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筒井筒 ~伊勢物語より~

作者: 青田 絲

《作者より はじめに》

 物語に出てくる和歌についての解説はあとがきにて紹介いたします。拙作ゆえにご不明な点があるかと思いますが、最後までお楽しみいただければ幸いにございます。



「この井戸より俺の背が高くなったら、結婚しよう」

 俺は彼女にそう言った。

 田舎で生計を立てている俺の親も、彼女の親もそれなりの身分を持っていた。あの頃の俺はぼんやりとそのことを知っていたと思う。なにせ幼少期のことで、覚えが薄いけど。

 近所の井戸に二人集まって、遊ぶのがあの頃の習慣だった。俺も彼女も貴族だったから日があるうちは勉強詰めで、遊べるのは夕刻の短い時間だったけれど、短いけど濃い時間だったのは今でもはっきりと覚えている。二人して井戸の周りを駆け回り、日が暮れたら帰る。そんなことを毎日続けていた。

 ある日、彼女が俺に背比べをしようと持ちかけてきた。その頃の俺は小さくて、彼女は俺より大きかった。とは言っても、俺より大きかっただけでそんなに大きかったわけじゃない。四尺ほどの高さの井戸の壁より二人とも小さくて、どちらが先に井戸より大きくなるかを競っていた。壁に石で跡をつけて、時折記録をした。たぶん、今でも残っているんじゃないんだろうか。背比べだなんて今思えば本当に子供らしいことをしたものだ。走り回っていたのだから、背比べ以前に子供っぽいけど。

 兎も角、そんな毎日を過ごしているうちに、彼女は自分が俺より背が高いことを自慢してくるようになった。

「男なのに小さいだなんて、恥ずかしいと思わないの?」

 そう言われて頭にきて、彼女をぶってしまった。女を傷つけるとは我ながら非常識な奴だ。

 しかし彼女は多少も痛がる素振りを見せず、それどころか俺に反発してきた。

「私の顔に傷ついたらどうするのよ!将来いい男を捕まえる予定が台無しじゃない!」

 大声でそう言われて、俺はさらに腹が立った。腹が立っていたのに、何を思ったのか、

「じゃあそのときは俺が結婚してやる!髪あげは俺のためにとっておけ!」

 と大見得を切った。果たして大見得だったのかは俺自身も分からないが、状況からして小さい男がそんなことを言っていたら見得以外のなにものでもないだろう。

 彼女はそれを聞いて、一瞬ためらった後にこう言う。

「身長の低い男とは結婚したくないわ」と。じゃあ、と俺は条件を出した。俺の背がこの井筒を超えたら、と井戸を指差して、冒頭の言葉を言ってやった。彼女は承諾してくれた。ここで断られていたら俺は家に引きこもる生活をしていただろうと思う。それはあくまで想像として終わってくれてよかった。

 その後彼女がやけに上機嫌だったのを今でも覚えている。

 そうして数年経って、彼女も俺も互いを異性として意識するようになった。徐々に井戸で会うことも減り、十六の今となってはすっかり交流も途絶えてしまった。しかし俺は彼女のことを今でも想っている。最近はちまちまと仕事をこなしつつ、暇があれば和歌うたを詠んでいる。和歌の内容は、彼女のことばかりだ。女々しいやつだと、自分を喩えたこともあったような気がするが、大抵は燃やして捨ててしまうので確かめようはない。彼女に知られるのはなんだか気恥ずかしい。

 彼女を想って詠うことはとても楽しくて、胸はなんだか苦しかった。




 一人甘苦しい時間を過ごしていたある日の昼下がり。

 今日は珍しく親父の手伝いが少なくて、俺は縁側で呆けていた。よく晴れた日だが、こういった状況で何度か同じような和歌を詠んだことがあるので、今日という日は何も頭に浮かばない。

 俺はそろそろ親父の手伝いではなくて、自分の仕事がもらえることだろう。もう大人になったのだから、見習いのような仕事ばかり与えられては俺の矜持にも関わる。

 彼女ももう大人なんだろうな。ふとそんなことを思った。この間久しぶりに彼女を目にした。貴族の娘なんて普段姿を出したりはしないが、俺は結婚相手の候補として見られていないのか、彼女の両親はまるで俺を家族のように扱うので彼女を俺の前に出したりした。彼女はすぐに立ち去ってしまったが。そういえばまだ髪を下ろしたままだった。子供の髪型の典型だ。でも容姿はすでに大人と呼ぶに相応しかったと思う。遠目からでもそう見えた。

