おれは当て馬
【当て馬】
①牝馬の発情の様子をしらべるため、近寄らせてみる牡馬。
②目的とするものの反応を見るため、近寄らせてみるもの。
居並ぶ営業マンの拍手のなかで、谷口晋平は誇らしく胸をはっていた。大学を卒業し、業務食品卸会社〈岩木物産〉に入社して2年、10月の営業成績で一番をとった。
「谷口くん、おめでとう」
谷口の肩に手をおいたのは、第三営業所所長で直属の上司の川辺純一郎だ。川辺は五十代はじめの、白いもののまじった髪が大人の色気を感じさせる。きりりと引きしまった細面で、どこか憂いのある目もとをし、営業所の女性社員に人気が高い。妻とは別居中だと谷口は噂で聞いていた。
「〈ビストロ信濃〉との契約では大きな売り上げを獲得してくれた」
川辺所長の渋い声が谷口の成果をほめてくれている。
〈ビストロ信濃〉とは関東を中心に展開する、手頃な価格のイタリア料理が評判のレストランチェーンだ。谷口は、イタリア産で安価なモッツァレラチーズを、チェーン全店で仕入れる契約をなしとげた。
集まった社員の視線のなかで谷口がもとめているのは、一重の切れ長の目の涼しげな眼差しだった。男性社員のごつい体のあいだに咲く高根の花――高山玲子の表情を、谷口は視界のすみでさりげなく観察する。
玲子がセミロングの髪を左肩にながし小首をかしげている。玲子は谷口と同じ年齢だが、短大卒業後に入社しているので、谷口の二年先輩だ。感情をあまり顔に表わさない玲子が、谷口をどう評価しているかはわからない。氷のような表情が、冷たい印象をあたえる女性だ。そんな彼女の口もとに、ほんのりえくぼがうかぶと、春の雪解けを思わせる高揚感を谷口はおぼえたものだ。
ふたたび盛大な拍手があがって朝礼は終わった。
谷口はデスクのパソコンに向かってアポイントメントを確認する。午前中には〈ビストロ信濃〉の本社で、モッツァレラチーズの納入日の打ち合わせがある。午後からまわる取引先のスケジュールを調整する。よし、と立ちあがった。
谷口はさっそうと勢いのある足どりで一階の廊下を進む。玲子が黒いビジネススーツ姿で角を曲がる。営業成績が一番で得意になって意気込む谷口は、ここで彼女にデートの誘いをしてみる気になった。足を速めて玲子に追いついた。
「高山さん、あなたも外回りですか」
ふりかえった玲子の流し目に、谷口はぞくぞくとした。
――今晩、どこかでディナーでもごいっしょしませんか。
「決まってるじゃないですか。取引先をまわるのが営業の仕事ですから」
「――そう、ですよねえ」
出鼻をくじかれ、谷口は気おくれした。玲子の冷淡な対応に、さっきまでの自信が嘘のようにしぼんでいく。誘い文句が続かなくなった。話しかけた以上は、黙っているわけにもいかない。ここは当たって砕けろだ。
「あの、どこかでディナーでも……。お茶でもいいんですけれど」
「のどはかわいていません。社員休憩室の自販機のお茶でもどうぞ」
玲子が示した休憩室のドアが開いている。
そのすきまから、同じ課内の小嶋由貴の顔がのぞいていた。由貴は今年の新入社員で、谷口とは机が向かいあっている。やけに黒っぽいおかっぱの前髪の下から、じとーっと谷口を見つめてくる。由貴の口角がにんまり上がって廊下に出てきた。
「谷口先輩、高山さんにデートのお誘いですか」
「いや、仕事だよ。いっしょに取引先をまわろうと」
「谷口さんは」と玲子が口をいれた。「お茶が飲みたいんだそうです。わたしは仕事で先を急ぐので、これで失礼します」
立ち去る玲子のスーツの背中を、谷口の目が追いすがる思いで見送った。
「谷口先輩、わたしのお茶でよければどうぞ」
由貴が、たぷんたぷんとペットボトルを振って見せる。
「いらないよ。小嶋の飲みのこしじゃないか」
谷口は、じとーっとした視線を背中に感じながら歩きだした。その足どりに勢いはなくなっていた。由貴に変な誤解をされていないか。いや、食事の誘いは当たりなんだけれど。おかしな噂をまきちらすんじゃないだろうか。
