第二話 春朗(しゅんろう)と北斎と卍(まんじ)と 〈2〉
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「……つまり、あれは呪いのセクハラ車イスではなかろうか?」
「そんなまさか」
「そうだよ。きっとそうだよ。神崎司の欲求不満が車イスにのりうつって、美少女をひきよせては毒牙にかけているんだよ。泉ちゃんも被害にあってない? 泣き寝入りはダメだよ」
気がつくなり耳へ入ってきたのは名誉毀損に相当する誹謗中傷だった。声から察するに、黛繭乃、出雲泉、都大路みさごの3人であるらしい。
ぼくは車イスごとななめにたてかけられていた。
介助者用グリップを黛さんの机にかませ、大きな後輪をロックしてリクライニングのような状態にされていた。額の上のぬれたミニタオルがひんやりとして心地よい。
「……一体なんの話ですか?」
額のミニタオルをのけながら訊ねると、三者三様の答えがかえってきた。
「あ、司ちゃん、気がついた?」
「その車イスにはセクハラの呪いがかけられているのではないか? と云う話をしていたところだ」
「あんた、みさごだけじゃなく、マユマユにまでセクハラしてたんだね?」
「人聞きの悪いことを云わないでください。黛さんの場合はぼくにも過失があったかもしれませんが不可抗力ですし、みさごさんの場合は逆セクハラじゃないですか」
「な、なにおう!?」
ぼくは気色ばんだみさごさんをスルーして黛さんへ釈明した。
「黛さん。あなたがみさごさんになにを吹きこまれたかおおよその察しはつきますが」
「つくのか」
「今回はぼくが被害者です。みさごさんはぼくに不意打ちでマウントポジションをしかけてきたんです」
それも顔面にかなりエロいやつを。
「それは本当か?」
黛さんが泉へ確認する。
「……結果的にはそうなるかも」
「ふ、不慮の事故でしょっ!」
泉のあいまいな肯定に逆セクハラ部長が抗弁した。
「大体、みさごさんが階段の手すりをすべり下りるなんてバカなことをしなければ、こんなことにはならなかったんです。作品の搬入中とかだったらどうするんですか?」
「き、今日、そんな予定ないもんっ!」
顔を赤くそめてどなりかえすみさごさんへ黛さんが冷ややかな視線をむける。ぬばたまの長い黒髪をかきあげてヤレヤレと嘆息した。
「そう云う問題ではなかろう。ここはみさごのお屋敷ではないのだ。部長たる者の責任を自覚して、子どもみたいな羽目のはずし方をするな。神崎司が無傷だったからよかったようなものの人や作品を傷つけたらどうするつもりだ?」
「ふみゅう」
黛さんのお説教にみさごさんがしょげた。
〈アルテ・パッジ〉の頂点に君臨する美術館部部長・都大路みさごも怜悧の才媛・黛繭乃には頭が上がらないらしい。
黛さんはぼくを無傷だと云ったが、首のうしろの筋は妙につっぱっているし、気絶へといたった額の痛みはあきらかにみさごさんのヴァイオレンスである。無傷とはこれいかに?
