④
謁見が終わると、背後に控えていた護衛騎士が声をかけてくる。
「お疲れ様でした、キース様、ルーナ様」
ロイだった。
整った所作で一歩前に出るその姿は、騎士というよりは静かな影のようだった。
王城の喧騒の中でも、彼の声だけが妙に澄んで聞こえる。
「なあロイ、これから三人で街にでも行かないか?」
キースの言葉は軽い。
まるで、重い責務の合間に差し込む一瞬の遊びを見つけた子供のように。
「今ですか?」
ロイは一拍遅れて瞬きをした。
「三ヶ月も籠ってたんだ。息抜きくらいしたいだろ?」
「……キース様、公務が山のように残ってますけど」
淡々とした忠告。
けれどそこには遠慮も諦めもない、“慣れた距離”があった。
「……あ」
その一言だけで、キースは固まる。
ほんの数秒の沈黙のあと、彼は小さく肩を落とした。
「仕方ない。執務室に戻る」
つまらなそうに踵を返すその背中は、王子というより不満げな青年そのものだった。
その姿が見えなくなるまで見送りながら、私はようやく息を吐く。
張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。
「王族って、本当に忙しいんですね」
ロイがぽつりと呟く。
「そうね」
私は小さく笑った。
その笑みは、昔よりずっと軽い。
“守るための笑い方”ではなく、“ただそうしてもいいと思える笑い方”だった。
ふと視線の端にいるロイを見る。
その瞳の色に、気づいてしまう。
アイスブルー。
キースと同じで、そして——自分と同じ色。
理由のない既視感が、胸の奥をかすかに撫でた。
けれどそれは、不安というほど鋭くはない。
ただ、ほんの少しだけ心が揺れる程度だった。
「ルーナ様、王城には慣れましたか?」
ロイの声は変わらない。
距離を詰めすぎず、離れすぎない、絶妙な位置。
「まあまあ、ね」
私は肩を軽く伸ばす。
天井の高い王城は、かつてのどの屋敷よりも広いのに、不思議と息が詰まらない。
むしろ、胸の奥に溜まっていた何かが少しずつほどけていくようだった。
——二度目の王城暮らし。
“閉じ込められる感覚”はなかった。
ここには逃げ道がある。
しかし、それを探そうとする自分はもういない。
「さて、私は図書室に行くわ」
「休まなくていいんですか?」
ロイの声には、わずかな心配が滲む。
「何かしてないと落ち着かないの」
その言葉は、私の癖だった。
逃げることも、期待することもやめた人間の、生きるための習慣。
そとそも帰る場所はない。
逃げる気力もない。
そして、死ぬ勇気もない。
だから私は、生き延びるために“知る”ことを選んでいた。
「努力しないと身につかないタイプなの」
「……その姿勢、キース様にも見習ってほしいですね」
「ふふ。あの人は天才型でしょうから」
その瞬間だけ、少しだけ空気が柔らかくなる。
キースという人間を語るときだけ、世界の輪郭が少し曖昧になる気がした。
ロイは小さく頷いた。
「どうか無理はしないでくださいね」
「ありがとう、ロイ」
その言葉に、理由はわからなかったがなぜか少しだけ安心した。
図書館に入ると、外の音がすっと消えた。
紙の匂いと、静かな空気だけがそこにある。
私は机に向かい、書物を開いた。
文字を追う。
知識を積み上げる。
そうしていれば、余計なことを考えずに済む。
しばらくすると、視界がゆっくりと滲んでいった。
——眠っていたらしい。
「ルーナ」
耳元で、低く柔らかい声が落ちる。
反射的に身体が反応する。
「お腹すいた。起きて」
「……キース様」
目を開けると、すぐそこに彼がいた。
至近距離なのに、圧ではない。
ただ、当然のようにそこにいる距離。
「執務は?」
「うん、まあまあ」
少しだけ困ったように笑う。
その表情は、王子というより“約束を後回しにしてしまった人”のそれだった。
「でも、ルーナに会いたくて」
その言葉は軽いのに、妙に真っ直ぐだった。
誤魔化しも、飾りもない。
私は一瞬だけ言葉を失う。
——まただ。
この人の言葉は、いつも“軽いのに逃げ場がない”。
私はゆっくり立ち上がる。
「行きましょう」
それだけでいい。
それ以上は必要ない。
キースは当然のように私の手を取った。
指が絡む。
迷いも確認もない。
ただ、最初からそこにあったかのような自然さで。
離される気配はない。
そのまま、彼の歩幅に合わせて図書館を出る。
廊下の光が少しだけ眩しい。
——気づけば私はもう、ずっと一人ではなかった。




