第二話 春朗(しゅんろう)と北斎と卍(まんじ)と 〈15〉
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「失礼しまーす」
学芸員室へ入ってきたのは、美術館部1年・淡井梓とエプロン姿の見知らぬ女生徒たちだった。
「あ、淡井ちゃん。料理試作できた?」
作業の手をとめて淡井さんへむきなおったみさごさんが訊ねた。
「はい、一応」
「泉、料理の試作って?」
ふたりの会話の意味がわからず泉へ訊ねると、
「『葛飾北斎展』会期中にレストランで出す料理の試作中なの」
私立アルテア学園付属美術館に併設されている小さなレストラン『水羊亭』も、学園の料理研究部と美術館部が合同でメニューを創作している。
展示がかわるたびに展覧会をイメージしたランチを1~2品創作しているのだそうだ。この展覧会限定ランチを楽しみにくるお客さんも少なくないらしい。
生徒の中にも昼休みに『水羊亭』で昼食をとる常連がいるときく。生徒は無料で美術館へ入ることができるから問題はない。
「で? どうして淡井さんが料理担当なの?」
「司ちゃん知らないの? 淡井さんのご実家は老舗の料亭なの」
ミシュランの3ツ星だそうだ。
「とりあえず、メインを2品用意しました」
「どれどれ?」
みさごさんの机に小さな丼がふたつのせられたトレイが置かれた。
「北斎と江戸を意識して、深川丼にしてみたんですけど?」
淡井さんがフタをあけながら説明する。
「あさり丼だね。江戸の漁師のビンボー食じゃん」
ひどい云い草だ。
「それに魚介をくわえて今回はクリームと白みそでフレンチ風にしてみました」
「で、もういっこは?」
「柳川丼です。こちらはトマトをくわえてイタリア風にアレンジしています」
「どじょう鍋の丼バージョンかあ。まあ卵とじだしね。……ひょっとして重信とかけた?」
みさごさんがニヤリと笑った。淡井さんもやわらかい笑みをかえす。
「あは、わかります?」
「……重信って?」
泉へ小声で訊ねた。
「柳川重信。北斎の弟子のひとりで『南総里見八犬伝』のイラストを描いた人。北斎の長女は彼と結婚して離婚しちゃったんだって」
「ああ、あれか。すっげえ不良だったって云う北斎の孫の両親になるわけか」
「うん」
文政12[1829]年ころから、北斎は悪事をくりかえす孫の尻ぬぐいに奔走していたらしい。
みさごさんの「歴史ミステリ」によると、北斎が孫に忍術の修行をつけていた時期なのだそうだ。……まるっと無視すべきであろう。
「柳川鍋も江戸発祥だもんね」
「天保年間だそうです」
みさごさんのつぶやきに淡井さんがこたえた。さすがは老舗3ツ星料亭の娘。そんなことまで知っているとは。
「『富嶽三十六景』のころだからちょうどいいね。あ、重信の没年も天保3[1820]年だ。かかってる、かかってる」
イヤだろ、そんなかかり方。て云うか、だれが気づくんだ、そんなの?
「いっただきま~す!」
ふたつの丼に口をつけたみさごさんが満足げに云った。
「うん、どっちもおいしいよ。ねえ、みんなも食べてみそ!」
なにもない机につっぷして眠っていた黛さんがのそりと顔を上げた。そう云えばしずかだと思ったら寝てたのか、この人。
「イタリア風柳川丼はなんとなく味の想像もつくが、フレンチ風深川丼はちょっと興味があるな」
みさごさんからスプーンをうけとった黛さんがつぶやいた。話はきいていたらしい。
小さな口で上品にふたつを試食した黛さんが、淡井さんとそのうしろにたつエプロン姿の料理研の女生徒たちへ云った。
「どちらもおいしい。料理研での反応はどうだった?」
「味はどちらも好評だったんですけど……」
「イタリア風柳川丼は調理がね~。どじょうが気もち悪い気もち悪いって、みんな大さわぎで」
淡井さんの言葉に料理研の女子が補足した。
「あっはっは。でも本番は『水羊亭』のコックさんたちがやるからいいじゃん」
「私もどじょうやうなぎを自分でさばいたことはないな」
「マグロの解体はみごとだったけどね」
黛さんの述懐にみさごさんの声がかぶる。……マグロの解体って、このふたり、ふだんどんな食生活をしているんだろう?