谷口は、由貴の興味ありげな笑顔が気になり、〈ビストロ信濃〉での打ち合わせがうわのそらになった。
帰社したのは午後四時半をまわったころだった。
谷口はデスクのパソコンでメールをチェックする。アポイントメントのひとつを調整する必要があった。さらに、本日の活動報告をまとめにかかる。
「おい、谷口」と肩に手がおかれた。
先輩の営業マンが、にやついている。「高根の花に手を出したらしいな。あれはただ見るだけで、手にとろうとするもんじゃない。気にするなって」
谷口は気持ちがへこみ、椅子に沈みこみたくなった。気にするなと言われると、よけい意識してしまう。オフィスで交わされる私語のすべてが、自分を話題にしているように思えてくる。営業部のドア口で、同僚が愉快そうに立ち話をしている。窓ぎわの席で、女子社員が顔を寄せあい笑っている。
谷口の向かいあったデスクでは、われ関せずといった由貴が一心にパソコン作業をしている。聞き耳をたてているんじゃないか。この女が言いふらしたに違いない。
「どうした、谷口。そんなに机にかがみこんだりして」
第三営業所主任の桐島涼介がのぞきこんでいた。涼介は三十歳で、谷口が〈岩木物産〉に入社して二年間、なにかと面倒をみてくれた頼もしい上司だ。さらさらの髪に端整な顔立ちをし、そのわりに肩幅が広く、がっちりした体格をしている。大学時代はアメフトのクォーターバックをしていたそうだ。
「いえ、明日のスケジュール調整でちょっと」
「それが終わったら、どうだ? たまには飲みに行かないか」
「はあ」谷口は生返事をした。アルコールで憂さをはらしたい気分ではあった。
「気にするなよ」桐島に力強く背中を叩かれた。
退社後、谷口は桐島と町に飲みにくりだした。生ビールで乾杯し、適当に料理をつまみながら、仕事上のあれこれを話した。ハイボールを注文すると話題が変わった。
「しかし、高山玲子とはおそれいった。10月の営業成績でトップになったのはいいが、怖いもの知らずってのはおまえのことだ。あれはかたい女だぞ」
「はい、当たって砕けました」
「しかたないさ。あの女は鋼だよ。ダイヤモンドかもしれないな。並たいていの男じゃ歯がたたない。かすり傷ひとつもつけられやしないぞ」
「桐島さんでも、ですか」
「おれ? おれはいまフリーだけどさ、ああいうお高くとまった女は好みじゃないな。つい守ってやりたくなるような、もっと頼りない雰囲気の女がいい」
「そのお高い口もとにえくぼがうかぶときがあるんですよ。凍てついた川面に春の気配がきざしたようで、胸に希望の光があふれだすんですよね」
桐島のグラスをかかげた手が止まっている。
「わかった。谷口、よくわかったぞ。きょうはおれのおごりだ。思うぞんぶん飲め」
居酒屋を出ると、晩秋の夜空にぽつんと星が瞬いていた。谷口の仕事運は上がりだしている。恋愛の星の巡りも変わってくれないかな。そろそろ冬も本番だ。吹きぬける木枯らしに、谷口はダウンの肩をぶるっと震わせた。
翌日の午前中に、谷口は市場のリサーチを行ない、午後から外回りに出た。会社の出入り口に向かっていると、同期の池田に声をかけられた。
「おい、谷口。おまえ、営業課の高根の花に告白して断られたそうだな。女なんて星の数ほどいるんだからな」
そう励まして立ちさった。
噂がひとり歩きし、拡大発展していた。いや、小嶋由貴が想像をたくましくし、話を盛って吹聴しているに違いない。谷口は怒りと決まりの悪さをかかえて歩きだした。
女性の悲鳴がし、谷口の体になにかがぶつかってきた。
紙片がまいあがり、ダンボール箱が廊下に落ちた。
制服の女子社員が曲がり角に尻もちをつき、驚いた目を開いてこちらを見上げている。谷口は壁に後ろ手をついたまま、その場に突っ立っていた。
廊下に散らばっているのは、A四版の帳票類だった。本社への業務便にのせるため、一階の納品所に運ぶ途中だったのだろう。
