第三話 夜とプールとスクール水着と 〈1〉
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いつでも静謐な美術館には優雅な時間が流れている。
学究の徒である学芸員、すなわち私立アルテア学園付属美術館の美術館部員たちも、のんびりとおだやかな空気のなかですごしているかと思いきや、意外なほど雑務が多い。
「ちょっと、手のあいてる1年生! 入口まできてくんない?」
学芸員室の扉が乱暴にひらくと、ぼくの知らない女生徒がたっていた。
ゆるやかにウェーブした黒髪を1本のみつ編みでまとめ、赤いフレームのちいさなメガネをかけていた。耳元からこぼれる髪や口元のほくろが色っぽい。
「あ、はい!」
秋にもよおされる『葛飾北斎展』で販売するグッズの発注品目をぼくと一緒に確認していた出雲泉や、展示室に貼る北斎年表パネルのチェックをおこなっていた上埜海香と高城珠緒が腰を上げた。
ぼくも車イスを動かそうとしたら、ほくろメガネの美少女がぼくを制止した。
「あ、キミはいいや。印刷所からとどいた『葛飾北斎展』の図録を運んでもらう仕事だから」
なるほど、ぼくにはムリっぽい。
ほくろメガネの美少女のわきを泉と上埜さんと高城さんが通りぬけると、ほくろメガネの美少女は彼女たちのあとへつづかず、ぼくの方へ近よってきた。
「ふうん。キミがウワサの変態妄想椅子クンか。なかなかカワイイじゃない」
ほくろメガネの美少女が人聞きの悪いよび方で照れるようなことを云いながら婉然とほほ笑んだ。
「えっと、そのよび方はやめてください。ぼくは神崎です。神崎司と云います」
美術館部部長で高等部2年の都大路みさごがぼくの知らないところで悪いウワサを流しているらしい。
思わずみさごさんをねめつけると、みさごさんが目をそらした。……お子さまイチゴパンツのくせに。
「司ちゃんだっけ? 私は2年の夏目夏希。よろしくね」
「よろしくおねがいします。夏目さん」
ぼくは背すじをのばして頭を下げた。
「私のことは夏希おねえさまってよんで」
「……いや、それはなんか恥ずかしいんで勘弁してください。すいません」
「冗談よ。またあとでね」
夏希さんは制服の短いスカートをひるがえすと学芸員室をあとにした。
しばらくすると、茶色のクラフト紙で包装された図録の四角い山が台車で運ばれてきた。
「何冊あるんですか?」
「たった5千部だよ。あ、それは台車ごと作業室のすみへ置いといて」
みさごさんが台車を押してきた泉へ指示した。ここにあるのはごく一部で、のこりの図録は備品倉庫へ運ばれたらしい。
しかし、シロートのぼくには5千部が多いのか少ないのかもわからない。
「もー、こう云う時につかえない男ってサイアク」
肩をもみながらかえってきた上埜さんがぼくへイヤミを云った。
「ケガ人に無茶云うなよ」
「……不名誉の負傷」
たんぽぽの綿毛みたいにふわっふわなクセっ毛をゆらしながら高城さんがささやいた。さりげなくキツイ一言である。
「おつかれー。みんなありがとね」
さいごに入ってきた夏希さんが3人にねぎらいの言葉をかけた。
台車の上からクラフト紙のブロックをひとつ手にすると、みんなより大きなみさごさんの机のすみにのせた。
ていねいに包装を解くと、明るい表紙の図録が顔を出した。
「わ、すてき! ナッキー、やっぱ天才だね!」
みさごさんが表紙のデザインを見て嬉しそうな声をあげた。
「ほら、みんなよっといで。刷りたての図録がきたよ」
夏希さんの声に、みんながみさごさんの机に集まった。
「ひとり2冊までもってかえっていいから。図録もらった人はホワイトボードに名前書いといて」
「はーい!」
女のコたちの輪へ入ることに気おくれしたぼくは『葛飾北斎展』で販売するグッズ品目の確認作業をつづけた。
図録をはやく見てみたい気もちはあるが、あとでゆっくり見たところで鮮度が落ちるわけではない。
「……はい、これ司ちゃんの分」
頭の上から図録が2冊さし出された。司ちゃんとよばれたぼくは、てっきり泉が気を利かしてくれたのだと思いこみ、
「ああ、ありがと」
となれなれしく顔を上げたら、夏希さんがたっていた。
「あ、すいません。泉とかんちがいして!」
「……もう。そんなに私のデザインした図録に興味ない?」
すねた瞳で甘えた声を出す。
「いえ、あのそう云うわけじゃなく。見てのとおり車イスで動きづらいものですから、みんながバラけてからの方がじゃまにならないかと思いまして……て云うか、この図録、夏希さんがデザインされたんですか?」
「……ダメ?」
「いいえ。めちゃくちゃかっこいいです」
手わたされた図録を見たぼくは瞠目した。
いかにもそれっぽく見せているだけのデザインではなく、素人目にも一流のプロがデザインしたとしか思えないほど洗練されていた。
それもそのはずだった。あとで泉から聞いた話によると、夏希さんは10歳で国内外の権威あるデザイン賞を総なめにし〈ランドセルをしょった奇跡のデザイナー〉と評された国際的天才デザイナーだそうだ。
表紙に使用されている図版は『諸国滝廻り 下野黒髪山きりふりの滝』(天保4[1833]年ころ)だった。
『富嶽三十六景』のあとくらいに出板された揃物、すなわち連作の浮世絵版画である。
日光名三瀑のひとつ、黒髪山(男体山)霧降の滝を描いたもので、北斎に興味のない人でも一度どっかで見かけたことあるかも? くらい知名度のある作品だと思う。
ふつう、画集や図録の表紙でカラー図版を加工することはめずらしいと思うのだけど、夏希さんのデザインした表紙はCGで色味に手が加えられていた。
泉いわく「横尾忠則のコラージュほどサイケデリックじゃないけど、色のくずし方のバランスが絶妙」と云うやつだ。
しかし、美術・ド・シロートのぼくにそんな知識や語彙があるはずもなく、かっこいいとしか云えなかったのが情けない。
「すいません。図録のこととかデザインのこととか、ぜんぜん知らないのにナマイキ云って」
「ううん。かっこいいって云ってくれたでしょ? ごちゃごちゃ能書きたれられるより直感でシンプルにほめてもらえる方が、おねえさん嬉しいな」
いつの間にか、ぼくの左側にまわりこんだ夏希さんが、車イスへしなだれかかり肩へ手をまわす。
いや、あのちょっと近いです。どうしてブラウスのボタンが3つもはずれているんですか? 紫の下着のラインがチラチラスケスケなんですけど。あ、なんか甘い香りが。
「北斎って官能的よね。エロスよね。見て、この幾重にも分岐しながら流れおちる滝の描き方。世界にこんな色っぽい滝を描いた絵師ってほかにいるかなあ? しかも彼、この時70代半ばよ。70代半ばのしなびた老人でこの色気ってすごくない?」
滝の流れに長くしなやかな指をはわせながら上目づかいでそう云うあなたの色気が一番スゴイっす。
エロス権現と化した夏希さんに籠絡されかけたその時、怜悧なソプラノボイスがぼくを正気へ引きもどしてくれた。
「あまり新入部員をからかうな。度をこしたエロスとやらは、たんなる色情狂にしか見えんぞ」
学園一のクール・ビューティー、美術館部2年・黛繭乃だ。
「あっれ~? もしかしてマユノ妬いてる?」
「愚問だ」
黛さんの絶対零度な即答に夏希さんがあははと笑った。