第一話 ぼくと泉と美術館部と
1
驟雨が夏のうだるような暑さに一服の涼を運んできた。
ザアッと空の哭く音とともにグラウンドの方から嬌声があがる。
ここからようすをうかがうことはできないが、部活中の運動部の生徒たちが突然の雨をしのごうと右往左往しているのだろう。
雨上がりのぬかるんだグラウンドは足をとられるし、汚れるから好きじゃなかったけど、夏の雨に打たれるのは好きだった。……もう、しばらくそんなことはできそうにないけど。
ぼくは〈美術館部〉部室、すなわち私立アルテア学園付属美術館・学芸員室の大きな窓の外をながめながら、知らずため息をついた。
「どうした神崎司。もうお腹が空いたのか? さっきお弁当を食べたばかりではないか」
傷心の嘆息を空腹とかんちがいするデリカシーのカケラもないソプラノボイスを背にうけて、ぼくはがっくりと肩を落とした。
ふりかえるまでもない。高等部2年・黛繭乃だ。
シカトを決めこむつもりだったが、幼なじみの無邪気な声がバトンを継いだ。
「え~? 司ちゃん、もうお腹空いちゃったの? おやつにいただこうと思ってた黄桃のロールケーキがあるけど食べちゃう?」
「いや。まだいらないって」
ぼくがぎこちない動作で車イスごとむきなおると、高等部1年・出雲泉が慈愛にみちた聖母のほほ笑みをうかべていた。
キリスト教絵画に描かれる聖母マリアのどこかさびしげなほほ笑みではなく、遠赤外線効果で心の芯までほっこり温かくなるような癒し系の笑顔だ。
「冗談。お茶いれたから、飲も」
泉はぼくのうしろへまわると車イスをロココ調の応接セットへむけた。
「自分で動かせるからいいよ」
些末なことまで手助けしてもらうのが気恥ずかしくて断ったのだが、泉は首を小さくかしげて云った。
「ちょっと、看護師さん気分?」
舌足らずな泉の言葉を要約すると、車イスを押すことを楽しんでいるそうだ。
「じゃあ、今度はぜひミニスカ看護師さんのコスプレでたのむ」
ぼくの冗談に泉が頬をそめた。
「……司ちゃんのエッチ」
「冗談だよ」
そこはさらっと流してほしかった。真にうけられると、ぼくの方が照れる。
コスプレ趣味はないけれど、泉にミニスカ看護師さん姿なぞさせた日には男子生徒たちが歓喜のうちに昇天してしまうだろう。
たおやかな容姿のみならず性格の面から云っても似あいすぎると思う。
泉がだれにでもやさしく困った人を放っておけない性分だから、ぼくも今この部活にいるのだ。
「黛さんもいかがですか?」
泉が黛さんへ声をかけた。
美術館にはほかの美術館部員もきていたが、受付やら売店やら見まわりやら調べものやら作品解説ツアーのガイドやらなんやらで出はらっていて留守だった。
学芸員室にいるのはたまたまぼくたち3人だけだ。
黛さんは人と群れたり社交辞令の会話を楽しむ感じの人ではないので、にべなくすげなく断られるかと思ったが、
「ああ。ありがたい。いただこう」
あっさりうなづいた。
個別にわりあてられた上級生部員の机の上は、いかにも学究の徒らしくパソコンのまわりに資料やなんかがうず高くつまれていて乱雑を絵に描いたようなすさまじさだが(なぜかアニメの美少女フィギュアまみれの机とかもある)黛さんの机だけは整然としていた。
資料やら文献のたぐいは一切なく、とじられたワインレッドのノートパソコンが1台あるだけだ。
極端なきれい好きなのか、たんにやる気がないだけなのか判然としない。
そんな机の上にスラリとのびた脚線美を惜しげもなく投げ出し、退屈そうな表情で文庫本を読んでいた黛さんが、猫のようにしなやかな動きで席を立った。
ぬばたまの長い黒髪に切れ長の瞳。どこか陰のある怜悧な美貌は〈氷の女王様系美少女〉であり〈癒し系美少女〉出雲泉の対極と云えよう。
4人がけの応接セットの手前のイスをどかして、ぼくは車イスごとパイルダーオンした。
