1 お茶の楽しみ方 上級編
――使用人は、存在しないものとして振る舞うべし。
これは、私が当家の使用人として仕えるにあたって、まず始めに教えられたことです。
家の中で主人の姿を目にしたときには、静かに頭を下げて壁際に移動し、主人が通り過ぎるまで待つこと。主人や客人がどれだけ面白い話をしていても、決して笑わないこと。
つまり、使用人はできるだけ気配を消して、主人の生活圏に属していない者であるべきだ、ということです。
私はシェネル公爵家嫡男であるジュリエンさまの執事という、使用人の中でも高い位に属しており、彼との信頼関係もありますので、その信条に背いた態度を取ることもあります。主人と軽口を叩きあうこともあるほどです。
とはいえ、私も公爵家の使用人の一人です。家の名を汚すような振る舞いは許されません。
さすがに客人がいらっしゃっているときには、公爵家嫡男の執事らしく振る舞うことを意識しています。
しかし、そんな私も気配を消すことができないときがあるのです。
***
本日のご予定:ソフィーさまとの定例お茶会。
いつものように、私は主であるジュリエンさまのスケジュール帳を確認し、使用人に手配を済ませ、ティーセットの確認をし、菓子の仕込みを確認し、最終的に「くれぐれも、ジュリエンさまの口元に注目してはいけません」と侍女に注意喚起しておきました。
なぜそんな警戒をするかって?
……ソフィー嬢がかわいすぎるせいで、ジュリエンさまの口元の筋肉がゆるむからです。
それはもう、とんでもない破壊力ですから。
「ジル、今日の茶菓子は?」
「チョコレートのタルトと、フルーツを少々です」
「酸味があるものは入っていないか?」
「それはソフィーさまが苦手とおっしゃっていましたので」
私は今日も完璧です。
しかし、目の前のジュリエンさまは落ち着きがない。
髪を整え、手袋の皺を気にし、そわそわと椅子に座っては立ち、最終的に小声でつぶやきます。
「……今日は、我慢するつもりだ」
「普通にしていればよろしいのでは?」
「ずっとニヤニヤしている男が目の前にいたら、気分が悪くなるだろう」
「アルノーさまに限ってそんなことはないと思いますが」
「駄目だ。それでソフィーがもし俺を嫌いになったら……」
でしたらもういっそ、お茶会中は黒布で顔を覆っていてくださいませんか。
キリッと表情を整えたジュリエンさまに、思わず深いため息が出ます。
そうこうしているうちに、ソフィーさまがいらっしゃいました。
いつものように控えめな笑顔で、柔らかな薄紫のドレスが似合っておられます。お召し物に合わせたリボンの色まで完璧です。ジュリエンさまがまた微妙に姿勢を正しました。わかりやすいですね。
「こんにちは、ジュリエンさま。ジルさんも、こんにちは」
「……ああ、ようこそ、ソフィー」
少し頬が緩みそうになったのを、自覚しているのでしょう。
ジュリエンさまはさっそく紅茶のカップを手に取り、口元を隠すようにして一口。
ああ、もう始まった。
このお茶会は、ジュリエンさまにとっては防衛戦なのです。
「かわいい」と思ってしまうその気持ちが、つい表情に出ることを、あの方は何より恐れている。だから、カップを盾にする。
私はさりげなくポットの蓋を開けて、補充の準備をしながら横目で様子を伺います。
「この紅茶、香りがとても良いですね」
ソフィーさまが、微笑みながら紅茶をすすります。
その一言で、ジュリエンさまは再びカップを口元に――いや、それはもう空でしょう!?
「ジュリエンさま、もう……中身、ないのでは……?」
ソフィーさまが心配そうに問いかけます。
「……余韻を、楽しんでいる」
は?
一瞬、聞き間違いかと思いましたが、ジュリエンさまは真顔でした。
「余韻を楽しむ」などという、謎の新概念を真顔で言い放つ人間がこの世界に存在するとは。私の知らないうちに、紅茶の作法はそこまで進化したのでしょうか。
「余韻……というのは、最後の香りの余波みたいなものでしょうか?」
ほら、もう、純粋なソフィーさまが真面目に受け取ってしまったじゃないですか。ソフィーさま、優しすぎます、その反応は。
「そうだ。香り、温もり、記憶……それを、味わう」
紅茶の記憶ってなんですか……?
さすがに私も口を挟まずにはいられません。
「……ジュリエンさま、それは、ただの空振りでは……」
「違う。お前は分かっていないな、ジル」
何も分かっていないのはそっちでしょう!
ソフィーさまがいらっしゃる手前、かっこいい姿を見せたいのは分かりますが、逆効果です。
以降、ジュリエンさまは一口飲んでは口元に当て、まだ中身があるうちから余韻に浸る「演技」をはさみ、飲み干してもなお何度も口元にカップを運びます。
ソフィーさまはそのたびに「……まだ、飲まれるのですか?」と困惑。
私はそのたびに紅茶を補充。ついでに予備ポットを取りに裏手へ。
「ジル。カップの温度が下がった。新しいものを」
「はいはい、すぐに……!」
まったく、私が消耗するだけのお茶会なんですから。
***
数日後――
「……『余韻飲み』って知ってる?」
厨房のメイドが、ひそひそ声で話していました。
「なにそれ、新しい流派? 紅茶の?」
「そうそう。なんか高貴なお方が始めたらしいのよ。余韻に酔うって言って、紅茶を飲み干した後も、香りを味わうのが美しいとかなんとか」
嫌な予感しかしません。
「見た目が美しくて、口元を隠す姿が奥ゆかしいって……貴族のご婦人方のお茶会でも真似してる人いるんですって」
嫌な確信に変わりました。
――高貴なお方って、それ、ジュリエンさまですよね。
なんてことだ。
お茶会でひっそり始められた個人の癖が、まさか一種の紅茶道的美学として広がりを見せているとは。
そしてそれを全国に広めてしまったのは、たったひとつの「好きな子にニヤけるのを隠す」ための戦法だったとは……!
「ジル、次の茶葉は香りが長く残るものにしてくれ。余韻が大事だ」
「……はいはい、余韻ですね」
ほんと、カッコつけたがる姿は、まだまだ子どもですね。
でもまあ、ジュリエンさまの真剣な顔を見ていると、文句を言いたくても言えなくなるのが、私の悪い癖です。
まったくもう、恋ってのは、どうしてこう人をおかしくするんでしょうね。
とりあえず、次回の茶会までに、香りがずっと残るようなお茶のいれ方でも勉強しておきましょうか。
なんて考えながら、私はまたティーポットを磨くのです。