婚約破棄を……撤回する……
王都に春が訪れた。
陽の光が窓辺に注ぎ、鳥がさえずる優雅な午後。そんな平和の象徴のような王宮の応接間にて、王太子クラウジア・フォン・レグノス殿下は、今まさに――己の人生の自由を賭けた、最後の決断を下そうとしていた。
「……アリスティア・エリザルス」
声は低く、表情はどこまでも真剣だった。これまで何度も台詞を頭の中で繰り返した。鏡の前でリハーサルもした。あの“魔性の婚約者”に対して、きちんと筋を通して話をするために。
アリスティアは、相変わらず美しかった。
深紅のドレスを完璧に着こなし、金の縁をあしらったティーカップを優雅に傾けながら、紅茶の香りを楽しんでいる。まるで、世界の中心が自分であるかのような堂々とした佇まいだった。
「はい、殿下。そんなに深刻なお顔をして、どうかなさいました?」
その一言が、決意を固める最後の引き金となった。クラウジアは立ち上がり、拳を握りしめ、凛とした声で告げた。
「私は――君との婚約を、破棄したい!」
応接間に沈黙が走った。
紅茶を飲みかけていたアリスティアが、カップをそっと受け皿に戻す。ゆっくりと、完璧な動作で。まるで“この瞬間が来ることを、待っていた”かのように。
「まあ……急になんてことを仰いますの?」
「いや、前からずっと思っていた。君とは性格が合わない。価値観が違うんだ。君は貴族としても、女性としても申し分ない。だが、それゆえに……息が詰まる。もう限界なんだ!」
噴き出すように吐き出した言葉に、どこか哀切の響きがあった。
クラウジアは嘘を言っているつもりはなかった。事実、アリスティアは完璧すぎる。口喧嘩では一度も勝ったことがない。何気ない一言で理論武装され、無言のまま論破される日々――
王宮生活の中で、あらゆる局面において、常に「殿下、それは誤解でございます」とにっこり笑って修正される地獄。クラウジアは自由を欲していた。ただ、それだけだった。
だが――
「それは、そうですね……殿下のお気持ちも、わからないではございません」
アリスティアが、静かにうなずく。
クラウジアは思わず固まった。
……え? 認めた? こんなにあっさり?
こんなに練って練って練り上げた説得劇が、まさかのワンターン勝利?
「そうですわね……婚約を破棄されたいのでしたら、私としても致し方ありませんわ」
「……ッ!」
驚きと安堵が同時に押し寄せる。
「ただ、その前に」
――出た。
クラウジアの心臓が、きゅっと音を立てた気がした。
「婚約破棄の正式な手続きには、いくつかの問題がございます。たとえば、“誰に責任があるか”を明記しなければなりません。もちろん、王太子殿下が一方的に破棄をご希望されたとなれば……」
「……名誉の問題になる、ということか」
「ええ。私の名誉を守るため、必要最小限の情報公開に留めるつもりですが……念のため、殿下が以前拾われた猫の話などは――」
「それだけはやめてくれ!!!!」
即答だった。
その話題にだけは触れてはならない。
王太子殿下が深夜にひとり、捨て猫を抱えて王宮の厨房に忍び込み、ミルクをあたためていたという可愛らしすぎるエピソード。それを国民が知ったら――いや、知ったら知ったで人気は上がるのかもしれない。が、羞恥で死ぬ。
「私は寛大ですので、殿下の名誉はきちんと守るつもりですのよ? けれど、“婚約破棄”というのは、どうしても波風が立ちますもの。事前に防火線を張っておかないと。念のため」
アリスティアは微笑んだ。
その笑みは、あまりにも美しかった。まるで“勝利宣言”のように。
「それに、婚約破棄には国王陛下の許可も必要ですし。ご存じでしたでしょう?」
「くっ……ぐ……っ」
クラウジアは歯を食いしばった。
すべて読まれている。すべて塞がれている。
どんな逃げ道も、出口も、すでに“婚約者アリスティア”によって封じられていた。
結局、彼が出せた唯一の結論は――
「婚約破棄を……撤回する……」
「ご英断ですわ、殿下♡」
アリスティアが紅茶に口をつける。
その瞬間、クラウジアは思った。
(この女に勝てる日は、果たして来るのだろうか……)
***
――我ながら、完璧な作戦だった。
そう、少なくとも昨日までは思っていたのだ。
クラウジア・フォン・レグノス王太子殿下、十八歳。婚約破棄を目指す青年貴族にとって、今こそが勝機だった。
彼は深夜の書斎にて、膨大な恋愛小説と政治書を読み漁りながら、ついに一つの結論に至ったのである。
――そうだ。別の恋人ができたと“誤解”させればいいのだ。
誰も傷つけず、事実上の破棄へと持ち込める。
この世に完璧な手など存在しないかと思っていたが、あった。あったのだ。
(これしかない。これでようやく俺は自由を手に入れる……!)