谷口はそうと気づいて、ばらまかれた書類を集めにかかった。それらをまとめながら、ドラマのワンシーンみたいだなと心が浮きたった。
「はい」と帳票を詰めなおしたダンボール箱を女子社員に手渡した。
彼女は、すみませんとしきりに頭を下げ、逃げるように階段を下りていった。
今年の新入社員だった。すると二十歳だろうか。目尻の下がった顔はおさなく見え、小さな体は頼りなげだ。くせのない髪をひとつに束ねていた。経理課で経費の申請をしたさい、彼女と顔を合わせていた。
その日、谷口はルートの顧客との打ちあわせに手間どり、帰社したのは午後六時過ぎだった。オフィスでEメールに返信していると、名前を呼ばれてふりかえった。
ドア口に、昼間の経理の女子社員が顔をのぞかせていた。
「あの、谷口さん。いまいいですか」小さな声で都合を聞いてきた。
「かまわないけど、こんな時間にどうしたの?」
定時過ぎまで谷口の帰りを待っていたのだろうかといぶかった。
そのとき、じとーっとした視線を感じた。向かい側のパソコンの陰から、小嶋由貴の細めた目が谷口をうかがっていた。失礼します、と経理の彼女が入ってこようとする。
「いいよ、おれのほうから行くから。外で話そう」
谷口は彼女をうながして廊下に出ると、オフィスのドアをぴしゃりと閉めた。
彼女は水城詩穂と名のった。谷口と詩穂は階段の下り口の近くで立ち話をはじめた。
「昼間は、わたしの不注意でたいへん失礼しました」
詩穂が、束ねた髪をはねあげる勢いで頭を下げた。
「それはいいんだ。おれも考えごとにとらわれて注意をおこたっていた」
谷口は、閉めきった営業部のドアをちらりと見やった。
「いいえ、ぼうっとしていたのはわたしのほうです。いつも失敗ばかりで、自分でもいやになるくらいです。ばらまいた書類を集めてもらったのに、お礼さえ言えませんでした。谷口さん、ありがとうございました」
詩穂がふかく腰をおり、たたっと去っていった。
これって、ドラマの始まりじゃない?
詩穂のうしろ姿を見送りながら、谷口は自分の顔がにやけるのを感じていた。
11月の第三週に入り、フランスワインのボジョレーが昼前に入荷した。木曜日の午前0時になると、日本では世界でもっとも早くボジョレー解禁となる。そんなおり、商品倉庫のフォークリフトが故障した。手作業で荷降ろしをしないといけなくなり、営業課の手すきの社員に手伝いの声がかかった。
谷口は桐島主任とともに一階の納品所に下りていった。3人の作業員による荷受けがすでに始まっていた。フォークリフトが使えないため、トラックで運んできたパレット積みのワインのケースを台車に積みかえる必要がある。
納品所では、詩穂がうろうろしていた。経理の彼女がなんの用だろうと谷口はいぶかった。検品でもするつもりだろうか。作業の邪魔になっていた。
桐島主任が3人の作業員に号令をかけている。搬入作業がてきぱきと進んでいる。さすがは元クォーターバックの指揮力だと谷口は感心した。桐島の指示のもと、十数台ある台車に谷口も木箱を積み上げていく。
「おい、水城。なにをやっているんだ」
桐島のきつい声に、荷台の運転手に話しかけていた水城詩穂の背筋がシャンとのびた。
「はい、経理主任に納品書を確認するように言われました」
「あとにしてくれないかな。そこの積みおわった台車を倉庫に運んでくれ」
「わかりました」詩穂が作業に加わった。
ロング台車には、12本入りのケースが8箱、合計96本のボジョレーがのっている。詩穂が不安定な腰つきで、その台車をのろのろと押していく。
「押すんじゃない。前が見えないだろ。ぶつけて倒したらどうするんだ?」
「すみません」詩穂がぺこぺこ頭を下げる。
経理課の彼女をいいように使っていいんだろうか、と谷口はかわいそうに思った。桐島はもう詩穂そっちのけで作業員に指示をとばしている。
商品の搬入は三十分ほどですんだ。詩穂が、階段口の近くのコンテナにへたりこんでいた。彼女は疲れきっているわりに、あまり役立っていないようだ。
