第二話 春朗(しゅんろう)と北斎と卍(まんじ)と 〈1〉
1
アスファルトを容赦なく焦がす反射熱が陽炎を立てる。
セミたちがのこりわずかな命を全力で燃えつくさんと、みゃんみゃん鳴きわめいている。
蒼穹に白い入道雲がもくもくとわきたっている。
これでもか、と云わんばかりの夏である。
「ふう。やっぱり外に出ると暑いねえ」
ぼくの車イスを押しながら、幼なじみで同級生の出雲泉がのんびりとした口調で云った。
彼女が云うとあんまり暑そうにきこえないが、学園校舎から出たとたん、むせかえるような熱波におそわれた。
「サウナか!?」
と思わず天をあおいでツッコミを入れてしまったほど暑い。
ぼくと泉は高等部1年の美術館部部員である。
美術館部とは私立アルテア学園付属美術館の運営をおこなうれっきとした部活動だ。
夏休み返上で学園にきているのは9月から美術館でもよおされる『葛飾北斎展』準備のためである。
今日は午前中から学園の印刷室で『葛飾北斎展』に使用するキャプションづくりをしていた。
ちなみに、キャプションとは展示作品の題名や制作年代、技法、素材などの基本情報を記したプレートのことだ。
上級生部員の作成したデータを印刷し、発泡プレートに貼りつけてカットする。
展示作品の多くが浮世絵版画で、会期中そのほとんどが展示替えされる。そのためキャプションは膨大な量となった。
堅牢な絵肌の油彩画にくらべると、ほぼ染料で大量生産された浮世絵版画は、長いこと明るいところへ置いておくと色あせてしてしまうらしい。
そこで展示室の光量はいつも以上に落とし、短期間で展示替えすると云う。
前期・後期に小分けしたキャプションをビニール袋に入れ、それをさらに大きなポリ袋でひとまとめにする。
そのポリ袋をぼくが抱えもち、泉が車イスを押して学園校舎から美術館へもどるところだった。
「泉。やっぱ、車イスは自分で動かすからいいよ」
ぼくはガサガサと軽い音をたてる大きなポリ袋をひざの上で抱えなおして云った。だれに冷やかされるわけではないが、なんとなく気恥ずかしい。
「そんなおっきな荷物抱えながら自分で車イスなんて動かせないでしょ? 大丈夫。私もラクさせてもらってるから」
車イスを押すよりポリ袋をもって歩く方がラクだと思うのだが、
「えー? でも、真夏のサンタみたいでうさんくさくない?」
と一笑に伏された。……でもちょっと待て。それだと大きなポリ袋を抱えているぼくがうさんくさいみたいじゃないか。
しかし、この炎天下、無駄な議論に時間をついやすのは愚策と判断したぼくはそれ以上の抗弁をあきらめた。
ぼくだって泉に車イスを押してもらう方がラクにはちがいない。
正面玄関から美術館へ入った。
開館中で一般のお客さんもいるため、本当は裏口(作品搬入口)から入った方がよいのだが、美術館に所蔵されている作品盗難防止などもろもろの理由から1年生部員に裏口の鍵はもたされていない。
大きなポリ袋を抱えたぼくたちを見て、受付についていた美術館部1年の上埜海香と高城珠緒が小声で訊いてきた。
「なにそれ?」
「『北斎展』のキャプション」
「……デカ盛り」
ショートカットでくりっとした瞳が印象的な上埜さんが席をたつと、受付のわきにあるバックヤードへと向かう扉をあけてくれた。
「「ありがとう」」
期せずしてぼくと泉の言葉が異口同音で重なった。
「いやはや、あいかわらずご夫婦仲のよろしいこって」
上埜さんがニンマリ笑ってぼくたちを冷やかした。
「……脅威のシンクロ率」
たんぽぽの綿毛みたいにふわっふわなクセっ毛の高城さんが受付についたまま抑揚のない声でつぶやいた。
感情が読みにくいのだが、上埜さんと一緒になってからかっているつもりらしい。
美術館内なので大きな声でやりかえすわけにもいかず、ぼくは肩をすくめた。
泉もふたりに天使のほほ笑みをかえしてバックヤードへはける。これが大人の対応と云うものだ。
「まったく、女のコってのはめんどくさい……」
ぼくが嘆息すると、泉がクスクス笑いながら云った。
「まだめずらしいんだよ。紅一点ならぬ黒一点だから」
……そう。なにをかくそう美術館部は女の園である。
いまだ男子部員の姿を見かけたことがない。
8人いると云う1年生部員で男子生徒はぼくひとりだ。ほかに男子部員は2年生にふたり、3年生にひとりいるらしいのだが、ぼくはまだ会ったことがない。
夏休み中に入部したため2~3年生の総数も把握していない。
「ハーレムじゃないか! ウハウハだな、おい!」
このことを知った陸上部の友だちはそう云ったが(ウハウハってなに?)ハーレムとは、そのいただきに君臨してこその話だ。
ぼくの場合は美術のド・シロートであり、目下、車イス生活と云う事情もあいまって、美術館部の底辺、最下位、盲腸、お豆さん的待遇なのである。
……はやい話がせいぜい〈いじられキャラ〉だ。
「あれ? このキャプションって2階の部室(学芸員室)でいいんだよね? それとも1階の収蔵庫へもっていくんだったっけ?」
2階への階段奥に見えた収蔵庫のプレートがぼくの記憶をあいまいにした。
「部室でいいんだよ」
そう云いながら、泉の押しているぼくの車イスが階段へさしかかった時、階段の石造りの手すりを滑降してくる影がどなった。
「わ、ちょ……あぶなっ!」
あぶないのはあんただ、とツッコミを入れるヒマもなく、ぼくはその影に激突されて車イスごとあおむけにひっくりかえった。
激突の瞬間にキャプションの入った軽いポリ袋を投げ出した無意識の機転は、我ながら称賛に値する。
一方、泉はと云えば、突然の声に思わず車イスから手をはなしてあとずさり、ことなきを得た。
できれば車イスのぼくごとあとずさってほしかったが、なんにせよ彼女が転倒に巻きこまれなくてよかった。
倒れたぼくの顔になにかやわらかいものが押しつけられていた。
前を見ることもできなければ息をすることもおぼつかない。状況把握ができないままパニックを起こしかけた時、
「ふにゃあああああ!」
とマヌケな悲鳴があがった。
顔の前からやわらかいものが急速に遠のくと、目にとびこんできた光景はイチゴ模様と小さなピンクのリボン、そこから生えた2本の……フトモモ?