「いつまでこうしているんだろうな……俺は………」

 ため息をつく。

 井筒の高さなんてもうとうの昔に超えたというのに、俺は彼女になにも言えずにいた。彼女との交流が激減したことが一因どころか全ての原因なのだが、しかしそんなものは関係ない。俺が臆病なだけだ。しかし彼女は綺麗になった。きっと沢山の男の目にかかっていることだろう。

 ため息も出るというものだ。

 どうせだし何か詠っていよう、と思い筆を持ち上げる。筆の先はもう乾いていた。墨が近くにないので記すのは諦めるしかなさそうだ。

 ちょうどそんな時だった。部屋の奥から親父の声が聞こえてきた。

「そっちの娘さんの調子はどうだ?」

 どうやら彼女の父親がうちに来ているようだ。

「あぁ、また断ったよ。あいつもなかなか強情でなぁ……かわいい娘だから手がかかって当然だが……でももういい年だ。そろそろ結婚して欲しいもんだよ」

 俺は呆けながらその話を聞いていた。

 お見合い、だろうか。親が結婚相手を決めるっていうことはめずらしいことじゃない。女の親は結婚相手の出世のための資金を出すのが常道で、だから親は優秀な男を選ぼうとするものなのだ。彼女の両親もきっと例外ではなくて、幾人か選んで勧めているのだろう。

 そのなかに自分が居ないことが少々衝撃だったが、しかし俺はあまり優秀な男ではない。情に厚いわけでもなければ、特別容姿がいいわけでもない。和歌だって、下手の物好きといった程度だ。選出されないのも当然だろう。

 そうやって自分を慰めることは、却って惨めでしかなかった。

 俺は植え込みの向こう側、我が家を囲う塀の近くに転がっている鞠に目をやった。いつからかああしてひとつだけ転がっている。風に吹かれても転がる様子はなくて、いつまで経ってもそのままだ。彼女とあの鞠を使って遊んだのを思い出すから、遠くに蹴飛ばして放っておいた。それなのに、たまに目に入れては詠ったりしている。本当に女々しいやつだな、俺ってやつは。

 あの塀を隔てて向こうに、彼女は住んでいる。今なにをしているのか、どんな気持ちでいるのか、俺に分かることはない。ただひとつだけ分かる。あの麗しさを放出しつづけていることだ。まぁしかし、貴族の娘が姿を見られることなんてそうないから、こんな皮肉を言っても嘘に終わるのだろうが。

 いつまでこんな惨めな思いをして生活するのやら。なかなか限界に近づきつつあるのには気づいているけど、目を瞑ってきた。和歌を詠めば誤魔化せるものだろうと思っていたけど、むしろ募る思いがとどめなく出て行くものだから悩みは絶えない。それでも詠みたくなるのは、この時代の人の性なのか、俺の惰性なのか。きっと後者だと思う。

 乾いた筆の先を睨む。睨んでも文句のひとつも言ってくれやしない。無生物に期待した俺がバカだった。

 立ち上がって、墨のもとへ向かった。

 和歌を詠むのは彼女に会わなくなってから何度目だろう。いつもいつも、仕方のないことばかり書いていたから筆はさらさらと進んだのに、今日は違う。詠いだしから悩んで、俺はひとつ記し終える。

 さて、どうしたものか。

 いつも通りの内容であるのに、いつも以上の異常な出来栄えに惚れ惚れする。だけれども、俺が惚れ惚れしても意味がない。これは燃やすために書いたわけじゃあない。

 俺は親父の部屋へ行った。しかし本当に用があるのは彼女の父親のほうだ。

 行ってみたが、もうすでに帰ってしまっていた。詠むのにそこまで時間がかかっていただろうか。

「ん?どうした、なにか用か」

「いやなにも」

 親父に聞かれて即答する。

 しかし親父は俺の手に握られた紙を見るなり、「ははーん?」と物知り顔で頷いた。俺は恥ずかしくなって、何も言わずに立ち去った。

 仕方がないので、直接彼女の家に訪ねるしかないだろう、と思い俺は家を出た。支度は最小限だ。とても好きな女の下へ行くような姿ではないが、いちいち着替えるのは面倒だった。そしてなにより、衝動が抑えられなかった。

