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第二話 春朗(しゅんろう)と北斎と卍(まんじ)と 〈9〉

「前の年(文化3[1806]年)の春から夏にかけて、北斎は馬琴(ばきん)の家に寄宿して読本挿絵(よみほんさしえ)の制作をすすめていたんだって」


 泉が補足する。北斎も大変だが馬琴(ばきん)も大変だ。物語が書けていなければイラストを描くこともできないからだ。


 今の小説家とイラストレーターとの関係で異なるのは、読本(よみほん)作家がイラストを描く場面や、その構図(レイアウト)まで決めていたことだ。


 北斎と馬琴(ばきん)の関係で云えば、イラストに関しては北斎が主導権を握っていたものの、馬琴(ばきん)からの注文にたびたび衝突をくりかえし、絶交したともつたえられる。


占夢(ゆめあわせ)南柯後記(なんかこうき)』8冊(文化9[1812]年)のアクションシーンについて、こんなエピソードがある。


 馬琴(ばきん)が登場人物の口に草履(ぞうり)をくわえさせ、すそをからげて描くよう指示したところ、北斎は一笑に()し、


「だれがそんなバッチイもの口にくわえるかよ。だったらオメエさんやってみせろ」


 と啖呵(たんか)をきったらしい。この言葉に馬琴(ばきん)が激怒し、絶交したと云う。


「北斎と馬琴(ばきん)は、その3年後にも『皿皿郷談(さらさらごうだん)』8冊(文化12[1815]年)で最後のタッグを組んでるからこのエピソードはウソぴょんだけど、似たような衝突はあったと思うな」


 みさごさんが作業の手をとめて起伏にとぼしい胸の前で腕を組んだ。


「北斎も馬琴(ばきん)偏屈(へんくつ)で作品への執着は人一倍じゃん? 北斎にしてみれば絵についてはだれにも負けない自負があるし、馬琴(ばきん)は物語世界の神さまなわけだし」


 膨大(ぼうだい)な資料を駆使して物語の細部にリアリティをあたえ、晦渋(かいじゅう)な文章の一字一句にまでこだわったとされる神経質な馬琴(ばきん)


 大胆な構図と緻密(ちみつ)な描写で森羅万象(しんらばんしょう)を自在に描く北斎。


 このふたりがおたがいの仕事にあるていどの共感と敬意をおぼえていたであろうことは想像にかたくない。


「でもでも、おたがいヴィジョンが明確すぎるから妥協(だきょう)できないんだよ。たぶん、最後はおたがいの主張を理解した上で納得できないからタッグを解消したんだと思う」


 サッカーなんかでも個人技に秀でた選手同士がチーム内でもめたりすることがあるけど、ああ云う感じにちかいだろうか?


「北斎と馬琴(ばきん)は一緒に仕事をしなくなったあとでも、たま~に会ってたって云うから絶交もないけど、おたがいの作品の批評とかはぜったいしてないんだよ。それをやっちゃうと平行線の口論がえんえんとつづくだけだもんね」


「みさごさん、よくわかりますね」


 ぼくが感心すると、みさごさんはわざとらしく嘆息(たんそく)して云った。


「マユマユと展覧会の企画会議すると、こだわりが強すぎて融通(ゆうずう)きかないから大変なんだよ。ま、最終的には大人のみさごが妥協(だきょう)してあげるんだけど」


 (まゆずみ)さんに訊いたらぜんぜんちがう答えがかえってきそうな気もしたが、そこはあえてだまっておくことにして。


「で、とどのつまりは4年にわたって北斎と馬琴(ばきん)コンビの読本(よみほん)黄金時代がつづいたわけですね?」


「うん、そう。文化9[1812]年になると、北斎は関西旅行へいっちゃうから」


『葛飾北斎伝』を書いた飯島虚心によると、大阪、和州吉野、紀州、伊勢なんかもまわったとされているが、確実なのは秋ごろから名古屋に長逗留(ながとうりゅう)していたことだけである。


