第三話 夜とプールとスクール水着と 〈3〉
「ちょっと待ってください。さっき云ってた〈図〉と〈画〉のちがいですけど、日本絵画の題名って、たいていナントカ図じゃないですか?『秋冬山水図』とか『唐獅子図屏風』とか。『唐獅子画屏風』とかって云いませんよね」
夏希さんの一言で気まずくなった学芸員室の雰囲気をかえようと、ぼくはさりげなく話題をひきもどした。
「かんちがいしているな、神崎司。ここで云う〈図〉や〈画〉は描き手の意識、主観の問題だ」
「……描き手の意識ですか?」
「さっき云ってた〈図〉は動詞。『秋冬山水図』の〈図〉は名詞だと考えればいいんじゃない? 別なんだよ」
泉のフォローに黛さんがうなづいた。
「正確に描写することを〈図〉気韻生動を描くことが〈画〉だと云っただろう」
描き手が〈図〉として描こうが〈写〉(模写)のつもりで描こうが〈画〉として描こうが、鑑賞者からすれば、完成されたすべての絵は名詞の〈図〉となる……と云うことらしい。
「名詞としての〈画〉って、今はジャンル分けにつかわれるよね。さっき云ってた幽霊画とか美人画とか風景画とか」
「ああ、なるほど」
3人の説明でようやく得心がいった。……しかし、今までそんなの考えたこともなかった。つくづく言葉を惰性で使っているなあ。
「そう云えば、北斎は〈画〉だけじゃなくて〈筆〉も使ってますよね。葛飾北斎画とか前北斎為一筆とか」
泉が黛さんへ確認する。
「文化8[1811]年前後から〈筆〉が多くなる。たとえば、肉筆画を〈筆〉浮世絵版画を〈画〉と区別するなど、規則性があるかと思って調べてみたが、そう云うわけでもないらしい。肉筆画からつかいはじめたとは思うが、まあその場のノリだな」
「ノリですか」
とぼく。
「同時期の落款だってキッチリカッチリ統一されてないんだから、そう云うところはイイカゲンなんだよ」
みさごさんの言葉に上埜さんがつづける。
「生活自体がイイカゲンって云うかめちゃくちゃじゃん。着の身着のままで掃除はしない。食いちらかした食器とか鍋とかも洗わず置きっぱなし。出しっぱなしのふとんにはシラミがわいたって云うし。ゴミ屋敷だよ。私ゼッタイ北斎の家とかいきたくない」
「云われてみればそうですね」
泉が笑いながら納得した。
「……北斎ってサヴァンだったんじゃないかなあ?」
夏希さんがのんきな声で云った。
「サヴァン?」
思わず訊きかえす。
「サヴァン症候群か」
黛さんがつぶやいた。
「サヴァン症候群ってなんですか?」
ぼくの問いにみさごさんが答えた。
「サヴァン症候群って云うのは、自閉症とか知的障害でなにかひとつ天才的な能力をもってる人のことを云うんだよ」
TVドラマや映画で有名な『裸の大将放浪記』のモデルとなった貼り絵画家の山下清(大正11~昭和46[1922~71]年)は、サヴァン症候群だったと云われている。
たくさんの風景画を貼り絵で描いた山下清だが、彼はTVドラマのように旅先でスケッチをとったことがない。
彼の作品はすべて八幡学園と云う養護施設のアトリエで制作された。脅威的な記憶力とゆたかな表現力をもちあわせていたのだ。
「たしかにあれだけ緻密な描写力をもっていた絵描きなのに、日常生活で神経質なところがひとつもみられないのはふしぎな気がします」
だらしない生活のなかにもなにかひとつふたつ特別なこだわりをもっていそうなものだと泉が云った。
「サヴァンじゃなくて、アスペルガー症候群かもかも」
みさごさんの口から、またぞろぼくの知らない医学用語がとび出した。
「知的障害がみられないと云う見地からすれば、サヴァンよりアスペルガーの方が近いかもしれないが……」
黛さんが途中で言葉をきった。
アスペルガー症候群も発達障害の一種で特異な才能を発揮するらしい。
「自閉傾向が強いと、ひとりごとをぶつぶつ云ってるなんてのは北斎にもあてはまるかもね」
夏希さんが楽しそうにつぶやいた。
「え? 北斎ってひとりごとを云うクセがあったんですか?」
「いつもってわけじゃないけど、外を歩いている時はずっとお経を口ずさんでいて、知りあいとすれちがっても気がつかなかったんだって」
日蓮宗を信仰していた北斎は蓮華経第二十八品「普賢菩薩勧発品」の「阿檀地」を唱えていたそうだ。で、そりゃなんだい?
「ただ、アスペルガー症候群は創造性の欠如や応用が苦手とも云うではないか。北斎にはあてはまらないだろう?」
「だってサヴァンもアスペルガーも原因が特定されているわけではないし、症例もまちまちなんでしょ? サヴァン症候群やアスペルガー症候群って云うくくりそのものがあいまいって云うかあやふやって云うかイイカゲンなんじゃない?」
云い出しっぺの夏希さんが否定的な発言をした。イイカゲンなのはあなたです。
「才能がないとかいろいろ自分に云いわけして行動を怠ってきた連中のひがみなんじゃないですか?」
「どっちもそうだね」
黛さんと上埜さんの言葉に、みさごさんも首肯する。
「かわり者ってだけでおかしなレッテルはられたら、みさごもマユノのたまんないよねえ?」
「夏希にだけは云われたくない」
「ナッキーだけには云われたくないんだよ!」
ふたりの反駁に夏希さんがあははと笑う。
ぼくたち1年もつられて笑いかけたが、そこで笑ってしまうとどんなとばっちりを食うかわからない。1年生部員は賢明かつ懸命に笑いをこらえた。
「……あれ、そう云えばなんの話をしてたんですっけ?」
おかしな間で会話がとぎれて我にかえった上埜さんが云った。最初は気韻生動がどうとか話していたんだよなあ。
「はいはい! どうでもいいおしゃべりはそのくらいにして、図録もらったら仕事にもどったもどった。展覧会は待ってくれないんだよ!」
みさごさんが手をたたいてはじめて部長らしいことを云った。ぼくたちは素直に仕事を再開した。
ヒマをもてあました夏希さんがぼくのとなりでエロスなちょっかいを出してくるので、さすがの泉も困った顔をしていた。