 俺は西側の正門を抜けて、彼女の家の門まで向かった。隣あわせの家だが門はそれぞれ東西と遠い。

 行く途中に井筒の前を通りがかった。明らかに俺のほうが背が高いのを確認して、足を進めた。

 門の前には掃除をしている女中がいた。彼女のもとへ行って届けるのはとてもじゃないが恥ずかしくて無理だったので、そいつに渡して帰った。臆病ぶりが情けない。

 家へ戻る途中、不安は最高潮だった。俺はまた井筒の前を通りがかる。今度は中が覗けるほどに近づいて、確認する。「中が覗ける」のだから、杞憂であったようだ。本当によかった。

 そうして家へ戻って、夕刻になるころだった。

 さっきの女中が俺宛にと紙を届けてきた。俺はにやにやとする親父からそれを受け取り、なにか言われる前に自室に戻ってそれを開いて見た。


「筒井筒井筒にかけしまろが丈 過ぎにけらしな妹見ざる間に」


 俺が詠んだ和歌だ。その横に、彼女の流暢な字でこう記してあった。


「くらべこし振り分け髪も肩過ぎぬ 君ならずしてたれか上ぐべき」


 もちろん彼女は女であるから、全て平仮名で記してあったが、男文字を合わせて書けばこうなる。

 そういえば。

 俺と彼女は髪の長さも競い合っていたんだっけ。俺はそんなことを今になって思い出した。子供特有の髪型、「振り分け髪」は男女問わずそれであったので俺も例に漏れずそうしていた。彼女とおそろいの髪型だったわけだが、彼女はそれが気に食わなかったのか、長さで競い始めた。始めのうちは全く乗り気じゃなかった俺も、知らずうちに乗せられていたような気がする。親父に髪を切れと何度も言われて断ったのを今しがた想起した。

 彼女はまだ髪を上げていなかった。髪上げは成人の儀式であり、そして髪を上げてやったものと女は結婚することが多い。この和歌は、もしかすると、いや、もしかせずして承諾の返歌だ。

 俺はそのまま彼女の家へ向かった。足袋が汚れようと知ったことではないと、走って向かった。

 彼女の家の前には、彼女の父親がいた。

 一息、これ見よがしに吐いてから、こう言ってきた。

「お前だろうとは思っていたよ。たまに、お前のことを詠んだりしていたからな、あいつは。……よくもまぁ、俺の苦労を台無しにしてくれたものだ」

 そう言う顔は、心なしか綻んでいるようで、俺も思わず頬が緩んだ。

「笑うな、お前が笑うのを見ていると、なんだか無性に腹が立つ。しかし、まぁ今日ばかりは許してやろう」

 なかなかひねくれた親父である。彼女の強情さはこの人に似たのだろうな、と思った。

 俺はもう一度微笑んでから、門の中へ入って行った。後ろでは、小さな嗚咽が聞こえた。喜びなのか、悲しみなのか、親ではない俺には到底理解できそうにもなかった。

 女中に連れられ、彼女のもとに向かった。

「おめでとうございます」

 女中は廊下を歩きながらそう言った。歩きながらとは無礼だと思ったが、今はよしとした。

 彼女の前へ行く。そうして何年ぶりかの再会を果たす。

 彼女は今まで見たことがないほどの、満面の笑みを浮かべていた。




 ********




 俺と彼女の生活は、至って円満だった。しかし円満の基準を一般のものに合わせるとなると、それは首を傾げたくなるだろう。

 彼女は気が強い。子供のころの様子を見ていれば分かるが、大人になってもその強情な性格が変わることはなかった。

 というか、むしろ悪化しているようにも思えた。

 このご時世、結婚は所謂「通い婚」で、大抵は男が女の家を訪れて夜をともに過ごし、朝になったら帰るということを多分世間の誰もがしている。そして女は男が来ると、気に入られようと飯を振舞ったりだとか、まぁすることは色々だろうが。もちろん、子孫繁栄のためにちょめちょめなことをしたりもする。それは別の話としよう。いや、実際夜の顔なんてものは今話したいことと関係ないのだ。

 問題は昼間だ。いや、厳密には夕刻からであるのだが、夜出ないから昼と言っておく。いや夕刻にしておこう。夕餉のこともある。

 そう、その問題は夕餉のことだ。俺が彼女の家を訪ね、一緒に食べようという話になった。ちょうど俺も腹が減っていたのだ。まぁ、わざわざ空腹にしてからやってきたから当然だ。一緒に食べたかったし。