「……まったく、なにが呪いのセクハラ車イスだ」
「それ云い出したの、マユマユじゃん!」
「とにかく。ちょっと見ただけでも、みさごのせいで端がつぶれたりへこんだりして使えないキャプションがいくつかある。全部きちんと確認して、使えないキャプションはみさごが自分でつくりなおすこと」
みさごさんのツッコミを「とにかく」と一蹴した黛さんの言葉に、
「はい……」
みさごさんが悄然とこうべをたれた。どちらが部長かわかったものではない。
「それじゃ、確認作業をしてしまいましょ。司ちゃんも手伝って」
「はいよ」
ぼくは泉の言葉に首肯すると、車イス後輪のロックを外して泉たちのいる大きな作業机へむかった。
「手伝ってくれんの?」
大きなポリ袋をげんなりとした表情でながめていたみさごさんに小さな笑顔が咲いた。
「ついでですよ。どのみちキャプションを展示リスト順にそろえる作業はしなきゃいけなかったんですから」
ぼくのことを「変態人間椅子」呼ばわりしたイチゴパンツの逆セクハラ部長のペナルティにつきあう義理はないが、どさくさにまぎれてぼくたちの仕事まで押しつけてしまうのは気の毒だ。
「それじゃ、まずは前期分からチェックしましょ」
ぼくたち3人は、キャプションを展示リスト順にざっくり5つのグループに仕分けする作業からはじめた。
ぼくが展示リスト片手にいちいち作品名を確認しながら分けていかねばならないのにたいして、みさごさんは作品名を読みとるだけでぱっぱと分けていく。
「早い……」
思わず感嘆の声をあげると、みさごさんは勝ちほこった顔でニヤリと笑った。
「当然でしょ? 北斎の作品は制作年からなんから全部頭に入ってるんだよ。……司ちゃん、ちゃんと北斎の勉強してる?」
「ええ、もちろん」
年号なんかを暗記するのは苦手だが、北斎の生涯や作品について知ることはなかなかおもしろい。
たとえば、北斎は引越魔で生涯に93回も転居をくりかえしたと云う。部屋の掃除は一切せず、限界まで汚れたら引越すと云う生活をしていたからだそうだ。
衣食にも無頓着で、酒やタバコもやらず(焼酎を薬代わりに呑んでいたと云う話もある)絵以外の興味はまるでなかったらしい。
そのくせ2回結婚して6人(一説に5人)の子どもをもうけたと云う。
三女の阿栄は晩年の北斎と生活をともにしながら絵師として佳品をのこしている(画号は葛飾応為)。
90歳まで生きた北斎だが、いまわの際に「あと10年、あと5年生きられれば、完璧な絵描きになれたのに」みたいなことを云ったらしい。すごい執念だ。
正直、絵の見方とか善し悪しなんてよくわからないが、ウラ話的なことを知るだけでも作品や絵師(画家)に対する印象がかわることにおどろいた。
いわゆるひとつの〈絵を観るとっかかり〉って、こう云うことかと思う。
「……て云うか、ちょっと待ってください。どうして、みさごさんに司ちゃん呼ばわりされなきゃならんのです?」
北斎とはぜんぜん関係ないけど。
「なんで? 泉ちゃんがそう呼んでるんだからいいじゃん。それともなに? 司ちゃんを司ちゃんって呼んでいいのは泉ちゃんだけなわけ? それは泉ちゃんにしか許されない特別な呼び方なわけ? ふたりは甘い関係なわけ?」
「いや、そう云うわけじゃありませんけど……」
今日が初対面なのになれなれしいと云うか、上級生のクセに妹キャラっぽくて妙に気恥ずかしいと云うか。
「それとも、つかぴょんの方がいいかな?」
「司ちゃんでお願いします」
ぼくの方が折れた。つかぴょんなんて死んでもごめんだ。
「ちゃんと勉強しているかどうか、みさごがテストしてあげるんだよ」
仕分け作業の手をまったく休めることなく、みさごさんがクイズ司会者になった。
「それじゃ、第一問。北斎最初の画号は?」
「勝川春朗」
「……ですが、彼の描いた看板絵を「師匠の名に恥じる」と云って破り捨てた兄弟子はだれちゃん?」
いきなり変化球ぜめとは。
「そこは「彼が師事した浮世絵師はだれ?」とかじゃないんですか?」
「それじゃ、ふつうすぎるでしょ?」
「そうですけど」
ちなみに、北斎が最初に師事したのは勝川春章。
役者絵(歌舞伎役者を描いた浮世絵版画)を得意とした実力派の絵師である。
北斎は宝暦10[1760]年9月23日(今の暦で10月31日)に江戸本所割下水で生まれる。現代の住所だと東京都墨田区亀沢あたりになるらしい。
姓は川村。ようするに武家の出である。一説に忍者の家系だったと云うからおもしろい。
幼名は時太郎。のちに鉄蔵。4歳の時、幕府御用達の鏡磨師・中島伊勢のところへ養子に出されたが、のちに中島家を出る(ま、こんな話どうでもいいけど)。




