第四話 つかと漫画と剣術と 〈6〉
「江戸時代以前に描かれた合戦図屏風を見ても、今風な刀の握り方している絵なんて1枚もないでしょ?」
「わかった、もうわかった」
上埜さんの猛攻に心太が負けを認めたが、上埜さんの図版をスクロールさせていく手はとまらない。
「これ見て。幕末の日本でフェリーチェ・ベアトが撮った写真」
モノクロに淡く彩色した写真だった。現代とほぼかわらない防具をつけたふたり(少年?)が竹刀をかまえている。それはぼくらがよく知っている今風の握り方だった。
「あと、こんなのもあるのよね」
3枚つづきの浮世絵版画だった。月岡芳年『榊原撃剣会絵図』(明治6[1873]年)である。画面のおちこちに防具と竹刀で武装した男たちが対峙している。
「明治維新のあと、武士階級はなくなるし廃刀令は出るしで、剣術存亡の危機におちいったわけ」
そこでのちに天覧兜割の剣客として知られる榊原健吉らが〈撃剣興行〉と云う試合形式のイベントをおこなったらしい。そのようすを描いたものだ。
「どっちがどっちのチームとかよくわからないんだけどさ、見てよ刀の握り方。ほぼ半々でしょ?」
「ホントだ」
『北斎漫画』の握り方と今風の握り方だ。
「上埜さん。実に刺激的な話だった。感服した」
黛さんが小さく拍手しながら云った。
「この着眼点は美術史家や評論家にはないものだ。いわゆる美術鑑賞の本道ではないかもしれないが、北斎が正確に記録していたからこそ結果として日本古来の剣術のさいごの姿を描きとめていたと云うのは謹聴に値する」
いろんな意味ですごい。上埜さんの指摘も目からうろこだったが、黛さんが1年生部員を賞賛するところもはじめて見た。
「みさごも気づかなかったな。美術ってもっともっと多角的でおもしろい見方ができるんだって、すっごく勉強になった。あ、でも、そっちのくさい人も「北斎の絵は現代の剣道に照らしてみるとまちがってる」って気づいただけでも大したものだよ。ちゃんと絵を観てるってことだもん」
みさごさんの天衣無縫な言葉に学芸員室が凍りついた。
云っている内容自体に問題はないが、心太本人を目の前にして〈くさい人〉とか云っちゃダメだろ? 思ってても云っちゃダメだろ?
ほめられたはずの心太が〈くさい人〉と云われてあからさまに悄然とした。どうやってフォローしようかと灰色の脳細胞をフル回転させていたら、黛さんがぼくたちへむかって云った。
「神崎司、泉さん。受付の交代時間を3分もすぎているぞ」
学芸員室の時計に目をやると、午后3時をまわっていた。上埜さんの話に引きこまれて時間の確認を忘れていた。きっと淡井・小早川班はやきもきしていることだろう。
「あ、急がなくちゃ」
泉の言葉にぼくも首肯する。
「あ、ホントだ。そうですね。心太、疑問は氷解したろ? ぼくたちもでるからおまえもかえるぞ」
「……ああ、うむ」
先ほどまでの威勢はどこへやら、酢醤油の海にゆらめくところてんさながらに脱魂した心太がぼんやりうなづいた。
泉がぼくの車イスを押し、学芸員室の扉のななめ前にとめて扉を内側へあけた。
「ちょっと神崎くん。受付交代の時間すぎて……」
ちょうど外から扉をあけようとしていた小早川さんが、手をかけたドアノブに引っぱられ、つんのめるようなかたちでよろめいた。
倒れかかった小早川さんの正面にいたのは車イスのぼくだ。想定外の事態になれない車イスでとっさの対応なぞできるはずもない。
無意識に車イスの後輪を握りしめて、うしろへ倒れないようにするのが精一杯だった。視界がブラックアウトする。