王太子の顔には不気味な笑みが浮かんでいた。
その姿は、まるで明日から独り身になることを夢見る恋に疲れた青年そのもの。
なお、背後でため息をつく近衛騎士ロランの存在は無視された。
「で、誰に偽の恋人役をやらせるつもりなんですか?」
「決まっている。ルミナ・セラフィーナ嬢だ。彼女なら断らない。ちょうどこの間、私が舞踏会で彼女のドレスの裾を踏んでしまって、その埋め合わせを申し出たところだった」
ロランは額を押さえた。
この主君、毎回なぜこうも自滅志向なのだろう。
「……殿下、それ、完全に“弱みを握られている”状況ですけど?」
「いいんだよ! 持ちつ持たれつだ!」
「その“持たれ”の方向が違う気がしますが……」
忠言は虚しく霧散した。
そして――作戦決行当日。
庭園の中央にある噴水の前、陽光差し込む白いベンチーー花が咲き乱れるロマンティックなその場所で、クラウジアは“恋人役”のルミナ嬢と談笑していた。
人目があることは計算のうち。視界の端には、こちらを監視しているアリスティアの侍女がいる。完璧だった。
「……そうですの、殿下。では、あの夜もずっと……私のことを?」
「うん、そうなんだ。最初は気づかなかったけど……君が笑ったとき、なんというか、胸の奥が――」
「うふふふふ♡」
ルミナが頬を染めて笑う。
だがこれは、あくまで演技。演技なのだ。ルミナは冷静に台詞をなぞっているにすぎない。クラウジアも心得たもので、台本通りの“恋愛劇”を堂々と演じてみせた。
(これで……アリスティアも気づくだろう……! 私の心はもう、別の誰かに向いているのだと……!)
だが――。
「ごきげんよう、ルミナ嬢。殿下。とても仲睦まじくて、見ていて頬が緩みましたわ」
現れたその声に、クラウジアは全身を凍りつかせた。
アリスティア・エリザルス。
どこからともなく現れた婚約者は、笑顔のまま音もなく接近してきた。しかも両手に“資料ファイル”のようなものを抱えて。
彼女は、まずルミナを見た。そして――
「ルミナ嬢。最近は“第二王子の側仕えとして仕官を希望しておられる”と伺いましたけれど?」
「へっ!?」
ルミナの目が見開かれた。
「それと、あなたのご実家であるセラフィーナ家が、最近財政難で“王室からの支援を望んでいる”という噂も――こちらの公文書で確認いたしましたわ」
「な、なんでそんなことを……ッ」
「もちろん殿下が信じてくださるなら、私も止めませんわ。ただ、“婚約破棄”を理由に、名誉を損ねた者が他の王族に近づいていたとなれば……さすがに面倒なことになりますでしょう?」
アリスティアは慈悲深い微笑を浮かべていた。
慈悲深い――が、その内側にある“恐怖”をルミナは察したらしい。
すぐにルミナは立ち上がり、クラウジアの肩に手を置いた。
「……あの、殿下。やっぱり……私たち、ちょっと早すぎましたわね。恋人ごっこなんて、ふざけた真似はやめましょう。では、失礼します!」
退場、完了。逃げるように去っていくルミナの背中を見送りながら、クラウジアは座ったまま顔を覆った。
「…………アリスティア。君は……なぜそこまでして、婚約を続けたい?」
「私、殿下のことが……好きですもの♡」
即答。
そしてその裏に、“逃げられると思って?”という無言の圧があった。
「そ、そうか……そうだよな……私が間違っていた……」
静かに、敗北の鐘が鳴る。
「婚約破棄を……撤回する……」
「ご英断ですわ♡」
再び敗北した王太子の心に、春の風が吹き抜けた――切ないほどに。
***
――もう、穏便な手段では無理なのだと理解した。
王太子クラウジア・フォン・レグノスは、ベッドの上で天井を仰ぎながら深くため息をついた。
