5 めんどくせぇ男
貴族街を出て、街の中を「お忍びでデート」――。
ついにその日が来てしまいました。
ジュリエンさまとソフィーさま、初めての平民街デート。
それはもう、何日も前から準備に余念がないジュリエンさまを見ていれば、どれほど気合いが入っているかなど、語るまでもありません。
「ソフィーにはこれが似合うだろう。いや、これも……いや、全部着せてみたいな……」
などと口にしながら、平民風のワンピースを何着も吟味しているお姿には、さすがの私も引きました。
もちろん、誰にも言いませんけれど。
それで、まあ。デートプランの確認くらいはしておこうと思ったんです、ただの執事心だったのです。
「ちなみに、ご予定は?」
「……劇を観に行く」
「劇団ですか?」
「少し裕福な平民たちの間で話題の劇団……らしい。ソフィーが『興味がある』と言っていた」
「なるほど。それはいいですね。私も知っています。たしか、人気の劇団で、事前予約制のはずですが……?」
「……知っている。だが、俺が……取る」
「……あの、チケットを?」
「……俺がやる。俺が。俺がやるんだ」
ああ……これはもう、ダメな予感しかしない。
ジュリエンさまは貴族社会の最上層で生まれ育ったお方です。
この世に「自分で予約を取る」という文化が存在することすら曖昧なレベルの人なのに。
「お手伝いできますが……?」
「いや、いい。俺がする。これは、俺が……」
どうしてそんなに「俺が」にこだわるんですか。
とは思いましたが、かっこつけたい気持ちもわからなくはありません。
ソフィーさまとの初めての街デート、しかも行き先は彼女が行きたがっていた劇。
完璧にしたいと思うのも、当然のことでしょう。
ここまでやる気のジュリエンさまを、執事ごときのお節介で妨害するのはまた違うのかもしれません。
心配ではありますが、ときには主人を信頼することも、また使用人としての務めでしょう。
「……では、頑張ってください。何かあったら相談にのりますから」
私は静かにそう告げて、そっと背を押しました。
***
――そして、数日後。
デート当日、私は静かにお茶を準備していました。
平民街に出てお疲れになったお二人に、少しゆっくりとしていただくためです。
もちろん、私がソフィーさまの反応を確かめたかったというのもあるのですが、それはジュリエンさまには秘密です。
時間的には、まだ二人が帰ってくるには早すぎます。
しかし、そのとき――バタバタと駆けるような足音が屋敷を揺らしました。
「……アルノーさま?」
目を見開いた私の前に現れたのは、ソフィーさまに手を引かれてしおしおと戻ってきた、あまりにも情けないジュリエンさまの姿でした。
「……すまない……俺が……俺が悪かった……」
顔は青白く、肩は落ち、足取りは重いです。
「どうしたんですか!?」と駆け寄る私に、ソフィーさまが苦笑交じりに事情を話してくれました。
「実は……劇のチケットの日にちを、間違って取られてしまっていて……しかも、本来の日は、学園の行事があって……」
「えっ……」
「その日が最終日だったそうなんです。明日からの予約もいっぱいで、もう次に観れるのは来年……だとか」
おおぅ、これは、確かに致命的。
だから手伝うって言ったのに……!
なにが一番辛いって、ソフィーさまが本当に楽しみにしていた、という一点に尽きます。
ジュリエンさまは、そこを何より悔やんでいるのでしょう。
「行きたかったんだろう……本当のことを言っていい……俺のこと、嫌いになっただろう……?」
そう言いながら、半分抜け殻のようになって椅子に腰を下ろすジュリエンさまに、私は目頭を押さえたくなりました。
聞けば、チケットのことが分かってからずっとこの調子だそうで。
代わりにと、ソフィーさまがたまたま見つけたカフェに立ち寄ったときも、屋台の食べ歩きをしてみたときも、「気にしない」というソフィーさまの気持ちは彼にまったく届いておらず、このように縮こまったままだったそうです。
そして、少し予定より早く公爵家へ戻れるよう、ソフィーさまが配慮してくださったのだとか。
……めんどくせぇ男だなあ、本当に。
いや、分かる。分かるんですけどね。
自分で頑張ってみたけど、うまくいかなかったこと。
相手を喜ばせたい気持ちが強すぎて、失敗が余計に心に響くこと。
それを、責めるようなことは絶対にしたくありません。
でも、何を言っても「すまない……嫌いになっただろう……」としおしおになるジュリエンさまを前にして、私はとうとう匙を投げたくなってきました。
もっと他に言うことがたくさんあるでしょう、と。
せめて、ソフィーさまの前では気持ちを切り替えて、彼女を楽しませることに全力を尽くせたでしょう、と。
あとで失敗談は私がたくさん聞いてあげられるのですから。
すると、そこで――
「……本当のことを言うと、少し残念でした」
ソフィーさまが、はっきりと、でも優しい声でそう口にしました。
私は思わず息をのみます。
「でも……これで、来年もジュリエンさまとデートができると思うと、少しうれしくもあるのです」
その言葉に、時間が止まったようでした。
……次の瞬間。
ジュリエンさまが、音を立てて、椅子から立ち上がりました。
「……そ、それは……本当か……?」
「はい。ほんとうです」
さっきまでの沈んだ瞳が、ぱあっと光を取り戻していきます。
え、待って、単純すぎでは??
「ジル……俺……来年のチケットを……今すぐ予約する……!!」
「さすがにまだ発売されてません」
「……じゃあ、劇団の本拠地に行って交渉してくる!!」
「お、お待ちください!!」
そう言いながら、ジュリエンさまはそそくさと立ち去っていきました。
うん、復活。完全復活。
……これが、ソフィーさまのお力ですか。
私はその場で、思わず両手を合わせて拝みました。
感謝の念が、泉のように湧いてきます。
ソフィーさま……あなたは、ほんとうに、ほんとうにすごいお方です。
そして、少々お待ちください。今すぐにあの馬鹿たれをこの場に引きずり出してきますので。
かくして。
かなりめんどくさい男は、めげずに次のデートに向けて爆走を始め、私はその後始末に奔走することとなりました。
……執事の仕事とは、かくも忙しいものである。