 侍女が飯を運んできて、さぁ食べようとなった時。

「私、やっぱり要らないわ。後から食べるから、とっておいて頂戴」

 彼女がそんなことを言った。これは強情というよりむしろ自己中だろうが、しかし問題はそこではない。

 俺と一緒に食わないとはなんたることか。わざわざ腹を減らしてやってきて、彼女と夕餉をともにしようというのに、俺の意思を一切解する素振りもなくって堪ったもんじゃない。それで俺が、

「いいじゃないか、一緒に食おうぜ。ほら」

 と誘ってみた。が、彼女はやはり強情だった。首を縦に振りそうもなく淑女だというのに恥じらいもなく大きく左右へいちにいさん。終いには「食べないと言ったら食べないのよ」だ。

 俺も怒ってやろうかと思ったが、俺に彼女を叱れるかというとそれはなんだか微妙なところで、若干尻に尻に敷かれているのが災いしてなにも言えず食べ始めることにした。

 彼女は終始、

「おいしい?」

 だとか、

「あら、それが好きなのね」だとか言っていた。

 彼女は別に傍を離れるといった様子はなく、まぁだから、美味しい夕餉ではあったのだが。


 他にも色々、話せることはある。でも、どれも似たようなものだ。代わり映えのしない生活で、俺と彼女は満ち足りていた。

 そうして数年が過ぎた。


 俺が彼女の家を訪ねると、侍女たちがやけにあわただしそうにしていた。何事かと思い、俺は一人だけ捕まえて話を聴いてみた。偶然にも、捕まえたのはあの日祝いの言葉を俺に言った侍女だった。こいつとは少し会話をするから、他の侍女よりも話やすい。

「慌しいが、どうした?なにかあったか」

 平静を装って聞いた。内心では、俺の妻になにかあったのではと気が気でなかったのだが、こいつに知られるのは癪だった。

 しかしそんなことはお見通しなのか、ふふ、と笑ってから

「お嬢様のことではございませんから、ご安心を」と言った。そうしてすぐに深刻そうな顔をした。

「いえ、お嬢様のことではないのですが、しかし奥様のご体調が優れないようでして……」

 そう言ってから他の侍女に呼ばれて立ち去った。なんだか悪い予感がした。でも俺は占いができるわけでもない、予感は信じられたもんじゃないだろう。

 それにしても、彼女が心配だ。俺はいつもの部屋へ向かった。彼女はいつも通り、じっとどこかを見つめて座っていた。喋らなければ綺麗なものだ。いっそ人形にしてしまったほうがいいのかもしれないが、俺の本心はそんなものには興味がなかった。

「大丈夫か?義母様が体調不良らしいな」

 彼女は俺のほうをゆっくりと向いて、まず、「いらっしゃい」と言った。

「私は大丈夫、元気で一杯だから。でも心持としては、あんまりよくはないわ」

 そう言って顔を伏せた。

 最近は疫病が流行していて人が沢山死んでいる。彼女が心配になるのも、無理ないだろう。

 俺は彼女を抱き寄せた。いつもなら何か罵倒されるところだが、今日ばかりはすっぽりと俺の胸に収まった。

 それがむしろ嫌な予感を増幅させた。


 すぐにその予感は現実のものとなった。それも、最悪の結果として。

 彼女の母親は、亡くなった。病死だった。まだ若かったが、病気にかかってしまっては手の打ちようがなかったのだ。

 そうして彼女の父親があとを追うようにして亡くなってしまった。これもまた、病死だった。

 どちらにしても何ひとつできなかったにせよ、予感がしていただけ、俺にのしかかる罪悪感があった。しかし彼女の落胆に比べれば、俺のそれなんてたいしたものではなかった。

 彼女の憔悴は並々のものじゃなかった。俺はそれを見ていて我慢できなかった、いや元々我慢できるはずもなかったわけだけれど、とは言っても俺にできることなんて精々彼女を毎日訪ねることくらい。無力というか………力が無かったというより、むしろ抗えるはずもなかったのだから、仕方が、ない。

 嫌でも受け入れるしかなくて、受け入れられなくてもそれが自然と流れていく。

 必然だ。

 彼女が俺の側にいないような気がしてしまうのも。

 当然だ。

 死ぬというのはこんなにも身近で、こんなにも無情に無常を告げるものだと知ってしまったのだから。

 そうして、無常というのが生死だけの話ではないのでは、といつからか思い始めた。

 常に巡る。巡って消えていくものもあれば栄えるものもある。そういうものだ。

 そういう考えに至った時に、俺は時折頭を揺さぶられた。

 それはまるで、子供が強請るように。それはまるで、甘い誘惑のように。



 そもそもができる人間じゃなかった。

 俺は他に思い詰めるうちに、まるで仕事に手がつかなくなった。降格も危ぶまれるほどになった。

 いや、降格が危ぶまれたのはきっと仕事が捗らなかったせいだけではない。彼女の両親がなくなったことが大きかった。経済的に力のない家の男はすぐに捨てられていく。そういう社会の構造なのだ。

 俺の矜恃はそんなことを許すだろうか?