説得作戦は敗北。偽恋人作戦も、秒速で瓦解。
彼が思いつく“やんわりとした別れ話”は、どれもアリスティア・エリザルスによって、息の根を止められてきた。
……もう、情や言葉で何かが通じる相手ではない。
ならば。
ならばこちらも“法”で戦うしかないのだ。
「婚約破棄の訴訟を起こす!!」
その宣言は、近衛騎士ロランの朝食のパンを吹き出させるのに十分だった。
「そ、訴訟!? 王太子が、自分の婚約者相手に!? 前代未聞ですよ!?」
「仕方ないだろ……もう私にはこれしかないんだ。彼女を納得させるには、正式な裁判しかない」
「……殿下、わかってますよね? 裁判って“証拠と法理”で決着がつくんですよ……?」
「もちろんだ!」
即答だった。が、その裏に“証拠と法理が私に味方する気がする”という、根拠のない希望があったことは否定できない。
そして、準備は進んだ。
形式としては“名誉毀損による婚約関係の解除申請”。王族の婚約において、名誉問題が絡めば正式な婚約破棄が認められることもある――が、これは極めて稀なケースだ。
しかも今回、その“名誉を傷つけられた側”を名乗っているのがクラウジア殿下。
誰もが心の中でこう思っていた。
(……アリスティア嬢に名誉を傷つけられた? 殿下が? 本気で言ってる?)
しかし、裁判は開かれた。
場所は王宮の小法廷。王族専用の非公開裁判として、証人も少人数に絞られている。
クラウジアは、開廷直前の控え室で、震える指先を見つめていた。
(やるんだ……これは国家の未来を賭けた戦い……!)
そう、これは個人的な婚約破棄ではない。
“常識的な夫婦関係を望むすべての男たち”のための、代表戦なのだ。
「クラウジア殿下。お時間です」
廷吏の声がしたとき、彼は胸を張って歩き出した。
王太子の威厳と誇りを胸に抱き――
だが。
「では、被告側の反証をご提出ください」
法務官の声と同時に、アリスティア・エリザルスが静かに立ち上がった。
クラウジアは思わず目をそらしたくなる。
……やばい、出た。あの“本気モードのアリスティア”が。
彼女は一礼のあと、涼やかな声で告げた。
「まず、殿下が名誉を毀損されたと主張した件について――こちらに、すべての会話記録がございます」
差し出されたのは、厚さ数センチの書類束。
クラウジアは目を見開いた。
「なっ……そんな記録、どうやって……!?」
「以前、殿下が“未来のために自分の発言を記録しておきたい”と仰って、私に頼まれていた魔道録音石ですわ」
「……あああああれかあああああ!!」
自分で仕込んだ罠だった。
かつて、日記代わりに自分の声を残したいと無邪気に願った日々。
アリスティアはそれを“丁寧に”“すべて”“保存していた”。
さらにアリスティアは、次なる一撃を加える。
「加えて、殿下が“婚約破棄のために自らの義務を故意に怠った”という点。これは婚約契約の“誠実義務”違反にも該当します。こちらにその記録もまとめておりますわ」
「なに……!?」
法務官が書類を手に取り、うなった。
「ほう……日々の贈り物未達、定期連絡の省略、舞踏会の同伴拒否……これは、継続的な婚約破棄意図の表れと……なるほど」
「待って! 待ってくれそれは違うんだ!! 舞踏会は……猫が……」
「猫、ですって?」
小声のつもりだったが、聞かれていた。
クラウジアは一瞬で黙り込む。
まさかあの夜、熱を出した黒猫を寝かしつけるために欠席したなどとは言えない。
王太子の尊厳が瓦解する音が、法廷の空気を包んだ。
――そして、評決は下った。
「申請棄却。婚約は継続とする」
クラウジアはその場で崩れ落ちた。
その日、彼は心の中で叫んだ。