病院から貸し出された無骨な車イスと、瀟洒な彫刻のほどこされたロココ調の応接セットがあからさまにそぐわない。
泉がぼくの左へ腰かけ、あろうことかぼくの正面に黛さんが座した。
「どう、司ちゃん? 少しは美術館部になれた?」
暑い時に熱いものを飲むと汗がひくと云う〈おばあちゃんの知恵袋〉的セオリーに准じた泉が、熱いほうじ茶をそそぎながら訊いてきた。
しかし、なんて云うかぎこちない質問だ。泉が訊きたいのではなく、黛さんへきかせたいのだろう。
ぼくが1日でも早く美術館部の人たちと打ち解けるられるよう、話す機会をつくってくれているのだ。
気もちはうれしいのだが、黛さんはつねにぬき身の日本刀と云うか、隙がなさすぎると云うか、とりつく島のない感じが苦手だ。
「まだ展示室とか美術館図書室をのぞいただけだし、仕事も受付に座ってただけだから、なれたってほどではないかな?」
ぼくは泉へこたえた。美術館受付の女のコたちが昼休みをとっている間、泉とふたりで受付をまかされていたので昼食がおそくなった。
「あせることはない。ケガにさわるといけないから、ゆっくりなれればよい」
意外なことに、フォローしてくれたのは黛さんだった。
「この美術館も重文(需要文化財)クラスの建築物だからな。車イスでコケて傷でもつけられたら困る。あまつさえ展示品を破損したり、どさくさにまぎれて鑑賞者を押し倒し、抱きしめるなどの不埒があればなおのこと……」
「……あれはワザとじゃありませんてば!」
黛さんのあてこすりにぼくは反駁した。歯牙にもかけないそぶりをしていたが、やっぱり根にもっていたらしい。
「なあに? なにかあったの?」
ひたすらマヌケな話なので泉にはだまっていたのだが、ぼくが〈美術館部〉に入部(仮)して2日目のことだ。
ちょっと職員室に用があって美術館をぬけだした。スポーツ保険の書類をうけとりにいかねばならなかった。
美術館の玄関正面には6段の石段がある。
左右に長い石段の両端にはゆるやかなスロープがついているのだが、ぼくはほんの出来心から石段を車イスで下りてみようとした。
MTBでバランスをとりながら急な階段を下りるように、この程度の石段くらい難なく下りられると高をくくったのである。
しかし、車イスの後輪だけでバランスをとるのは想像以上にむずかしかった。最初の1段を下りてバランスを崩しかけたところで急に声をかけられた。
「……なにをしている?」
階段に集中しすぎてまわりの見えていなかったぼくがおどろいて顔を上げると、黛さんの冷ややかな視線に射ぬかれていた。
しょうもないイタズラを見とがめられて動揺した途端、バランスをくずして車イスごと前へつんのめった。
「あぶない!」
ぼくとしては傍観されていた方が被害も少なかったはずなのだが、黛さんは小さくさけぶとぼくの方へ駆けよってきた。
「あぶない! 先輩こそどいて!」
黛さんはぼくの身体を抱きとめようとしたが、華奢な女のコにそんな芸当はムリだ。
ぼくはうしろへ倒れかかる黛さんの頭と体をしっかり抱きしめると、自由の利く右足1本で石段を蹴ってななめに飛んだ。そのまま倒れると上から車イスが降ってくるからだ。
空中で体をひねって背中から地面へ倒れこんだ。強い衝撃で息がつまる。ギブスで固められた左足が死ぬほど痛い。
アホなことをしたおかげでヒドい目にあった。こんなことでケガの治りがおくれたら泣くに泣けない。
とりあえず、黛さんをケガさせずにすんだことだけは僥倖だった。ホッとしかけたその時、耳元で絶対零度のささやきがもれた。
「……一体いつまでこうしているつもりだ?」
ぼくも云われて気がついた。黛さんの白い頬がぼくの頬にぴったりと密着していた。彼女が頭を打たないようにと必死で抱きしめたままだったからだ。
