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外した枷の話

作者:


 私が故郷にいた頃の話です。

 あの人と出会ったのは私が二十にも満たない頃。聖堂に向かう途中でした。

 彼は生成りのシャツを腕までまくり、荷車に小さな木箱をいくつも積んで引いていました。小箱とはいえずいぶんな数、重たそうに見えたのに一人でこともなげに運んでいたのを覚えています。

 私が道にいるのを見ると、彼は会釈をして通り過ぎて行きました。どういう気まぐれだったでしょうか、私はすれ違いざま彼を目で追って、そして気付きました。彼が荷車を転がしていったその道上に木箱が一つ落ちていることに。

 走り寄って見てみると、やはりそれは彼の荷台に積まれていた荷物でした。蓋の一部が落ちた衝撃で壊れたようで、中身を覗くことができました。それは滑らかに削られた円筒型の木槐でした。天面に細かい彫刻が何重にもなされ、きらめく石がいくつも埋め込まれた、手の込んだ細工物です。

 後にそれは魔術具の原型だと聞かされるのですが――当時の私にそれが分かるはずもなく、ただ、その場に放っておいてはいけないことだけは分かりました。

 けれど車輪の震える音に紛れて気付かなかったのでしょう、あの人は足取り速く、すでに向こうの角を曲がろうとしています。その上私は聖堂へ向かう最中だったのです。しばし悩みました。伺うはずの時間は迫っていたし、彼はいままさに視界から消えようとしている。立ち止まっていられる時間はそうありませんでした。

 私は意を決して小箱を拾い上げると、彼の行く先を追うべく、来た道を小走りに戻りました。

 初めて聖堂へ行く用事を疎かにした日でした。



 毎週聖堂に赴くのは母の言いつけによるものでした。

 早くに父を亡くした私たち親子は、当時伯父の館に身を寄せていました。母は外で働いたことがなく、単身で生計を立てることがままならなかったためです。伯父は裕福でしたし、表立って文句を言われることはありませんでしたが、やはり肩身は狭いものでした。

 母もこれには思うところあったのでしょう、せめて何かすべきと思っていたようです。しかし恵まれた暮らしに慣れており家事もままならないような人でしたから、私が彼女の代わりになりました。そのための聖堂通いです。

 街の聖堂ではお話を聞いたり掃除のような雑務を手伝ったりするのです。つまり神官の見習いのようなもので、これを続けると正式に神官となる資格を得られます。そうなれば聖堂に住み込みとなり、いくらかのお給料が得られます。

 私は一年後、神官の世界に入る予定でした。



 ところがあの一件以降、私が聖堂へ通う頻度は減っていきました。理由は明白でしょう。

 あの人は小箱を持って追いかけた私に厚く感謝を述べると、彼特有の気安さで話してくれました。

 箱の中身は先ほども述べた通り魔術を使うための器具の元の元だそうで、彼はそうしたものを作る技師でした。運んでいたのも研究のための試作品だったそうです。私はこんなもので魔術が、と驚きましたが、それ自体では魔術を使うことはできず、ただの空の容れ物でしかないのだそうです。

 魔術を習ったことなんてなかった私はその時はよく分からず、あんまり美しいから飾り物かと思ったと拙い感想を伝えました。

 あの人は照れたようにこう言いました。

「造るのがあくまで魔術具の素地でしかなくても、それが研究の礎に大きくかかわるのなら誇らしいと思う。

 ――けど、そうやって仕事を褒めてもらえるのも、職人冥利に尽きるね」



 それから私たちは広場や公園で会うようになりました。家人に知られるのを恐れ、聖堂へ出かけるふりをして。話好きな彼はいつも色々なことを聞かせてくれました。今度は仕事の話ではなく、隣町のことや異国の食べ物のこと、彼自身のことを。それは世間知らずの私にはとても魅力的に聞こえたものです。私も彼につられてぽつぽつと話しました。

 自分のことを話すとなるとためらうこともありました。最初のうちは特にそう。彼は仕事のことを大変誇りかに話す人でした。それが私には負い目だったのでしょう。

 聖堂と家を往復する他には何をするでもなく、それすらも自分で望んだことではない。

 がらんどうの身に枷を付けて、やっとのことでつり合いがとれるような女ですから。

 けれどあの人は、私の大して面白くもない話を一つ一つ熱心に聞いてくれました。そんなことは父がいなくなってからというもの久しく無くなっていたので、その時間は私にとって特別なものでした。



 何も考えず笑っていられる時間はそう長くはありませんでした。

 私が時に聖堂通いを放り出してまであの人と会っていたことは、いずれ母に悟られました。激怒した母は妹や弟、伯父家族が見ているにも関わらず私を叩き、怒鳴りつけました。曰く、世俗を離れ神官となるべき者が職人風情と親しく交わるとは何事か、と。聖職者でもない母がそう言うのを、私は頬を押さえながら聞いていました。