(もう……なんなんだよ……っ)
出口がない。策を尽くしても、彼女には届かない。
完璧に組み上げられた法と証拠の壁が、婚約を守り抜いている。
「婚約破棄を……撤回する……」
「ご理解、感謝いたしますわ、殿下♡」
法廷を去る彼女の後ろ姿は、どこまでも優雅だった。
地に伏す王子を置き去りに、勝者は今日も微笑む。
***
――最終手段だ。
クラウジア・フォン・レグノス王太子殿下は、王宮の廊下を歩きながら心の中でつぶやいた。
過去三戦三敗。説得、恋人作戦、裁判と試してみて、この婚約がいかに鉄壁かを思い知らされた。
そして今日、彼はついに“最後の砦”にして“国家権力そのもの”に頼る決意を固めていた。
「父上。お願いです。アリスティアとの婚約、解消したいんです……」
王座の間に響く切実な懇願。
それは、王太子としての威厳も、男としてのプライドもすべて投げ捨てた、本気の“泣きの一手”だった。
王座に腰かける中年の男――レグノス国王レオポルト三世は、頭痛をこらえるように額を押さえた。
「……またその話か、クラウジア」
「“また”って……この問題は私の人生に関わることなんです! もう限界なんですよ、あの完璧すぎる令嬢に囲い込まれる日々が!」
「囲い込むって……お前、政務をサボった時も彼女が代理で報告書を書いてたんだぞ?」
「だからこそ怖いんです! ミスをしない。愚痴も言わない。いつも完璧で、しかも私が何かやらかすと、やさしくフォローしながら記録に残してくるんです!」
もはや半泣きだった。
「父上、王命として! 彼女との婚約を解消してください……!」
王国の未来よりも、息子の精神が危うい。
レオポルト三世は重い腰を上げ、苦悩に満ちた表情で息子に向き直った。
「……クラウジアよ。お前にとって彼女は“完全無欠すぎて怖い相手”なのだろう。それは、よくわかる」
「ならば……!」
「だがな」
王は、ずしりと重い声で告げた。
「……父上ですら、アリスティア嬢には逆らえないのだ」
「…………は?」
あまりに真顔で言われたため、クラウジアの思考は完全に停止した。
「そもそもな。あの子はな……お前よりも数段、王宮の重臣たちに信頼されておる。そちの教育係だった宰相だって、口癖が“アリスティア嬢がいればクラウジア殿下も大丈夫”だと言っている」
「なんで私より信用されてるんですか!!?」
「それだけじゃない。王宮財務局の帳簿整理を手伝ったり、外交文書の誤訳を訂正したり……正直、あの子がいなければ王政は三回ぐらい崩壊していた」
「……俺の婚約者、国家そのものだった……?」
ショックが大きすぎた。
「彼女との婚約を破棄するというのは、すなわち“国家機能の一部を喪失する”に等しい。王太子として、わかるな?」
「そんなプレッシャーある婚約、聞いたことないんですが!?」
王は深いため息を吐き、玉座に背を預けた。
「それに……私個人としても、アリスティア嬢を娘にしたい」
「父上、恋でもしてるんですか!?」
「癒されるんだよ……「陛下はお疲れでしょう?」って毎回肩を揉んでくれてな……それでいて誰よりも厳しく、無能な役人をまとめて処理してくれるし……」
「父上がすっかり家臣になってるじゃないですか!!」
クラウジアは頭を抱えた。
もうこの王宮には、彼の味方が存在しないのかもしれない。
というか、もはや自分が“王太子”という肩書でいられるのも、アリスティアのおかげなのでは? という疑念すら湧いてくる。
絶望しきって立ち尽くす息子に、レオポルト三世は静かに近づき、肩に手を置いた。
「諦めろ、クラウジア。お前は……もう彼女からは逃れられん。これが、王家の運命というものだ」
