⑥
平民のワンピースに着替えた私は、キースに手を取られ城下町へ出た。
護衛達は本来なら厳重に同行するはずだったが、キースが制止した。
「俺がルーナを守れるから。二人きりにしてほしい」
その言葉に護衛達は渋々引き下がり、影のように距離を保つ。
完全に消えるわけではない距離感が、逆に“この人の本気”を感じさせた。
街に出た瞬間、空気が変わった。
香ばしい匂い。
焼きたてのパンの甘さ。
鉄板の上で弾ける肉の音。
遠くで鳴る子供の笑い声。
そのすべてが、王城とは違う“生きている音”だった。
王城の静けさは完成された秩序だったけれど、ここには雑多で、温度のある“日常”があった。
私は思わず小さく息を吸う。
胸の奥に、知らない風が入ってくるようだった。
「おや、今日はいつもの友達はいないのかい?まさか彼女?」
「そう、彼女とデートなんだ。」
「あらまぁ、女の子連れてくるなんて初めてじゃない?」
屋台の人たちはキースをよく知っているらしく、気軽に声をかけてくる。
王子というより、顔見知りの青年に向けるような距離感だった。
そのたびにキースは迷いなく答える。
私はというと、その“彼女”という単語にいちいち心臓が跳ねて、手を離せなくなる。
(こういうの、慣れてない……)
でも、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、握られている手の熱のほうが気になってしまう。
キースの手は、驚くほど自然だった。
引っ張るでもなく、縛るでもなく、ただ“そこにいるのが当然”みたいに繋がれている。
逃げる理由はないのに、なぜか離されたくもなかった。
途中、小さな花屋の前で彼が足を止める。
「これ」
そう言って、淡い白い小花を一輪だけ買う。
そして何も言わず、私の髪にそっと差した。
「……何ですか、これ」
「ルーナに似合うから。」
それだけ。
たったそれだけなのに、胸の奥が少しだけ落ち着かない。
誰かに何かを“飾られる”という感覚は久しぶりだった。
それが嫌ではないことに、私は一番驚いていた。
そして最後に入ったカフェ。
木製の扉を開けた瞬間、ふわりと甘い香りが広がる。
焼き菓子とミルクティーの匂いが混ざった、やわらかい空気。
私はカップを両手で包みながら、ゆっくりと息を吐いた。
「キース様…とても楽しそうですね。」
「あぁ。私は小さい頃から、ロイやリュートと身分を隠して城下町を回っていたんだ。」
リュートは、宰相の息子であり、キースの友人。
その言葉を聞いても、もう驚きはなかった。
むしろ、“この人ならそういうことをするだろう”という納得のほうが強かった。
「ルーナは少し気分転換になったかい?王城に来てから、忙しくしていただろう。」
「そうですね……なんだかこうやって街で気兼ねなく遊ぶのは初めてだったんです。もし…、平民として生まれていたらなんて、想像もしちゃいました」
言ってから、少しだけ苦笑する。
「王城だけの生活も窮屈だろう。平民の生活を見るためにも、時々こうやって城下町でデートをしよう。あと今度、私の友人達と飲みに行こう。」
「……前に言ってた、祝杯ってやつですか?」
「そうそう。」
「そうですね。外でお酒……飲んでみたいです。」
「じゃあ計画しておこう」
軽く笑い合う。
そのやり取りは、あまりにも自然で。
“王子と婚約者”という肩書きが、少しずつ形を失っていく。
代わりにそこにあったのは、もっと曖昧で、でも確かに温度のある関係だった。
気づけば、私はキースの手を握ったまま笑っていた。
日が傾き、空がゆっくりと橙に染まっていく。
パン屋の煙、遠くの鐘の音、行き交う人の影。
すべてが少しずつ夕暮れに溶けていく。
護衛達に守られながら王城へ戻るその道のりで、私はふと気づく。
(今日、私とても安心していた)
その事実が、静かに胸に落ちた。
そしてそれは、ほんの小さいけど――
確かに、“世界が変わり始めた感覚”だった。