ぴったりと密着していたのは頬だけではなかった。
ご都合主義のマンガやアニメみたいに、もう片方の手が黛さんの胸をさわっていた……なんてことはさすがにないけど、夏服のうすいブラウスやらなんやらごしに押しつけられたやわらかなふたつのふくらみやら温もりやらに動転したぼくはあわてて手をはなした。
「ああっ! すいません、ごめんなさい! 大丈夫でしたか!?」
黛さんは無言で身体をひきはがすと、こともなげに云った。
「……うちの部活で上級生を先輩と呼ぶのは部長命令で禁止だ。以後、気をつけるように」
学園理事長の孫娘で海外生活の長かった部長の都大路みさごが、長幼の序をうっとうしがったための規則だ。美術館部では上級生を〈さん〉づけで呼ぶ。
そうは云っても、ほかの部活や学生間では長幼の序が重んじられるし、ついこないだまでぼくの所属していた陸上部でも、記録の優劣とは別に先輩後輩の上下関係はきびしかった。
一度、身についた習慣を急にかえるのはむずかしい。
「すいません、以後、気をつけます。黛せ……さん」
ぼくが腕立て伏せの要領で起き上がると、その間に黛さんは倒れていた車イスを起こして、そのまま美術館へと踵をかえしていた。
「ありがとうございます」
ぼくが云ったお礼の言葉にふりかえることもなく黛さんはその場をあとにした。
この時の申しわけなさと感謝の気もちがうしろめたさとともに苦手意識へ変化したらしい。原因はまるっとぼくにある。
詳細をぼかしてミニマムな事実だけを端的につたえたのだが、ぼくの顔にそそがれる泉の視線はいささか冷ややかだった。
「……ふうん。そんなことがあったんだ」
「いやもう我ながらアホなトライで……」
不可抗力とは云え「黛さんを抱きしめてしまった」と云う事実からなんとか話をそらそうと、話の重点を「車イスで階段を下りる」方へむけたつもりだったが、
「そのアホなトライとやらに巻きこまれ、胸やら尻やらさわられたのだから、たまったものではないな」
黛さんが事実無根の虚偽報告をした。
「つ、司ちゃん!?」
「し、してないっ!」
語気あらくつめよる泉の剣幕にあわてて首をふる。
そんなぼくたちのようすをながめていた黛さんが唇の端をほんの少しだけつり上げた。
微笑と云うより微々笑とか極微笑と形容するのがふさわしいほどに一瞬でわかりにくい笑みだ。
「本当に泉さんはかわいいな」
その言葉にだまされたことを悟った泉は、おもちみたいにぷーっと頬をふくらませてむくれた。
怒りの矛先を黛さんへむけるわけにもいかず、うらみがましい目つきでにらまれたのはぼくだ。
ぼくはヤレヤレと肩をすくめながら思った。
……やっぱり、黛さんは苦手だ。
2
ぼくたちの通う私立アルテア学園は東京北西部にある古刹の名門校である。
荘厳な洋館の校舎に緑ゆたかで広大な敷地はヨーロッパにいるような錯覚すらおぼえる。
魔法の杖や空飛ぶホウキをもったメガネの少年が歩いていても違和感はない。
ふつうでないことをさがす方がむずかしいと云われるこの学園のきわめつけが〈私立アルテア学園付属美術館〉の存在であろう。
芸術系でもない学園に国内外の至宝を集めた小さな美術館があるのだ。
国際的にも信用のあつい美術館であるらしく、昨年はレオナルド・ダ・ヴィンチ『モナリザ』、一昨年は門外不出と云われる近代美術の殿堂バーンズ・コレクションの展覧会がもよおされたそうだ。
よく知らないけど、すごいことらしい。
私立アルテア学園付属美術館最大の特徴は、生徒によって運営されていることだ。
それがぼくもかりそめに籍をおく「美術館部」である。絵を描いたり彫刻を造ったりする「美術部」は別にある。
一応、美術館部はれっきとした部活なので、美術好きの泉や門外漢のぼくでも入部することはできるが、美術館部の中核をになうのが世界最高(最凶?)とうたわれる高校生学芸員チーム〈アルテ・パッジ〉である。