谷口は駐車場の自販機でコーヒーを買い、それを詩穂の目の前に差しだした。見上げる詩穂の顔は上気してほんのり朱色になっていた。
「ごくろうさま。けっきょく、手伝わされちゃったね」
「はい、わたしを待ちかねて、経理主任のお局が怒っているかもしれません」
「経理課にまで応援の声がかかったわけじゃないんでしょう。なにかあったの?」
「わたし、追加分の発注をとばしてしまったみたいなんです」
「大丈夫だよ。少し足りないくらいなら、営業所間の商品移動でまだなんとかなるから」
「だと良いんですが」と詩穂はなおも落ちこんでいる。
「ほら」と桐島が納品書を差しだした。「これを確認しにきたんじゃないのか」
エンジン音が聞こえ、荷降ろしを終えたトラックが納品所を出ていった。詩穂はさっき運転手に納品書を求めていたのだろう。
詩穂がそれを受けとり、食いいるように内容明細を見ている。
「どう?」谷口はきいた。「なにか間違いはあった?」
「64ケース、合計768本。合っています。間違いありませんでした」
よかったあ、とほころばせた詩穂の表情に、谷口はドキリと胸の高鳴りをおぼえた。
「人騒がせなわりに、役にたたなかったな」
桐島が、元ラガーマンのがっちりした肩を大げさにすくめて立ち去った。
「こき使っておいて、あんな言い方はないよ。そうだ。手伝ってもらったお礼に昼飯をおごるよ。経理のお局には、手間どったわけをおれから説明しておくから」
「本当ですか。ありがとうございます」
詩穂がポニーテールの髪をはねあげ頭を下げた。
谷口は、とんとん拍子のこの展開に、星の巡りが変わりだしたのを感じていた。
その日の昼休みに、谷口は近くのパスタ屋で詩穂と食事をした。
詩穂が注文したのは、ペン先みたいなマカロニに、緑のソースと葉をまぶした一皿だけだった。詩穂が小柄でやせているとはいえ、あれで足りるのかなと谷口は疑問に思った。おごると言ったので遠慮しているのかもしれない。
谷口は大盛りのミートソースを平らげ、ピザを追加して、その一切れを詩穂に勧めた。
詩穂が片手を左右に振って、デスクワークの毎日で太ったみたいだからと断った。この発言は、他の女子社員には聞かせられない。
「――桐島さんって、どういう人なんですか」
ふいに詩穂の口から営業主任の名前が出て、谷口は意外に思った。
「どうって、荷降ろしの時のあんな感じだよ。リーダーシップのある頼れる先輩ってところかな。おれもいろいろ世話になっている」
「なんだか怖そうな人だなって。搬入作業中は、うろちょろするなって怒られました」
「怖くはないよ。営業にまで応援の声がかかったから、いらついてたんじゃないかな」
「それで、わたしもこき使われたんですよ」
「体育会系出身だからね。女性に対するデリカシーにかけているのかもしれない」
「あんな横暴な人に、彼女とかいるんですか」
「いまはフリーだって言っていたけれど」
緑色のパスタをフォークでつついていた詩穂が視線を上げた。
谷口は、恋愛運が上昇しだした余裕と、おおらかな気持ちとで言葉を続ける。
「桐島主任は、つい守ってやりたくなるような、頼りない女性がいいって話していた。あんがい、水城さんみたいなのが好みかもよ」
「重いロング台車を引っぱっているのに助けてくれませんでした」
目尻の下がった顔がむくれるのもかわいいな、と谷口は胸のときめきをおぼえた。
仕事を終えた谷口は、営業所の駐車場をとおって歩道に出た。桐島主任の肩幅の広い焦げ茶のコートの後ろ姿を見かけた。
「主任」谷口は桐島に追いついた。「おれ、今日、詩穂ちゃんとランチしたんですよ」
「なんだ。高山玲子はもういいのか」
「あんな富士の山頂みたいな女はあきらめました。金ばかりかかりそうじゃないですか。詩穂ちゃんなんて、おれがおごるって言うのに、マカロニみたいな緑のパスタを一皿だけ。それをフォークでひとつずつ食べるんですよ。来月のクリスマスには、イタリアレストランに誘ってみようかな。桐島さん、どう思います?」