「あと、あのこれだとちょっと割高で予算をオーバーしてしまうんですけど」
もうひとりの料理研の女子が云いにくそうに告げた。
「え、どのくらい?」
みさごさんが耳打ちするよううながすと、料理研の女子が小声で金額をつたえる。
「なにそれ! 高っ! ちょっと淡井ちゃん、それってどう云う……」
「最高の食材と希少な江戸野菜をたっぷりつかいたいと思いまして……」
「……なるほど。気持ちはわからなくもないが」
金額を知らない黛さんが、一応、淡井さんをフォローした。
「いい、淡井ちゃん? 最高の食材を惜しげもなくつかえば、おいしい料理ができるのはあたりまえじゃん。かぎられた予算でどう工夫しておいしいものをつくるかが大事なんだよ」
「……はい」
淡井さんが消え入りそうな声でうつむいた。老舗3ツ星料亭の娘さんだけあって、食材にたいするこだわりと金銭感覚はふつうでないらしい。
「どうしても江戸野菜をつかいたいって云うなら小松菜にしようよ。それ以外はふつうのお野菜にして、イタリア風柳川丼にあさりの味噌汁、小松菜のおひたし。フレンチ風深川丼に小松菜のおひたし、おしんこ。これなら予算内でなんとかなるでしょ?」
「ええ。それなら大丈夫だと思います」
料理研の女子が首肯した。
「小松菜も立派な江戸野菜だし。それにもともと葛飾菜って云われてたんじゃなかったっけ?」
「葛西菜です。葛飾区じゃなくて江戸川区です」
淡井さんが申しわけなさそうに訂正した。
小松菜も東京の小松川と云う産地にかかった名前だ。アブラナ科の野菜で冬菜の一種である。
「葛西ってデイネズミーランドの浦安のとなりでしょ? たしかあの辺はむかし東葛飾郡って云われてたはずだから大丈夫、かかってる、かかってる」
そんなムリしてこじつけなくったっていいと思うのだが。て云うか、そんなのだれも気づかないって。
作業机にぶつからないよう慎重に車イスをあやつって、みんなのところへ集まるのがおくれたぼくが手を上げた。
「あの、江戸野菜なんですけど、ものによってはなんとかなるかも」
「本当ですか?」
淡井さんの瞳が一縷の希望にかがやき、
「どうして?」
みさごさんの視線がいぶかしげにつきささる。
「うちが江戸野菜専門の農家なんで」
「ひょっとして、神崎さんって、神崎農園の……」
「うん。淡井さん知ってたの?」
「いいえ。でも、うちの料亭の江戸野菜は、みんな神崎農園から仕入れているんですよ」
そんなことぜんぜん知らなかった。意外なつながりもあったものだ。
「……フレンチ風深川丼、おいしいじゃないですか。クラムチャウダーとも少しちがう感じですね。司ちゃんも食べてみたら? おいしいよ」
泉がいつの間にかふたつの丼に舌鼓を打っていた。
なにげない仕草でさしだされたスプーンに、ぼくは内心ドキッとした。
泉が口をつけたばかりのスプーンを使うと云うことは間接キスになるわけで、それどころか、そのスプーンは妹キャラ全開のみさごさんや学園一のクール・ビューティー黛さんも使っているわけで、などと思えば、それはある意味とてもエロいアイテムでは……。
「あー、司ちゃん、今エロいこと考えてたでしょ!?」
「え、いや、あの決してそんなことは……!」
みさごさんの的確なツッコミに周章狼狽したぼくはあわてて抗弁したが、自分でも顔が赤くなっているのがわかる。
「……呪いのセクハラ車イス」
黛さんのつぶやきとともに、その場にいた女性陣の軽蔑した視線がぼくへそそがれた。部屋の気温が3℃ほど下がった気がする。
「泉ちゃん、それ貸して」
みさごさんは泉の手からスプーンをうばいとると、ふたつの丼ののこりを一気にたいらげた。
「ぷっはー! ごちそうさまっ! 淡井さんも料理研の人たちもありがとう。ほら、変態妄想椅子、作業にもどるよ!」
「だっ、だれが変態妄想椅子ですか!」
黛さんがヤレヤレと髪をかきあげ、料理研の人たちが空になった丼をのせたトレイを手にして学芸員室をあとにした。
「あのそれじゃ、江戸野菜の件については、またあとでお話させていただくと云うことで……」
料理研の人たちのあとにつづく淡井さんが、部屋を出る前にぼくへむかって恥ずかしげに頭を下げた。
「あ、うん。わかった」
「さ、司ちゃん。もうひとふんばりがんばろう」
泉も困ったような笑みをうかべて、ぼくの車イスを作業机にむかって押す。
そののち、作業の手がおそいぼくは、みさごさんの罵声に耐えながら粛々(しゅくしゅく)とキャプションの確認と分類をおこない、とどのつまりは夜までかかってキャプションのつくりなおしにつきあわされた。
……とほほである。
【第二話 おわり】