 そして聖堂入りの予定が早められるのは必然の成り行きでした。長い修業期間のうちは自由に外出できる時間はめったに取れないとは噂に聞いていました。そうなればあの人は私のことを忘れてしまうでしょう。楽しかった日々は過去のこととなってしまうでしょう。待っていてくれる保証などどこにもないのだから。

 母を説得すること叶わず、私はあの人に別れを告げに行きました。空が藍色に沈んだ頃、そっと目を盗んで家を出て。聖堂へ入ることを彼の顔も見ずに言い切って、彼が何か言う前に逃げるように戻りました。未練を残すことも恥知らずの顔を見られることも嫌だったのです。

 


 凝るような心地で残りの日々を過ごし、いつの間にか家を出る前日となりました。食欲もなかったもので、皆が食卓についている間、私は自室で一人片付けをしていました。といっても数少ない私物のほとんどは手荷物にまとめてあり、部屋はすでにがらんとしていましたが。

 部屋の中には机、寝台、それに余分な衣服と、箱に放り込んで部屋の隅に追いやった処分品があるばかり。

 私は被せておいた布を取り払い、箱の中身を顕わにしました。

 日記帳、乾燥花、小袋の中にかがよう石の粒。他にもいくつもの品々が乱雑に詰め込まれています。

 手に取って開いた日記帳には、押し花が挟まっていました。茎が細くて青い花びらがいくつも付いた花です。このあたりに生えているものではありません。隣町の丘によく咲いているのだと、この花を摘んできてくれた人が教えてくれました。

 それだけではありません。

 そこにある全ては、彼が私に授けてくれたものでした

 一つ一つを手に取るごとに、ページを捲るごとに思い出されます。初めて話した日のこと、広場の屋台を二人で回ったこと、日が暮れてからこっそりと抜け出したこと。

 けれど、捨てていかなければなりませんでした。

 枷を付けた身体に彼の存在は重すぎたのです。


 あの人に別れを告げてから初めて、私は泣きました。涙がほたほたと紙面に落ち文字が滲みます。思い出すら汚してしまうと思い慌てて顔を上げました。そして窓が視界に入り、私は目を疑いました。


 窓の外にいたのは、永遠に失うかと思われた愛しい人の面影でした。私と目が合うと彼はにっと笑い、声を潜めるように示しながら窓を小さく叩きました。私は走り寄り窓を跳ね上げました。どうしてここに、と聞きましたが彼はそれには答えず、店を辞めてきた、と告げました。一瞬目の前が暗くなりました。彼もやはり私の手の届かないところへ行ってしまうのかと。自分から離れておいて身勝手ですがそう思ったのです。ですが彼は室内をちらと覗くと言いました。

 荷物を持って一緒においで、と。

 しばらく流されるように時を過ごしていたこともあってか私の頭はどこかぼんやりと曇っており、言葉の意味するところを理解するのにしばし時間を要しました。その上彼の口調といったら、まるで散歩に誘い出すようでしたから!

 私はたまらず窓から身を乗り出そうとしたのですが、不意に食堂にいる家族のことを思い出し、彼に少し待ってほしいと頼みました。彼らのために我慢をすることも多かった人生ですが、恩も情もありました。

 謝罪を連ねたほんの短い書き置きを机上に残し、私は改めて窓辺に寄ります。彼はいつも通りの暖かい笑みを浮かべると、手を差し出しました。荷物を持った手を預けようとするとその手はすり抜け、代わりに両腕が腰に巻きつきました。私の身はあっという間もなく、夜の冷えた空気にさらされました。

 彼は私を高く掲げたままぐるぐるとその場で踊りました。日の暮れた街の中、観客は私一人です。彼はひとしきり回った後私の体に頬をすり寄せ、遠くへ行こう、と言いました。隣町の花畑に行って、街道の伸びる平原を通って、それからいろんな場所を見よう。私は頬に雫を伝わせたまま、ただ一つ頷きました。


 そうして私達は今の町に移りました。あの人はそこで新たな仕事場を見つけ、私もそこで仕事を手伝っています。新しい家は以前住んでいた伯父の館よりはずっと小さいですが、ずっと明るく開放的に思えます。いずれ家族が三人に増えても、きっとそれは変わらないでしょう。

 今まで語ったのは世間知らずの小娘が我儘を尽くしたというだけの話です。毒にも薬にもなりません。ですがそうして好きなように動いた結果枷は外れ、私はこうして自分の手足で生きています。それだけの話でも誰かにとってささやかな甘味になるというのなら、語った甲斐もあるというものです。


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― 新着の感想 ―
[一言] 淡々と綴られる、主人公である彼女の生い立ちの情景が浮かび、いい短編を読んだなって思いました。 こう……癖のアリすぎるキャラもなく、終始セリフもなく地の文で語られるのがとても好みでした。
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