「ペンネだ」
「えっ――」谷口は、桐島の反応についていけない。
「緑色のパスタだよ。それにバジルのソースと葉をからめたバジルペンネだろう。第三営業所で売上げトップになり、自信にあふれているのはいい。だからといって、慢心していると、思いがけず足をすくわれるぞ」
用事があるから、と桐島が青信号の点滅する横断歩道を先に渡っていった。
谷口は、どうかしたのかと桐島の態度の変化をいぶかしんだ。そういえば、『詩穂ちゃん』で水城だとすぐにわかっていた。経理課に必要経費の申請をしたときにでも、彼女と知り合っていたのかと不審に感じた。
12月に入り、ボジョレー商戦は終わった。近年、小売店ではボジョレーのダウントレンドが言われている。その流れは外食産業にも広がっていた。当初の目標より売り上げがのびず、第三営業所は予算割れとなった。時期外れのボジョレーはまず売れない。売れのこったワインで慰労会を行なう話になった。
その日、帰社した谷口は、同期の池田と廊下ではちあわせた。
「おまえ、高根の花にまだ未練があるそうだな。クリスマスイブにはプロポーズを敢行するんだって。おれはおまえを応援しているからな」
「違うって。誰からそんなでたらめを聞いたんだ」
「おれに隠さなくたっていいんだぞ」
みずくさいな、と池田が谷口の肩を叩いて去っていった。
谷口の恋の噂話はさらなる展開をみせているようだ。おおかた小嶋由貴の脚色に違いない。詩穂の耳にまではいったら大変だ。あのゴシップ女をとっちめて、おしゃべりな口をふさぐ必要がある。谷口は憤りをおぼえた。
午後四時半のミーティングのあと、営業所の会議室で慰労会の準備が始まった。会議テーブルには、ボジョレーの詰まった段ボール箱がのっている。酒類とともに卸しているオードブル類も紙皿に盛られていた。
川辺所長の乾杯の音頭で、立食の慰労会が開始された。第三営業所総勢二十六名の参加者が集まった。
谷口はグラスのワインを口にふくんだ。すっきりした味わいに、ほのかな渋みがある。胃袋がじんわり暖かくなった。今年のボジョレーの新酒は当たりだ。予算割れは残念だったが、売れのこりのお裾分けには得した気分になった。
テーブルをはさんだ向かい側では、桐島主任と高山玲子がグラスを片手に話している。谷口のいる側では、小嶋由貴と女子社員が笑いあっている。
由貴にはデマ情報の文句を言いたいところだが、玲子の同席するこの場ではためらわれた。谷口の恋話を肴に盛りあがりそうだ。詩穂の姿がないのが残念だった。
クリスマスイブには、詩穂ちゃんとイタリアワインで乾杯できますように――。谷口は願いをこめ、ボジョレーを一息にあおった。
ボトルはつぎつぎに開けられた。谷口はいい気分で飲みつづけた。なんだか悪酔いしそうだ。トイレに行くと、同期の池田が先に使用していた。もうひとつの便器は故障中で、個室のほうはうまっていた。
「おれは営業課の星を応援しているからな」と池田は呂律がまわっていない。
わかったから早くしてくれよ、と谷口は尿意をこらえた。
用をたし廊下に出た谷口は、会場に戻る玲子とはちあわせた。
「どうも」谷口は食事の誘いにしくじってから、仕事以外の話を交わしていなかった。
「なにが、どうもなんですか」
玲子が真顔で聞いてきた。唇のルージュがなまめかしい。
「ほら、先月だったかな。外回りで忙しいところを足止めしちゃったよね」
「ああ」と思い当たったらしい。「あのときは本当に自販機のお茶で良かったんですか」
「いやあ」本当はレストランのディナーだったんだけど……と口ごもった。
「そういえば、今年のクリスマスは金土にあたっていますよね。谷口さんのイブの予定はもう決まっているんですか」
「いまのところは未定なんだ」詩穂ちゃんと約束できたらいいんだけれど。
「そうなんですね。わたしも今年のクリスマスイブはフリーなんです」
微笑んだ玲子の口もとに、ほんのりえくぼがうかんだ。
――えっ。なに、これってどういうこと?