運動部で云うところのレギュラー選手みたいなものだ。
その調査・研究レベルはルーブル美術館やボストン美術館をはるかに凌駕するとも云われている。
彼らは世界中の美術館に招聘され、展示の企画や調査・研究にとびまわっているらしい。
云わずもがなの話だが、黛繭乃も〈アルテ・パッジ〉のひとりである。
泉によると、黛さんが夏休みにこんなところで油を売っているのはめずらしいのだとか。
……で、どうしてぼくがさっきからいろんなことを伝聞推定で語っているのかと云えば、美術館部はもとより美術のこともまったく知らないちゃきちゃきのシロートだからだ。
ぼくは10日ほど前まで中距離走の陸上部員だった。
そもそも私立アルテア学園へ入学できるほど家が裕福なわけでもなければ頭がよいわけでもない。
800メートル走・インターミドル7位と云う実績を買われてスポーツ特待生、すなわち学費免除の推薦入学をはたしたのである。
私立アルテア学園の運動部はぶっちゃけあまり強くない。
そのため、ぼくは陸上部でつねにトップの記録をたたき出し、いきなりレギュラーとして前途洋々だったのだが、悲劇はインターハイで起きた。
コーナーでうしろから強引にわりこもうとした選手に接触されて転倒。さらに後続の選手数人にふんづけられて左足のじん帯やらアキレス腱を断裂し、そのまま病院送りとなった。
選手生命すらおびやかす深刻なケガだった。ふつうに歩けるまで最低でも半年はかかると医者に宣告された。
「翼をもがれた鳥」と云う常套句があるが、ぼくの心境はまさしくそれだった。
ほぼ唯一とも云えるとりえを失ったのだ。生きている意味すら奪われた気になった。
最初の数日間は暗鬱とした気分で絶望をかみしめていた。
陸上部の人たちが心配してお見舞いにきてくれたが、彼らの顔を見るのがつらくて面会を断ってしまったほどだ。
気分はかぎりなく暗黒に近いブルーだった。
そんなぼくを見かねた幼なじみの出雲泉が、気分転換に誘ってくれたのが私立アルテア学園付属美術館だった。
泉は美術館部に入りたくて私立アルテア学園を受験した筋金入りである。
入学当初、ぼくは学園にそんなものがあるとは知らなかったので、
「ねえねえ、司ちゃん。私、ビジュツカンブに入ったんだ」
と泉から満面の笑みで告げられた時、
「……なんの幹部になったって?」
思わずそう訊きかえしたくらいだ。
ふつうの人の脳内文字変換機能に「美術部」はあっても「美術館部」はないと思う。
前々から泉に学園付属美術館へ足を運ぶよう誘われてはいたのだが、学園生活になれていない高等部1年の一学期は部活や勉強についていくのがやっとである。
入学早々、陸上部のレギュラーとして地区予選大会に出場していたぼくには、美術観賞にいそしむだけの時間的精神的余裕はなかった。
「夏のインターハイがおわったら少しは休みもあるはずだから、その時にいくよ」
その約束は図らずも不幸なケガによって実現した。
3
美術館には印象派から20世紀前半の前衛絵画が展示されていた。某ベルギー人のコレクションだそうだ。
ぼくはその展示でジョルジュ・ブラックの贋作を見破ってしまったのだ。贋作とはすなわちニセモノのことである。
もっとも「贋作を見破った」と云っても名探偵みたいに、
「これは贋作だ!」
なんて堂々と看破したわけではない。
車イスを押してくれる泉と展示をまわりながら、3枚ならんでいたブラックの作品を遠目からながめてなにげなくこう云っただけだ。
「……なんかあの1枚だけ、雰囲気ちがくない?」
カンヴァスの上に模様のついた紙などを貼り、その上から絵を描いたりする〈パピエ・コレ〉と呼ばれる技法の作品である(もちろん、その時はそんなこと知らなかったけど)。