 今までの俺なら、或いはそうかもしれない。だが一度甘い蜜を吸ってしまったからに、もう苦汁を舐めることはできない身になった。俺はこのまま彼女と共にしがない暮らしをしていくわけにはいかなかった。

 そうして数日経った。

 俺はその日、仕事仲間に勧められた相手のもとを訪れていた。なかなか強気な女だ。幼馴染の影響もあってか、俺はそういう女性を好むようになっているようだ

 そう思うと少し胸が苦しかった。

 朝方に帰宅して、仕事へ向かう。望まずとも彼女の家の前を通る。俺はあえて目をそらさずにはいられない。

 彼女の家の前では見慣れた侍女たちが不思議そうに俺の車を見ていた。その動作自体には不思議なんてなかった。毎日通っていた男が突然来なくなったらおかしいなと思うのは普通なことだ。

 仕事から帰ってから、また幼馴染ではない彼女のもとへ向かう。竜田山を越えた先にある河内という所まで行くのは少々骨の折れる道程だった。その道程で、どうしても幼馴染の彼女のことを思ってしまう。頭を振って悩みを吹き飛ばして、さて俺はどうしたいのかと考える。これもまた不毛なことだ。

 結婚というのは大抵、女のもとに男が三日続けて通うと成立するものと言われる。俺はそういった経験を一切せずして結婚に至ったために、よく知らないのだが、親父に聞かされたところ、そのようだ。つまるところ、その三日間は女の方がほかの男を招き入れることもなく、男の方もほかの女のもとへ行くことがないため、相思相愛だと確認できるというシステムなのだ。ただ、その後については別の話だ。男の方はほかにも妻を持っていれば等しく接しなければならない。女は男が毎日来てくれる訳ではないので寂しい思いをせずにはいない。結局我慢できずに別れる、なんてこともある。金目当てで女を持ちすぎると身から出た錆で身動きがとれなくなるのだ。その点、俺はそんなことはなかった——幼馴染だけだったから。……そのことを考えるのは止そう。

 いや、それにしても。苦情の一つも彼女のもとからないのは不自然だろう。言ってしまえば俺の行動は浮気である。彼女は侍女たちから話を聞いて知っているはずだ。たとえ彼女の状態を見てそれを侍女たちが憚ったとしても、偶然耳にしてしまっていても不思議じゃあない。

 だとすると、彼女が俺になにも言ってこないのはどうしてだろうか。

 彼女が浮気をしているのではないかと思った。




 通い続けること二日が経ち、三日目の夜がやってきた。

 俺は何食わぬ顔で支度を整え、いつも通り一人で彼女の家の前を通る。一夫多妻が認められているとは言っても褒められたことではあるまい、ましてや妻が隣に住んでいるとなれば堂々不遜に牛車で行くのはおかしな話である。そういう訳で一人せこせこと彼女の家の前を通り過ぎると、そのまま裏手を通って家へ戻った。

 三日通わなければならないはずなのに、どうしてわざわざ出発してすぐに引き返したのかというと、幼馴染の彼女の様子見のためである。一応河内の方二は先に従者を向かわせ、俺が遅れることを伝えさせた。そうまでして何を様子見るかと言えば、もちろん彼女の浮気についてである。

 しかしまぁ、なかなか変なものだ。男の浮気は浮気ではないのに、女の浮気は浮気だとしてしまうのは果たしてどうであろうか。理にかなっているとはなかなか言い難い。

 とは言えども、男の嫉妬も女とはまた違った意味合いで怖いものだ。女のようにじめじめと悪質なことをしたりは一切ない。もっと堂々と社会的な圧力をかけてくる。…………男の方がよっぽど悪質かもしれない。ともかくとして、しかし俺は彼女に社会的な圧力をかけようという気はない。まずほかの男が来ないかどうかを確認してみるだけだ。俺は世間の殿方のようにあくどい人間になった覚えはないし、なりたくもない。