「そんな運命、聞いてません!!」
そして――その日の午後。
執務室で報告書を書いていたアリスティアの元へ、クラウジアが無言で現れた。
彼女は筆を止めて振り返り、微笑む。
「どうかされました、殿下?」
クラウジアは、しばらく言葉を探していた。
だが、もう言い逃れも言い訳も、すべて虚しく感じられた。
「……もういい……全部、私の負けだ……」
「ふふっ、また何かありましたの?」
「父上に泣きついたけど、“国家機能の一部を切るつもりか”って怒られたよ……」
「まあ、それは困りますわね♡」
アリスティアはまるで天使のように笑った。
だがクラウジアには、その笑顔が“王国最強の檻”にしか見えなかった。
「婚約破棄を……撤回する……」
「ありがとうございます、殿下。これで今月だけで四度目の撤回ですわね」
「それ数えるのやめてくれないか……」
クラウジアは机に突っ伏した。
その背を見ながら、アリスティアはそっと紅茶を淹れ直す。
彼女の瞳は、誰よりも優しく、そして誰よりも冷静だった。
――次は、いつ動くのかしら?とでも言いたげな、その目で。
***
――こうなったら、もう、逃げるしかない。
クラウジア・フォン・レグノス王太子殿下は、書き置きをしたためながら、真剣にそう考えていた。
机の上には、几帳面な筆跡でこう書かれている。
父上、母上。私は婚約から逃げます。王子である前に、一人の男として、自由を選ぶのです――クラウジア
それはあまりに潔く、しかし同時にあまりにも情けない覚悟だった。
「ロラン……準備は?」
「殿下……本気なんですか?」
近衛騎士ロランは、重いため息を吐きながら、王宮の裏門を確認していた。
荷馬車はすでに待機しており、変装用の服も用意済み。王子専用の抜け道ルートも完璧に把握している。
クラウジアの命令を“冗談”だと思っていた彼ですら、いまは本気であることを悟っていた。
「……まさか、王太子が夜逃げする日が来るとは……」
「誰が夜逃げだ! 私は……脱出するんだ! この呪われた婚約から!」
クラウジアの目は鋭く光っていた。
ここまで来ればもう、プライドも地位も関係ない。
彼はただ、婚約から逃れたかったのだ。
「これ以上、彼女に“婚約破棄を撤回する”って言わされる人生なんて……ごめんだ!!」
ロランはこめかみを押さえた。
「……でも殿下、いちおう確認しますけど、アリスティア嬢には何も伝えてないんですよね?」
「当たり前だろ!! そんなことしたら“逃げ道”ごと潰されるに決まってるじゃないか!!」
それは完全に正しい予測だった。
だからこそ、問題だったのだ。
夜、月が高く登った頃――
二人は王宮の裏門を抜け、静かに森へと馬車を進めていった。
王都の灯が遠のき、風の音が木々を揺らす。
「よし……成功だ……このまま国境へ向かえば、もう誰にも止められない……!」
クラウジアは心から安堵した。
だが、その瞬間――
「こんばんは、殿下。ロランさん。ずいぶん夜風がお好きなようですわね」
突然、馬車の前に、紅いドレスを纏った影が立ちはだかった。
その微笑みは、月明かりよりも冷たく、美しかった。
「アリスティア……っ!? なっ、なぜここに!?」
あまりの衝撃に、クラウジアは馬車の中で尻もちをついた。
「もちろん、お気づきになってないかもしれませんが……殿下の部屋には常に“逃亡フラグ監視魔道具”を設置しておりますの」
「そんな便利な道具、いつの間に設置を……!!」
「ええ、去年の秋頃に。殿下が“冬眠したい”と呟いて、窓を打ち破って逃げ出しかけた事件をきっかけに」
「……私の人生、もはや監獄じゃないか……」