「え~、そうかなあ?」
泉が首をかしげながらブラックの作品へぼくの車イスを近づけた。
遠目で見ていた時の方が全体の色のバランス感覚のちがいがハッキリしていたが、その1枚だけ筆触が粗かった。
どうして美術のシロートであるぼくにそんなことがわかったかと云うと、生まれた時からたくさんのマンガにかこまれてすごしてきたからだ。
父さんが大のマンガ好きで、蔵書は5万冊をこえているらしい(どうやって数えたんだか?)。
絵本がわりにマンガを見て育ったぼくは、気がつけば名前も知らない背景アシスタントの線のクセまで見わけられるようになっていた。
門前の小僧、習わぬ経を読みすぎ注意報である。
「やっぱり、これだけ筆触がちがうと思うんだけどな」
「またあ。そんなわけないじゃん。〈アルテ・パッジ〉の人たちが借りてきたんだよ。ニセモノなんてこと……」
「それが、あるのだ」
ぼくたちの背後から涼しげなソプラノボイスがささやいた。
「黛さん!?」
泉がおどろきの声をあげた。
「さすがに泉さんの友人だけあって目が肥えているな……って、キミはウチの高校の生徒なのか?」
左からまわりこんできた怜悧な印象の美少女が、車イスに座るジャージ姿のぼくを見て意外そうな顔をした。
「キミ時間はあるか? このあと特に予定がなければ、泉さんと一緒に学芸員室へよってみないか?」
「あ……はい。別に大丈夫ですけど」
展示室のお客さんはそれほど多くなかったが、ここで贋作が展示されているなんて話をつづけるわけにもいかないのだろう。
「よかったね、司ちゃん。学芸員室なんてふつうの生徒はめったに入れないんだよ。それじゃいきましょ」
泉が美少女へ小さくうなづくと、ぼくの車イスを押して学芸員室へと足をむけた。
これがぼくと黛さんのファースト・コンタクトだった。
4
「……それはおどろいた。キミは美術観賞の素人なのか、神崎司?」
「はい」
学芸員室で自己紹介をすませたぼくに黛さんが感嘆した。
「マンガでつちかわれた審美眼と云うのも、自明ではあるがおもしろい。美術館部の1年生であのブラックを贋作と看破した部員はひとりもいないのだ、神崎司」
「それじゃ、2年生の先輩方は知ってるんですか?」
「当然だ。それくらい一目で見ぬけないようで美術館部の部員はつとまらん」
「……すいません」
泉が申しわけなさそうに頭を下げた。
「〈アルテ・パッジ〉が贋作など借りてくるはずもないと云う先入観にとらわれていたのだろう。「王様はハダカだ!」と云った子どもに一本とられたと云うわけだ」
黛さんが泉にやさしく云った。
それにしても、どうしてブラックの贋作に気づいたぼくの方がバカにされている気がするのだろう?
「えっと、先輩はいつから、あのブラックが贋作だと知っていたんですか?」
ぼくが訊ねると、
「はじめからだ」
さも当然と云わんばかりに答えた。
「先輩たちは贋作だと知っていながら借りてきたんですか?」
「もちろん。よくあることだ。ちなみに、まだキミは見ていないようだが、さいごの展示室にあるルノワールの小品も贋作だ、神崎司」
「どうして、贋作とわかっていて展示するんですか? それってお客さんをだましていることになるんじゃないですか? 贋作だって説明しないんですか?」
「……人の世にはいろんなしがらみと云うものがあるのだよ、神崎司」
たとえば、今回のような個人コレクターの収蔵品の場合、コレクターは大枚をはたいてすべて真作と信じて購入している。
また、コレクター心理として自分のコレクションは独占したい一方で自慢したいものだ。
有名な美術館へ貸し出され、図録に掲載されることはひとつのステイタスとなる。
その自慢のコレクションを「これとこれは贋作だからいりません」と云われたらどうだろう?