谷口は夢を見ているような気分になった。富士の高みから女神が降りてきた。詩穂ちゃんとの食事も捨てがたい。これって両手に花じゃない。どうしちゃったの? おれ。
「先に会場に戻っていますね」
玲子が視線を、谷口の肩ごしにながして廊下を歩きさった。
「谷口、第三営業所の期待の星はもてもてらしいな」
川辺所長がハンカチを手に立っていた。トイレの個室を使っていたのは課長らしい。いつもは憂いのある目もとが赤らんでいる。その目がすわっていた。
「そんなんじゃないですよ。高山さんには、先月フラれたばかりですから」
「性懲りもなく、イブには高山にプロポーズを敢行するそうじゃないか。10月の営業成績で一番になり、営業所の仲間の前で賞賛をあびて得意になる気持ちはわかる。だからといって、調子にのると痛い目を見るぞ」
川辺所長が、すごみのある声で釘をさし、会場に戻っていった。
プロポーズ? 谷口はあっけにとられた。
『おまえ、高根の花にまだ未練があるそうだな。クリスマスイブにはプロポーズを敢行するんだって。おれはおまえを応援しているからな』
谷口は、池田の言葉を思い出した。小嶋由貴の流言が拡大発展し、第三営業所ではそんなデマが蔓延しているようだ。あの女にはあらためて腹がたった。川辺所長も所長だ。そんなでたらめを真にうけるなんて。妬くなやくな。おれの恋愛運は、いま絶好調なんだ。高山玲子と詩穂ちゃんの、どっちにしようかな。どっちもいいな。まいったなあ。今年はクリスマスイブが楽しみだ。
谷口は自然に顔がほころぶのをおさえられなかった。
翌週にクリスマスをひかえた金曜になった。その日、詩穂が会社を無断欠勤した。どうしたのかと谷口は心配になり、昼休みに経理課をのぞいてみた。
経理主任の四十半ばの女性がパソコンに向かっていた。分け目のうすい髪をひっつめにし、骨ばった険のある顔でキーボードを叩いている。経理のお局さまだ。
「あのう」谷口は恐るおそる声をかけた。
「なんですか」お局はパソコンの画面から目をそらそうともしない。
経理主任によれば、詩穂は発注数量を一桁間違えて入力するミスをしたそうだ。
「今回が初めてじゃないのよ。よもやと確認したから大事にいたらなかったけれど。あの子にちょっと注意したら無断欠勤でしょう。社会人としての自覚が足りないのよ。最近の若い子はこれだからだめなんだわ」
詩穂はよほどひどく叱責されたらしい。谷口は詩穂のスマホにかけてみたがつながらなかった。メールを送っても返ってこなかった。彼女の住所は知らないし、それを調べて押しかけるのも気がひけた。
翌週の月曜の朝、谷口は、営業所の出入り口で、出勤してきた桐島主任と詩穂に出くわした。寄りそって歩く二人はなんだかいい雰囲気だった。
「桐島さん」谷口は驚いた。「どうして詩穂ちゃんと同伴なんですか」
「悪いな。谷口の気持ちは知っていたんだ。詩穂が落ちこんでいると聞いて、彼女と連絡をとった。彼女の相談をうけているうちに泣きつかれちゃってさ。そんなに頼られたら、男として放っておけないだろ」
ほんと悪い、と桐島が顔の前で両手を合わせた。
仲むつまじそうに出勤する二人を、谷口はただ見ているばかりだった。
オフィスのパソコンの前に座っても、谷口は仕事が手につかなかった。Eメールをぼんやりながめていると、向かい側の席の小嶋由貴が立ちあがった。
「高山先輩、ご結婚おめでとうございます。寿退社ですね」
なんだって。谷口は思いがけず顔を上げていた。
オフィスに入ってきた高山玲子が困ったような顔つきをしている。
由貴によれば、相手は川辺所長だという。川辺と妻の別居は二年以上続いていて、その間に玲子と付き合いだしたらしい。慰労会のあと二人の仲はふかまり、川辺はついに離婚を決めた。クリスマスイブに入籍するという。
谷口は由貴の言葉が信じられなかった。ゴシップ女の妄想だと思いたかった。玲子はとまどいを隠せない様子だったが、否定はしなかった。
そこに川辺所長が出勤してきた。所長はロマンスグレーの髪をなでつけ、長身に黒いスーツがきまっている。
川辺と玲子が並ぶと、婚約を知った部下から、お祝いの声があがった。いつもは憂いのある所長の目もとがほころんでいる。玲子の冷たい表情がはにかんでいる。オフィスに盛大な拍手がわきあがった。谷口を応援しているはずの池田が、ひといちばい大きく手を叩いていた。
谷口はひとり、デスクにとりのこされていた。
両手の花はどちらもいなくなった。突然の驚きに谷口はとまどうばかりだ。
――えっ、なんで?
まるでわからなかった。
了