 でも、河内に女を作ってしまう時点から、俺は悪質なやつだったのかもしれない。

 俺は家をこそこそと一人で出て行き、彼女の庭先にある植え込みに隠れた。

 植え込み、いわゆる前栽の中に隠れて座っていても、誰かが現れる気配もなく、侍女たちも俺が来ているときに比べとても大人しかった。主人の気配が使いの者たちにも伝わるものなのだろうか、屋敷は一面が静まり返っていて寂しかった。

 俺を死骸と勘違いしたのか、ハエが前栽の中に群がってきた。屍のようにじっとしていたのだろう、虫にお墨付きをもらってもうれしくなかった。それ以上に、何も事態が動かないことの方がうれしくなかった。

 たとえ誰だか知らない男が現れたとして、事態が動くにしてもうれしいことなんて

ない訳だが。

 それにしたって一体全体どうしたものか。

 そう思っていると足音が聞こえてきた。俺は群がっていたハエを払いのけて足音のする方へ目を凝らした。

 男ではない。どうやら女のようだ。一瞬、義母君のことが浮かんだが、他界していることを思い出して嫌な気分になった。俺は薄情者にだけはなりたくなかったのに。

 あれだけ豪華な装いとなると、彼女以外に誰もいないだろう、この家には。

 きれいに化粧をして、庭に下りてきた。暗くて表情までは見えなかっが、きっと他の男が来るのを待ちこがれているに違いなく、だとすると顔がほころんでいるのだろう。憎らしい。

 かくいう俺が言えた義理ではないのだが。

 彼女はぼんやりと物思いに耽っているようだ。恋というのは物思いに耽るものなのだと、俺は自分の経験からして知っている。だから彼女のその姿には何の疑問も抱くことはなかった。むしろ思われている相手がうらやましかった。

 

「風吹けば沖つ白波たつた山夜半にや君がひとり越ゆらむ」


 不意に彼女から詠が聞こえた。

 彼女はこんなにも俺のことを思っているのだ。それなのに俺はどうだろう。彼女を裏切るどころか、彼女を疑ってしまった。彼女は俺を恨むことすらしていなかった。それどころか心配さえしているではないか。

 全く俺は馬鹿なやつだ。こんなにいい女がいるというのに。

 貧乏な暮らしは嫌だった。惨めになる自分を見たくなかったのだ。世間から指を指されることを恐れたのだ。だからこそ俺というやつは馬鹿だった。

 そういうことじゃないんだ。

 知ってしまった思いを止めることができないなんてありきたりだけど、本当にそういうものなんだ。

 俺はもう、彼女以外は何もいらない。

 前栽から飛び出して彼女を驚かせてから、久しぶりにここで体を休めようかな。



《あとがき 和歌の解説》

 最初からで恐縮ではございますが和歌の解説から参りたいと思います。

「筒井筒井筒にかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹見ざるまに」

 これは主人公が幼馴染へ向けて送った和歌です。筒井筒とは音の韻を踏んでいる語で特に意味はありません。その後に出てくる井筒とは、物語にもあったように井戸を囲った筒状のものです。皿を数える幽霊が出てくる井戸のイメージです。すみません、他にいい比喩がありませんでした。その井筒と比べてきた私の背丈が井筒を越えました、あなたが見ていない間にという内容です。

「くらべこし振り分け髪も肩過ぎぬ君ならずしてたれか上ぐべき」

 幼馴染が主人公に返した和歌です、いわゆる返歌というやつで、プロポーズにオーケイを出しました。「比べてきた振り分け髪は肩を過ぎるほどになりました。あなたでなければ誰のために髪上げをするのでしょう」というものです。振り分け髪とはこの時代の子供たちが男女問わずしていた髪型です。髪上げという儀式をして成人の証とされたのですが、髪上げをしたのちにすぐ結婚する場合が多かったそうです。

「風吹けば沖つ白波たつた山夜半には君がひとり越ゆらむ」

 幼馴染の女が男を思って詠んだ和歌です。「風が吹くと沖の白波が立つ」という意味がはじめにきます。これはたつた山を導く語です。「風が吹くと沖の白波が立つ。それと同じ名を持つ竜田山をこの夜中にあなたは一人でこえているのでしょうか」という解釈になります。



 大変蛇足のようにも感じられる解説でした。もとより僕は説明下手ですので、解説されたことでさらにご不明な点が増えていないか心配です。ご質問等ありましたら、感想で僕に質問を投げかけるのではなく、グーグル先生をご利用になられることをおすすめします。僕とはまた違った解釈もあるかもしれません。

 最後までお読みいただき誠にありがとうございます。それでは。



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