コレクターは自分の審美眼を否定され、プライドを傷つけられる。
腹をたてたコレクターにコレクションの貸出しや調査を断られてしまえば、美術館もそれ以外の名品をたくさんの人たちに観てもらえる機会をうしなう。
そのため、ひそかに相手の顔をたてることも必要なのだそうだ。
「今回、私はあのコレクションのカミーユ・ピサロを紹介したいと思っていたのだ、神崎司。あのすばらしい作品を多くの人に観てもらうためなら、たった2点の贋作に目をつぶることなぞ些末なことだ」
云いかえれば、たまたまその2点がハズレだっただけで、あとは真作なのだから目くじらをたてる必要もないか。気づく人は気づくんだし(ちょっと自慢)。
「それに1年生部員の審美眼もテストしておきたかった」
「……それじゃ、私は美術館部員失格と云うことですか?」
泉が不安げに訊ねると黛さんが頭をふった。
「いいや。美術館部は〈学びの場〉だ。失格なんてない。たんに部員の審美眼をたしかめておきたかっただけだ。それによって勉強の仕方を考えていけばよいと思ってな。はじめから完璧な人などいないし、私でもまちがうことはある」
黛さんの言葉に泉が安堵の表情をうかべた。
「後日、1年生部員を集めて〈贋作さがし〉をするつもりだ」
審美眼をやしなうためには、とにかくたくさんの〈実物〉を観ることだ、と黛さんは云う。
そのためには贋作の〈実物〉だって観ておくべきなのだと。
「……美術鑑賞は真贋を見きわめるのが本質ではない。研究者としてそう云う観点は必要だが、もっとも大切なことは自分が作品からなにをどう感じるかだ。心がゆたかであれば贋作からでも得るものはあるだろう」
立派なことを云うなあと感心した。胸だけなら黛さんより泉の方がゆたかで立派だけど。
「あの、先輩?」
「なんだ、神崎司?」
「後日、1年生部員を集めてテストするって云ってましたけど、泉はどうするんですか? ルノアールも贋作だってバラしちゃってましたけど?」
「……」
だまりこんだ黛さんの頬が心なしか赤い。おくればせながら自分の失策に気づいたようだ。
黛さんは自分のカバンから展覧会の招待券を2枚ひき出すと泉へ手わたした。
「国立近代美術館でもよおされている『印象派・梅宮コレクション展』のタダ券だ。先日、私も観てきたが贋作は4枚。神崎司と一緒にさがしてこい」
「はい!」
泉が明るくまじめに答えた。しかし、少々疑問がある。
「……どうしてぼくも一緒なんですか?」
「泉さんひとりだと贋作さがしに熱中しすぎて、作品を味わって観る楽しみを忘れてしまうかもしれないだろう?」
泉がハッとした。そうかもしれないと思ったのだろう。
「キミはひとつの作品から最低3つは感じたことや気になったことを泉さんと語るのだ、神崎司。疑問が多くなればなるほど作品への見方は深化する」
「それってどう云うことですか? 疑問が多いほどわけがわかっていないことになりませんか?」
「よくないのはわかった気になっていることなのだよ、神崎司。たとえば、海の絵を見て「海だ」としか思えないのが一番こわいのだ」
「……きれいな海だ、でおわってしまうのではなく、その先と云うか奥を感じるために、たちどまって観る、みたいなことでしょうか?」
云ってる本人もよくわかっていないのだが、ぼくの言葉に黛さんが沈思しながらうなづいた。
「キミはなかなかみどころがありそうだ、神崎司。当分、陸上部へ復帰できないのだからやることもないのだろう? 私たちの部で泉さんと一緒に美術鑑賞の楽しさを学んでみてはどうだ?」
「そうしよう、司ちゃん! ぜったい楽しいよ!」
泉の無邪気な笑顔に断るタイミングを逸したぼくは、なしくずしに美術館部へ籍をおくこととなった。
5
「……ところで、神崎司。北斎の勉強は進んでいるか?」
「え? あ、はい。一応」
いきなり訊かれておどろいた。私立アルテア学園付属美術館では9月から所蔵作品を中心とした『葛飾北斎展』がもよおされる。
美術館部の活動のひとつに美術館入館者を対象とした作品解説ツアーがある。
今は夏休み中なので、毎日、午前と午后に美術館部の部員が交代でおこなっているが、ふだんは土日祝日の午前と午后におこなわれる。