なんとか倒れまいとした小早川さんが車イスごとぼくにしがみついていた。ぼくの顔面をやわらかく圧迫していたのは、夏希さん云うところの〈美術館部の最終兵器エロス〉である。
「……ぱ、ぱふぱふ!?」
身動きのとれないぼくの耳に心太羨望の響きがとどいた。
「セクハラ車イスの呪いか?」
「つ、ついに3人目の犠牲者がでたんだねっ!」
「やるわね、小早川さん。最終兵器をあのような偶然をよそおって使うなんて。エロスのファンタジスタだわ」
「ちょ……、ヘンなこと云ってないで助けてください!」
小早川さんがのほほんと傍観をきめこむ美術館部2年生たちへさけんだ。
一刻もはやく体を引きはがしたいのだが、ぼくの体の上へ棒のように倒れこんだ小早川さんは、ぼくの体がじゃまでだれかにささえてもらわなければ立つことができない。
手をはなして体をずるずると下ろせば、自然とぼくの股間へ顔をうずめることになるし、彼女のメガネもじゃまになる。
体をずらして横へ倒れこむと云う手もあるが、そうすると床へ体をしたたか打ちつけることになる。
ぼくとしても衆人環視の中で、これ以上甘美な拷問に耐えるのは酷だ。
「あら、大変」
泉のちっとも大変そうでない声が聞こえ、小早川さんの左側へパタパタとまわりこむ気配がした。ぼくは呼吸をずっとガマンしていたのだが、救助隊到着の声に気がゆるんだのか、鼻から少し息がもれた。
「や、ちょっと神崎くん、ヘンなところに息をふきかけな……あっ!」
誤解を招くような小早川さんの声に抗弁することもできないぼくの後頭部を、救援隊その二の上埜さんがはたいた。
「どさくさにまぎれてなにやってんの、この変態!」
泉と上埜さんに両側からささえられて、ようやく体を起こすことのできた小早川さんが、
「ふえーん」
と上埜さんの胸に顔をうずめて泣いた。なんか申しわけない気分は山ほどあるが、ぼくがなにかしたわけではない。ぼくはたまたまそこにいて小早川さんに抱きつかれただけなのに、どうしてぼくが小早川さんをはずかしめたみたいな空気になっているんだろう?
「……乳はむはむした?」
ささやきの毒舌一言主・高城さんが無表情で訊ねた。
「んなことするか!」
「ふえーん」
高城さんの質問に反応したかのように、小早川さんがもう一度泣いた。いやいやいやいや、ちょっと待って、小早川さん。そのタイミングだと、まるでぼくがはむはむしたみたいな印象をまわりにあたえかねないじゃないか。
「……神崎くん。なんと云うかその……うらやましい」
心太、おまえはバカか? そんなこと思ってもこんなところで口に出すヤツがあるか。
「用がすんだらさっさとでてけ!」
上埜さんが小早川さんの背をかばいながら心太にイナズマのようなするどい蹴りを入れた。
「ぐはぁ!」
学芸員室のひらいた扉から廊下へ蹴りだされた心太が悶絶した。
「……それじゃ、いこっか司ちゃん」
困ったような笑顔で泉がぼくの車イスを押した。
「ああ、そうだね。……あの小早川さん、いろいろとゴメン」
とどのつまり、ぼくたちは閉館時間まで受付をさせられた。
あのあと、学芸員室へひとりもどった淡井さんが、みんなからなにを吹きこまれたかさだかではないが、2日ほどぼくにたいする態度がそっけなかった。
小早川さんは今も目があうと顔を真っ赤にしてうつむいてしまうので、会話のつぎ穂がみつからない。
翌日、佐倉心太は剣道部でさっそく両拳をそろえて竹刀を握ってみたが、
「なにやっとる、バカもん!」
と、剣道部顧問に一喝されて、いつもどおりの竹刀の握り方で、いつもどおりの練習をしている。
【第四話 おわり】