嘆くクラウジアに、アリスティアは一歩近づいた。
「殿下。“逃げる”というのは、恋愛において最も失礼な手段ですわ。せめて“堂々と捨てて”くださらないと、私は納得しません」
「……どっちにしろ、別れるつもりなんてないくせに……」
彼女の言葉の鋭さに、ロランが口を挟む。
「アリスティア嬢……申し訳ありません。これは私が唆したわけでは……」
「ええ、わかっています。ロランさんは常識人ですもの」
クラウジアだけが非常識であると言外に言われているのは明白だった。
クラウジアは顔を両手で覆い、呻いた。
「……私が悪かったよ……馬車を用意したり、こそこそ逃げようとしたり……全部悪かった……」
「そうですか」
アリスティアはにっこりと笑った。
「では、そろそろお戻りになりますか? 王都では“王子が誘拐された”という噂で盛り上がっておりまして、国王陛下が大変ご心配されておりますの」
「……誘拐じゃなくて、勝手に逃げただけなんだけどな……」
「でも世論操作としては“誘拐された哀れな王子”の方が好感度が高いですわ。大衆の心を掴むには、被害者ポジションが一番ですもの」
「……逃げ道も、逃げた理由も、すべて利用されている気がする……」
そして数時間後。
王都の門をくぐった一行は、王宮へと戻っていった。
途中、市場の人々からは「あっ、王子さまだ!」「ご無事でよかったー!」という歓声すら上がる。
(なんで“誘拐されたことになって”人気が上がってるんだ……)
馬車の中、クラウジアは頭を抱えながら、アリスティアの隣に座っていた。
「……なあ、アリスティア」
「はい、殿下?」
「……そろそろ、降参してもいいかな……」
その声は、完全に心が折れた男のそれだった。
「婚約破棄を……撤回する……」
「ふふ♡ 五度目のご撤回、お疲れ様です、殿下♡」
その夜、王宮の執務室にて、アリスティアはそっと紅茶を口に運びながら、記録帳に“婚約破棄撤回5回目”と書き足した。
クラウジア・フォン・レグノス。王子にして、逃亡者。
彼の戦いは、次回が最後である――。
***
王宮の朝は静かに始まった。
だが、王太子クラウジア・フォン・レグノスの心には、嵐が吹き荒れていた。
「……なんだ、この不穏な静けさは」
執務机の上には、いつものようにアリスティア・エリザルスからの連絡書が届いていた。
だが今日は、何かが違っていた。
文章の冒頭に、こう書かれていたのである。
ごきげんよう、殿下。
昨夜、思うところがありましたので、しばらく王宮を離れます。
「……え?」
読み進めると、彼女は“婚約の継続について再考の余地がある”と記していた。
クラウジアは椅子から転げ落ちそうになった。
「な、なななななな……っ、なにぃ!? 再考ぉ!? アイツが!? アイツが婚約を!?」
今まで、あらゆる手段で婚約破棄を防ぎ、あまつさえ自分を逃がさず、訴訟すら潰してきた“鉄壁の女”が――ここに来て、まさかの方針転換。
突然の撤退宣言は、クラウジアの脳に深刻なバグを引き起こした。
「なんで……なんで今なんだ……ッ!!」
心当たりは、あった。
前夜、彼は確かに口走った。
「もう……全部、君の手のひらの上なんだな……なんか……疲れた……」
と。
寝言混じりのぼやきだったが、アリスティアはいつだって聴いている。
心の声ですら拾ってくる女だ。
だから――彼女は気を遣ったのだろう。“一時的に離れることで、殿下に考える時間を与える”などと。
それが、今。
本当に“別れるかもしれない”という選択肢になって、目の前に現れた。
「…………え」
クラウジアは、自分の胸の奥に浮かび上がってくる感情を見つめた。
――あれ? 俺、なんか……寂しい?