車イスのぼくに作品解説ツアーのガイドをさせるかどうかは〈アルテ・パッジ〉ら上級生の間で検討中だそうだ(車イスとか云う以前にガイド内容をおぼえられるかどうかすらアヤシイところではあるが)。
8月下旬には作品解説担当の部員(主に1年生)がガイド内容について鳩首凝議することになっている。
おそらく美術館部の1年生部員であれば、わざわざ北斎の基本情報なんて押さえておく必要もないのだろうが、ぼくは「富士山を描いた浮世絵師」くらいの知識しかなかったのでイチから勉強しているところだ。
「あ、そうだ。せん……黛さん。このあいだ泉から借りた高橋克彦『北斎殺人事件』におもしろいエピソードがあったんですけど」
「おもしろいエピソード?」
「ええ。昭和初期に北斎の遺体が発掘されたって云うんです」
「北斎の遺体?」
本を貸してくれた当事者の泉が首をひねった。作中に蛇足として記されていたので失念しているのだろう。
「うん。北斎の菩提寺である浅草の誓教寺から、北斎の遺体が完全なカタチで発掘されたんだって」
「その根拠は?」
黛さんが訊ねた。
「秦秀雄と云う人がどっかに記事を書きのこしているんだそうです」
「あいまいだな。そう云う時はちゃんと原著・初出を確認しておけ。誤字脱字はもちろんのこと、子引孫引で書かれた内容がゆがんでつたわることも少なくないからな。ひどい時には記事そのものが捏造されていることもある。……民明書房の出版物は要注意だ」
黛さんがクスリとも笑わずにボケた。一昔前の少年マンガまで読んでいるらしい。泉はそれが冗談であることにも気づかず、ふんふんとまじめにうなづいている。
「泉。さいごのは『男塾』ネタだから信用しちゃダメだよ」
「え? そうなんですか?」
「よく知ってたな、神崎司。まあいい。つづけろ」
「……秦秀雄って云う人の奥さんが誓教寺の娘で、北斎の遺体が発掘された3ヶ月後にその奥さんが父親の住職からきいた話なんだそうです」
「秦秀雄ってどなたですか?」
泉が黛さんへ訊ねた。ぼくが知らないことは云うまでもない。
「はた万次郎?」
また黛さんが真顔でボケた。
「美術館部って、そんなマニアックな冗談が横行するとこなんですか?」
「今のも冗談なんですか?」
あきれるぼくの言葉に泉が首をかしげると、黛さんがこたえた。
「むしろ通じる相手がいると思わなかった」
「……だったら云わないでください。それでご存知なんですか?」
「珍品堂主人だ」
「チンピンドウ?」
はて、この冗談はわからない。そんなマンガあったかな? ぼくが首をひねっていると黛さんが云った。
「井伏鱒二の小説『珍品堂主人』のモデルになった人だ。焼き物や骨董、魯山人などについて著作がある。秦秀雄の記事と云うのが本当ならまるっとウソではないかもしれんんな」
高橋克彦『北斎殺人事件』によると、昭和5~6年頃、誓教寺(北斎の菩提寺)は市区改正で墓地の縮小を余儀なくされた。
古い墓の移動がおこなわれ、それにともなって北斎の墓も掘り起こされた。
墓の底に分厚い板でおおわれた箱があったのであけてみると、箱の中は透きとおった水で満たされていて、あおむけになった老人の遺体が沈んでいたのだそうだ。
「……水が腐敗を防いだらしく、白髪混じりの髪を結った長身の老人が口をキリリと結んで、格別しなびもせず蝋化していたんだって」
「なるほど。たしかに興をそそられるエピソードではある。……それで、その老人の遺体はどうなった?」
黛さんの目がいたずらっぽく光っていた。少し気になったが、ぼくはつづけた。
「特になにも。読経礼拝して、そのまま新しい墓所へ埋葬しなおしたそうです。せめて写真だけでものこってたら北斎の顔が見られたかもしれなかったんですけど」
「……それはないな。人類学あるいは民俗学の資料くらいにはなったかもしれないが、北斎とは関係ない」
「どうしてですか?」
黛さんはこともなげに断言した。
「それは北斎の遺体ではないからさ」
「え!? だって、高橋克彦が書いているんですよ?」
「彼がそれを北斎の遺体だと断定しているわけではあるまい? ひそやかな〈読者への挑戦〉とでも云ったところだろう。あたえられた情報を鵜呑みにせず、少しは自分で調査し考えろ、と云うことだ」
「毎日、北斎の勉強はしていますけど……、その、よくわかりません」
黛さんはぼくの顔を憐れむように蔑むように一瞥した。
