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6 逆に怖がらせただけ

 最近のジュリエンさまは、とにかく忙しい。


 書類の山、次から次へと入る来客、王都からの使い。

 どれもこれも公爵家の嫡男として逃げられぬ職務であり、当然ながら、一人で抱え込むことができる量ではありません。


 私はその補佐として日々奔走しているわけですが、今日に限っては()()()()でした。


 執務室には誰の出入りもなく、扉の向こうからは、筆を走らせる音さえ聞こえません。


 唯一の癒しであるソフィーさまにも全然お会いできてないわけですし、これはいよいよ限界が来てしまったのではないかと思い、私は一杯の温かいお茶を淹れて扉の前に立ちました。


「ジュリエンさま。失礼いたします。お茶をお持ちしました――」


 ノックする前に、ドガン!! という轟音と共に、扉が吹き飛ばんばかりの勢いで開きました。


「ジル!! 」


 ――出てきたのは、鬼気迫る形相のジュリエンさま。


 髪は乱れ、上着は半分着崩れ、目はギラつき、手にはまだ羽ペンが握られていました。

 まるで、戦地から帰還した兵士のような様相です。


 私はあまりの迫力に思わず後ずさりそうになるのをこらえ、すぐにジュリエンさまを庇うように立ちます。

 何が起きたのか思いつく限りの選択肢を頭の中に挙げていきます。


 まず思いついたのは、襲撃。

 しかし、すぐさまその選択肢は消えました。

 私たちを庇うようにして目の前に立つ護衛たちでさえ、何事かという表情をしているのです。公爵家の護衛ともあろう者たちが全員、護衛対象に遅れを取ることなどあり得ない失態ですので、何かあればすぐに動いていたはず。