気のせいだ。そう思おうとした。
だが、王宮の廊下を歩くたび、どこかが物足りない。
昼、誰かが戸をノックしても、アリスティアの声じゃない。
報告書を読んでいて、句読点が不自然に感じても、もう彼女が校正してくれるわけじゃない。
午後、紅茶を淹れようとして気づいた。
――誰も、淹れてくれないのだ。
(あれ? 俺……いつも、あの子に……全部任せてた……?)
今さらながら、実感する。
あの完璧な婚約者がいないだけで、王宮の空気が妙に間延びして、淀んで、歯車がずれていく。
「おいロラン……なあ、ロラン?」
「はい」
「……これは、寂しいって思ってるってことなのか?」
「自分で気づいている時点で、そうなんでしょうね」
「マジか……」
クラウジアは天を仰いだ。
その夜、クラウジアは意を決し、アリスティアが滞在しているエリザルス公爵家へ馬を走らせた。
夜の街は静まり返っていたが、彼の心は静かではなかった。
鼓動が速い。なぜか呼吸も浅くなる。
「アリスティア……いるか……っ!」
扉を叩いたとき、迎えたのは侍女だった。
「おや、殿下。お嬢様でしたら、ちょうど月を見ておられますよ」
庭園へ通されると、そこに彼女はいた。
淡いドレス姿で、夜風に髪を揺らしながら、月を見上げていた。
いつものように完璧な微笑ではなく、どこか儚げな雰囲気だった。
「……こんばんは、殿下」
「……アリスティア」
二人の間に、初めて“沈黙”が生まれた。
これまで会えばすぐに応酬が始まり、反論と説得と皮肉と微笑みが飛び交っていたのに。今は、何も出てこなかった。
だからこそ、クラウジアは思わず叫んでいた。
「お願いだ!! 婚約破棄を、やめてくれ!!」
アリスティアの目が見開かれる。
その声は、王太子のそれではなかった。
完璧な振る舞いを誇る貴公子の顔ではなかった。
ただの一人の青年。
あまりにも不器用で、プライドが高くて、ようやく自分の気持ちに気づいた少年のような声音だった。
「ずっと……お前のこと、敵みたいに思ってた。何をしても論破されて、逃げようとしても捕まって、裁判にも負けて、馬車すら潰されて……」
「ずいぶん恨まれてましたのね?」
「そうだよ! でも……そんなお前がいなくなったら……なんか、いろんなことが……空っぽに見えて……」
言葉が途切れる。
アリスティアは、微笑まなかった。ただ、静かに問い返した。
「では殿下。婚約破棄を、どうなさるおつもりですか?」
クラウジアは拳を握った。
月明かりの下、決意を込めて言い切った。
「――撤回する。じゃなくて、“やめる”。婚約破棄なんて、最初からなかったことにしてくれ」
アリスティアの唇が、わずかに綻ぶ。
そして、今度は確かに微笑んだ。
「ええ。喜んで、殿下♡」
***
それから一ヶ月後。
王都では“クラウジア殿下とアリスティア嬢の正式な婚姻準備”が発表され、街中が祝福ムードに包まれた。
なお、婚約破棄の記録については、アリスティアがすべて“婚約調整に関する交渉の一環”として処理済みである。
そして今日も、クラウジアは執務机の前で頭を抱えていた。
「……あの記録、まだ残ってるの……?」
「もちろんですわ。なにせこれは、将来のお子様に“殿下がどれだけ逃げていたか”を説明するための、大切な教育資料ですもの」
「それだけはやめてくれ!!」
こうして、彼の戦いは終わり、
彼女の勝利は確定した。
――そして、愛すべき二人は、“撤回”ではなく、永遠の約束へと至るのである。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。気に入りましたら、ブックマーク、感想、評価、いいねをお願いします。
星5評価をいただくと飛んで喜びます!