日おこなうことになる」
前期が『弘法大師修法図』後期が『鎮西八郎為朝図』である。今回展示される北斎の肉筆画はこの2点のみだが、ぼくはまだどちらも観たことがないので楽しみだ。