 これほど殺気立ったジュリエンさまを見るのは久しぶりなので、私たちも少し動揺してしまったようです。


「ジュリエンさま、どうなさったのですか……!?」

「……馬車を出せ、今すぐに。アルノー家へ向かう」

「は……!? 今すぐですか!? それはいったいどうして……」

「…………っ」


 そこでジュリエンさまは目を伏せ、今までに見たことがないほど顔を青ざめさせました。


 ……これは、ただごとではない。


 もしやソフィーさまに何かあったのでは、と嫌な予感が頭によぎりつつ、言われた通りすぐに馬車の用意をさせます。


 いつもなら丁寧に仕立てた服を着ていくはずなのに、今のジュリエンさまは着替えの時間すら惜しいといったように、その辺にあった上着を手早く羽織っておられます。


「ジュリエンさま。いったいアルノー家に何があったのですか?」

「……ソフィーが……」

「アルノーさまが……?」

「ソフィーが……死ぬ夢を見た」


 ……ふぅ。


 私は、一度ゆっくりと目を閉じ、そして深呼吸しました。


 ああ、なるほど。

 とうとう、恋するあまりに情緒が迷子になる現象が、夢にまで及ぶようになったのですね。


「……とりあえず、落ち着いてください。お茶、飲みます?」

「飲んでる場合じゃない!!」


 ビュンッと私の横を通り過ぎていったペンが、壁にドスリと刺さる音がしました。


 うん。きっとこれはソフィーさま不足の重篤な症状なのだ。

 普段なら冷静に考えていられることを、今のジュリエンさまは度が過ぎた疲労のせいで、一瞬の感情にすべてを支配されてしまっています。


 私は執事として、彼が円滑に仕事を進められるよう、ときには手段を選んでいられません。

 ソフィーさまに会うことで、ジュリエンさまが元通りになるのならば。


「では、すぐにアルノー家へ向かわせます。全速力で」




 ほどなくして、ジュリエンさまと私は馬車に飛び乗りました。

 目的地はもちろん、「おっとり伯爵家」ことアルノー家。


「で、ジュリエンさま。……その夢の内容というのは?」

「……覚えていない……」

「は?」

「でも……泣いていた。ソフィーが……悲しそうで……すごく苦しそうで……」

「…………」


 それを聞いた私は、車窓の外を見ながら深くため息をつきました。

 夢の内容すら曖昧。それなのに、慌てて駆けつけてしまうこの情緒。

 もう、重症です。


 人間、疲れるとこうなるんだなぁと、これからは体を拘束してでも休憩させようと、そう誓いました。



 ***



 そして、アルノー家の門前。


 私が馬車の扉を開けると、ちょうどソフィーさまが玄関から姿を現しました。

 急に訪れたにも関わらず、焦りや怒りを見せることもなくゆったりとこちらを迎えてくださっています。

 さすがはアルノー伯爵家です。


「あら、ジュリエンさま……? どうされましたか?」


 ソフィーさまはいつも通り、穏やかで優しげな微笑を浮かべています。

 服も整っているし、怪我もしていません。まさしく健康そのもの。


 しかしジュリエンさまは、それでもなお険しい顔のまま、無言で周囲を警戒しながらソフィーさまに近づいていきました。


「怪我などは、していないか?」

「え……私は、大丈夫です。何か、あったのですか?」


 殺気立ったジュリエンさまの様子に気が付いたのか、ソフィーさまが不安げに瞳を揺らしておられます。


「いや……何事もないなら、いい」


 それだけ言うと、ジュリエンさまはソフィーさまの背後を見て、右手で何かをはらうような仕草をしました。

 まるで、見えない何かから守るかのように。


「今日は、頼むから外に出ないでくれ。家にいるように」


 真剣な表情でそう告げるジュリエンさまに、ソフィーさまは明らかに困惑しています。目をぱちくりさせて、戸惑いを隠せない様子です。


「そ、それでは……私、何かお飲み物でも……」

「いや、いい。何もなくてよかった。では」


 そしてそのまま、彼はくるりと背を向けました。


 ――え? 帰るんですか?


 せっかく久しぶりに会えたんだからせめて何か話すとか、ソフィーさまに事情を説明するとか、何かしらあるのかと思いきや、まさかの、確認だけして即帰宅?


「……?」


 ソフィーさまが小さく首をかしげるその姿を見て、私は心の中で全力で謝罪しました。


 本当に申し訳ありません、ソフィーさま。怖かったですよね。うちの主人、夢で情緒ぐらつくタイプなんです……。


 あとでちゃんと報告書に記しておきます。




 帰り道の馬車の中、ジュリエンさまは安堵しきった顔で外を眺めていました。


「……よかった。無事だった……」

「ええ、そうですね。あれだけ堂々と『ソフィーが死ぬ夢を見た』と突撃しておいて、何も言わずに帰った人がいるとは思えませんでしたが」

「……だって、夢の話なんて、信じてもらえないだろう……」

「激務でかなりお疲れだったことはアルノーさまもご存知のはずです。事情を話せば、理解していただけたように思いますが、今回は信じるかどうか以前に、説明がなさすぎて()()()()です」


 そう。あれはもう、どこからどう見ても、何かヤバい事件があった人の挙動でした。


 周囲の使用人たちも、明らかに「えっ、今の何……?」という困惑の視線と同時に、すぐさま周囲を警戒するような姿勢をとっていました。


 しかもあんな「家から出るな」なんて忠告をして、ソフィーさまの肩をはらったりしていたんです。

 近くにいた私は、ジュリエンさまが、ソフィーさまに近づこうとする虫に腹が立っていたことくらい分かりますけど、他の方々からすれば何かを警戒していたと思われても仕方のない行動です。


 そりゃあ、怖がらせますとも。


 その証拠に、帰りの馬車に乗ったときには、ソフィーさまの護衛は倍に増えていたんですから。

 いらぬ仕事を増やして……困った主人です。


 まぁ、ちょうど危機感を持つ良い訓練になったと思いましょう。


「……次からは、もう少し落ち着いてから行動なさってくださいね」

「……ああ。わかった。今回は……少し、冷静さを欠いていた」

「少し、ですか?」

「……いや。だいぶ、です」


 素直に反省するところだけは、ジュリエンさまの良いところだと思います。


 ですが、私は念を押すように、こう付け加えました。


「今度、悪い夢を見たときは、まず一度、冷水で顔を洗ってください」

「……うん。そうする」


 そう答えたジュリエンさまの顔は、すっかり元通りの冷静な美青年になっていました。


 ――ただし、ソフィーさまの話になると、またすぐ情緒がぐらつくんでしょうけれど。

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