「キミはマヌケか、神崎司? 自身の言葉でその遺体が北斎ではないことを証明していると云うのに」
「え? ぼくなんかヘンなこと云った?」
まったく身におぼえのないぼくは泉へ問いかけたが、泉も困惑した表情で頭をふる。
「念のために確認しておくが、遺体の耳についてなにか書いてあったか?」
「耳? いいえ、特になにも……」
「飯島虚心『葛飾北斎伝』下巻にこうある。「翁(北斎)の面貌は、痩せて鼻目、常人と異ならざれども、ただ耳はすこぶる巨大なり」と」
泉が作業机に置かれていた美術館部備品のタブレット端末の電源を入れると、電子書籍化された『葛飾北斎伝』を検索してうなずいた。
「まず、北斎が長身であったことをしめす記述がない。さらに「耳はすこぶる巨大なり」と云う記述どおり、北斎の自画像や肖像画を見ると、北斎の耳は長く大きく描かれている」
今度は泉がタブレット端末に収録された北斎関係の画像ファイルから北斎の自画像および肖像画をひらいた。
「そして、もうひとつ。彼の自画像や肖像画に共通しているのは……なにかわかるか?」
黛さんはそう云いながらテーブルごしにぼくへ近づくと、指先で計るようにぼくの短い髪へ触れた。ぼくは内心ドキッとした。
「これは角刈りと云うのか?」
「スポーツ刈りです」
角刈りなんて死語だろ? 昔の任侠映画じゃあるまいし。
「……己の分もわきまえず似あわぬ髪をのばす自意識過剰の思春期男子よりいくぶんマシか。泉さんもそう思わぬか?」
ミもフタもないことを云う黛さんが意味ありげに泉の顔をのぞきこんだ。
「あ! ひょっとして、そう云うことですか?」
なにかに気づいた泉がぼくの髪の毛をつまむ黛さんの指先を見つめて笑顔をみせた。黛さんの口元にも刹那の微々笑がうかぶ。
て云うか、ふたりだけで納得しないでほしい。ぼくだけなにもわかっていないんですけど。
そんなぼくに頓着することなく、泉が得意げに云った。
「晩年の北斎は坊主頭で髪を結っていない、ですね!」
「そう。さまざまな自画像や肖像画を見るかぎり、禿頭か耳のうしろから後頭部にかけてまばらな毛が生えているだけだ。また、北斎の享年は90歳。当時としては異例な長命だ。彼に「白髪混じりの髪を結う」のはムリだろう。ゆえにその遺体は北斎ではありえない」
「わあ! 黛さんすごいです!」
「すごい……」
黛さんの明解な論旨と深い学識に舌をまいた。
ぼくも泉も毎日、北斎の資料に埋もれてすごしているのにちっとも気づかなかった。
ひょっとすると、黛さんの机の上が整然としているのは膨大な資料が彼女の頭のなかにインプットされているからかもしれない。
世界最高(最凶?)とうたわれる〈アルテ・パッジ〉の実力の片鱗をかいま見た気がする。
ただ、ぼくのスポーツ刈りから坊主頭を連想したふたりはちょっと失礼だと思う。ぼくの頭は晩年の北斎みたいにハゲちらかってない。
ふと窓へ顔をむけると雨はいつの間にかあがっていた。鳴きやんでいたセミの声がじわじわともどってくる。
「……あ、虹」
ぬけるような青空に七色のグラデーションを魅せる美しいアーチがかかっていた。
「え、どこ? 司ちゃん?」
窓へ駆けよった泉が歓声をあげた。
「わ! ホントだ。キレイ!」
泉が窓をあけると、虹はガラスごしで見るよりもあざやかに輝いていた。
「ほら! 黛さん、きれいですよ!」
「そうだな」
黛さんは席をたつことなく顔だけ窓の方へむけて虹をながめた。そのまま熱いほうじ茶を一口すすると、いきなり小さく跳ねた。
「……ッ!」
どうやら彼女は猫舌だったらしい。窓の外をながめている泉に気どられぬよう平静をよそおい、体裁をとりつくろってみせたが、ちょっと涙目である。
「……なにがおかしい? 神崎司」
ぼくの視線に気づいた黛さんからすねた瞳で詰問された。
「いいえ、なんにも」
学園一と称されるクール・ビューティーの狼狽するお姿がめずらしかったもので……なんて云ったら、にらみ殺されそうだ。
「泉にそれとなく云っときます。黛さんに出すお茶はぬるめにするようにって」
「よ……よけいなことは云わなくていい!」
云い捨ててそっぽをむいた黛さんの頬が心なし赤かった。
ぼくはまだ黛さんのことが苦手だけれど、実は意外とかわいい人かもしれないと思った。
【第一話 おわり】