「スケベ! 変態!」
制服の短いスカートの前を両手で押さえ、真っ赤な顔をしてどなる女のコがいた。
利発そうな顔だちにツインテールがよく似あっている。すらりとのびた四肢に起伏のとぼしいシルエットからかんがみるに中等部の生徒であるらしい。
「あたた……、自分からぶつかってきておいて、そりゃないだろ?」
ぼくは寝転んだままの体勢で反駁した。車イスにおさまったまま倒れたので起き上がることができない。
車イスのうしろについている介助者用グリップのおかげで後頭部を廊下へ打ちつけることこそなかったが、いささか首がムチウチっぽい。
「じゅ、純情可憐な乙女の恥ずかしいところに顔をつっこんでおいて、その云い草はなによっ!」
「純情可憐な乙女が階段の手すりをすべり下りてくるか、ふつう!? きみはここをどこだと思ってるんだ。美術館だぞ!」
人気のないバックヤードとは云え、いかにもすべりやすい石造りの幅広の手すりだとは云え、おてんばイタズラがすぎる。美術館でなくてもひかえるべき行為だ。
「そ、そんなことわかってるもん! ……で、でも、アンタがみさごに恥ずかしい想いをさせたんだから、謝ってよ!」
自分のことを〈みさご〉と呼ぶ童女の羞恥には一定の理解をしめしてやりたいところだが、理不尽すぎる謝罪請求にさすがのぼくも腹をたてた。
腹をたてても体は寝転がったままだけど。
「謝るのはおまえの方だろ!? このお子さまイチゴパンツ!」
「な……なにおう!? この変態人間椅子!」
低レベルな口ゲンカへと発展しかけたぼくたちを、
「司ちゃんも都大路部長も、その辺でやめましょ?」
どんな修羅場もなごませる天使のほほ笑みで泉がいさめた。イチゴパンツの女のコも急に冷静さをとりもどすとしおらしくなった。
「う、うむ。みさごが大人げなかった。……すまん」
それで謝ったつもりか? と腹の虫がおさまらないぼくの心中を察知した泉がさりげなく手打ちにした。
「司ちゃん。これでおしまい。……今、起こしてあげるから待ってね」
泉が車イスを起こそうと、ぼくのかたわらへしゃがみこんだ。車イスのグリップに両手をかけると眼前に泉の胸元がトキメキ急接近してきたのであわてて顔をそらす。
「よいしょ!」
ようやく体を起こしてもらうことができた。それにしても、なんで部長が階段の手すりなんかすべり下り……って、ミヤコオオジブチョウ?
おそまきながらその言葉の意味に気がついたぼくは、思わずツインテールの少女を二度見した。
「……なによ?」
いまだばつの悪そうな表情で仁王立ちする童女が、ぼくの視線に気がついて訊ねた。
「……あの、あなたが美術館部の部長の都大路みさごさん?」
「だったらなに?」
世界に冠たる〈都大路昆布〉財閥の社長令嬢にして、私立アルテア学園理事長の孫娘でもある。
「いや、2年生って聞いてたんだけど、中等部の2年生だったんだね」
中等部の2年生が高等部の〈アルテ・パッジ〉をさしおいて美術館部の部長をつとめていると云うのもオカシな話だが、私立だし理事長権限で理不尽がまかりとおっているのかもしれない。
そんなことを考えていたら、都大路みさごはこめかみにぶっといドラゴン怒りの血管をうかべながらズズイッとぼくへ近づいてきた。
「これが中等部の制服に見えるっつーの? みさごは、れっきとした、高等部2年。歳も、アンタたちの、いっこ上っ!」
言葉の端々から怒気がもれる。気圧されたぼくの口から思わず究極の失言がこぼれた。
「え? お子さまイチゴパンツなのに?」
「こんの変態があっ!」
都大路みさごの強烈な頭つきがぼくの額に炸裂した。うすれゆく意識の中で、
「今のは司ちゃんが悪いわ……」
と云う泉のあきれ声をきいた気がした。