第二話 春朗(しゅんろう)と北斎と卍(まんじ)と 〈10〉
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「さっき、みさごさんが絵手本の〈戴斗期〉って云いましたけど、北斎の絵手本の代表作って『北斎漫画』じゃないですか? どうして『戴斗漫画』じゃないんですか?」
「戴斗って画号をはじめて使ったのは、北斎51歳の文化7[1810]年ころって云われているんだけど、本格的につかいだすのは『北斎漫画 第二編』(文化12[1815]年)からなんだよ」
『北斎漫画』なのに、作者名は「北斎改葛飾戴斗」である。どうしてこんなややこしい改名をするかな?
「北斎絵手本の嚆矢は、その文化7[1810]年『己痴羣夢多字画尽』ですよね?」
ムダに長いタイトルの本に武部源蔵門人涎操と云うムダに長い名前の著者がいて「葛飾北斎戯画」と記しているが、これが略画の教本であるらしい。
泉の問いかけにみさごさんがつづけた。
「北斎53歳の文化9[1812]年に『略画早指南 前篇』も出てるから、そこから〈戴斗期〉にしてもいいんだけど、やっぱり『伝神開手 北斎漫画』の出版された文化11[1814]年からを〈戴斗期〉ってよぶべきだろうね」
『略画早指南 前篇』は、定規とぶんまわし(コンパス)だけで対象をざっくりとらえて描く方法を記した、斬新かつ画期的な絵手本である。
近代西洋絵画の父と云われるポール・セザンヌ(天保10~明治39[1839~1906]年)は亡くなる2年前に手紙の中で、
「自然を円筒形、球形、円錐形によってあつかい、すべてを遠近法のなかへ入れなさい」
と書いているが、そのおよそ100年前に北斎は極東の小さな島国で似たような理論をだれにでもわかりやすい画法書として出版している。
北斎の感覚は100年後の西洋絵画を先どりしていたと云えよう。
「〈戴斗期〉(文化11~文政2[1814~19]年)の作品でほかに特筆すべきは鳥瞰図の「名所一覧」シリーズかな?」
鳥瞰図と云うのは、ひらたく云うと上から見下ろした絵だ。
古くから『洛中洛外図屏風』のように京都や江戸の都市を見下ろして描く風俗画があった。
しかし、みさごさんの云う「名所一覧」シリーズは、飛行機もない時代に成層圏から日本や中国を見下ろす超鳥瞰図である。
たとえば『東海道名所一覧』大々判(文政元[1818]年)では、全長およそ500kmの東海道を一望できる。
宿場や名所の風物はもちろんのこと、芥子粒のような人まで描きこまれているところは、さしずめ江戸時代のグーグル・アースだ。
ほかにも東京湾周辺(江戸を中心に内房から鎌倉方面)を描いた『房総海陸勝景奇覧』(文政元~2[1818~19]年?)や『木曾名所一覧』(文政2[1819]年)、のちには中国全土を描いた『唐土名所之絵』(天保11[1840]年)まである。
もっとも、それらには京都の横山華山や鍬形蕙斎の前例があり、北斎のオリジナルではないが、構成力や緻密な描写力は圧巻だ。
「蕙斎が「北斎はオレのマネばっかしてる」って批判したって話があるんだよ。ホントだとしたら負け惜しみだよね」
たとえば、歌川広重の代表作と云えば『東海道五十三次』(天保4[1833]年)だが、北斎も文化年間(文化8[1811]年くらいまで)に7種類の「東海道もの」を描きのこしている。
広重の『東海道五十三次』はしょせん二番煎じのパクリかと云われれば、そんなことはない。
風俗に重点をおき、ガイドブック的(?)要素の強かった北斎の「東海道もの」にくらべると、風景画として叙情あふれる美しさを表現した広重の作品はやっぱりすばらしい。
「鍬形蕙斎には「名所一覧」シリーズだけじゃなくて『北斎漫画』に先行する『略画式』って絵手本もあるんだけど、蕙斎の「名所一覧」シリーズにも絵手本にも先行作品があるんだから、自分の首をしめるようなもんじゃん。だから、蕙斎の北斎批判は、それを書きのこした随筆家の偏見だってバカにされているんだよ」
ようするに、軽々しく人の悪口なんか書くものじゃないと云うことだ。
2012年のロンドン五輪でもツイッターやフェイスブックに差別的発言を書いて出場とり消しになった選手もいた。
ブログなんかもそうだけど、記録としてのこるものにうかつなことを書くと、文字どおり末代までの恥になりかねないと云う教訓だ。実に深い。