「その名古屋で描いたものが、のちに『北斎漫画(ほくさいまんが)』として出版されることになるんだよ。絵手本の〈戴斗(たいと)期〉がはじまるってわけ」


「そう云えば〈北斎期〉の肉筆画もすばらしいですよね」


 泉の言葉をうけてみさごさんが云った。


「それじゃ司ちゃん。第六問。〈北斎期〉の二大肉筆画ってなーんだ? ひとつはこれまでの話の流れから楽勝でしょ?」


「『鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)図』(文化8[1811]年)です」


「正解ぴょん。ま、これはサービス問題だよね。後期に展示されるからお楽しみに」


 現在、大英博物館におさめられている北斎肉筆画の傑作のひとつで『椿説弓張月(ちんせつ ゆみはりづき)』完結記念として版元が北斎に依頼した作品である。


豪華絢爛(ごうかけんらん)で力強い作品ですよね」


 泉の言葉にみさごさんがうなづいた。


 作品は源為朝(ためとも)強弓(ごうきゅう)()の島の民が数人がかりで引いてもビクともしない場面を描いている。


 ()の島の民とは、馬琴が創造したホビットやドワーフのようなものだ。英雄が異世界でおのれの力強さを誇示(こじ)している場面だと思えばよい。


 読本(よみほん)のイラストにもおなじ場面があるが、それとは左右対称の構図である。


 金の切箔(きりはく)と金粉が画面にちりばめられ、漢画風の硬質な表現技法や西洋絵画技法から学んだ陰影法が独特な表現となって弓を引く島民にほどこされている。


「それじゃ、もうひとつはなーんだ?」


「……ヒントとかもらえます?」


「軟弱者! あなたそれでも男なの?」


 みさごさんがアルテイシア・クム・ダイクンの声色で一喝(いっかつ)すると、


「北斎唯一の重要文化財」


 あっさりヒントをくれた。しかし、北斎の作品で重要文化財に指定されているものと云われてもピンとこない。


 て云うか、北斎の作品で重要文化財って1点だけなのか。もっとたくさんあってもいい気がするのだが。


「ブブー! 時間ぎれ。正解は『潮干狩(しおひがり)図』(文化年間中期[1808~13])でした」


 やっぱりピンとこない。


「ほら、あれだよ。水平線がまっすぐで司ちゃん「ふしぎにしずかな絵だね」って云ってたじゃない」


「え? ……ああ、あれ?」


 泉の言葉で思いだした。


 重要文化財って云うから『鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)図』とか『弘法大師修法(こうぼうたいししゅうほう)図』(弘化[1844~47]年間)みたいに勇壮(ゆうそう)な絵を想像していた。


 日本絵画ってシロートのぼくからすると「なんでこんなの描いてるんだろ?」みたいな作品も少なくないんだけど、潮干狩(しおひが)りってのも意外だ。


 画面右側に3人の女性が描かれているから美人画的要素があるのかな? と思わないこともないけど、それにしては空間がポンっとぬけていて海の広がっているさまが風景画(名所絵)っぽくもなくてふしぎだ。


 画面の上、1/3くらいのところに水平線があって、遠景の山々や白くうき出た富士山が西洋的陰影法で描かれている。


 近景の岩は淡彩(たんさい)の漢画風で、人物は濃彩の浮世絵風なのだが、違和感なくまとまっている。


 子どものころから、背景は紙にポスターカラーで描かれているのに、人物はのっぺりとしたセル画で描かれているTVアニメを見て育ったせいかとも思ったが(今はセル画じゃなくてデジタルペイントだけど)、むしろ『潮干狩(しおひがり)図』のような先行作品があったからこそ、日本人はTVアニメを欧米人以上にうけ入れ、発展させてきたのかもしれない。


「〈宗理(そうり)期〉の肉筆画ってやわらかい印象がありましたけど〈北斎期〉に入るとかっちりした独特の画風になりましたよね。大和絵の土佐派とも漢画系の狩野派とも洋風画ともちがう雰囲気と品格で」


「美人画も楚々(そそ)としたお嬢さんから、精悍(せいかん)で色気のある女性を描くようになったしね」


 わかりやすく云うと、モデルが泉から(まゆずみ)さんへかわった感じだ。


 もっとも、(まゆずみ)さんの怜悧(れいり)美貌(びぼう)は、北斎の描く美人画ほどお色気ムンムンではないが。


 浮世絵美人って「どこが美人なの?」と首をかしげたくなるものも多いんだけど(歌麿の美人画を見て、ふつうに美人だなあとかカワイイとか思える?)〈北斎期〉以降の肉筆画を見ると、浮世絵美人を見なれていないぼくでも「これは美人だ」と思える作品がある。

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