君の名前
本当ならこの主人公は、あの氷の城で指揮するだけでいいはず。自ら戦場に身を置くのは、彼の弱さだと知っている。
それでも、一度ゼノを失った悲しみは忘れられるわけがない。金棒を握り直し、体の重心を下げる。時間なら充分稼げたはずなのだが、引けない。なぜなら、ゼノはまだ逃げていなかったからだ。
物陰からこちらを伺っている。そりゃそうなるか。ゼノは冷たい雰囲気とは裏腹に仲間思いの優しい人だ。さっさと逃げるような輩なら、こんなに好きになってなどいない。
仕方ない。敵の動きを封じるしかないようだ。金棒をもう一度振り上げ、敵に殴りかかる。
いいところに攻撃が入ったようで、氷の防御は粉々に崩れ落ち、その衝撃で彼は吹っ飛んだ。
「あなたの負けです」
ようやく追い詰めた私の悪役。このままとどめを刺してしまえば、ゼノの未来は脅かされることは無くなる。
こちらを見上げる目は怯えたように見える。それでも態度は毅然としていて、周囲にそれを悟らせまいとしているのだろう。
そうだった。彼も多くを背負わされている。氷河の都の王子様。そして国を守る氷龍軍の大将。先頭に立ち、国民を守り閻魔王から領土を取り返す役目を担っている。一人苦しみ泣いている姿を見た。最愛の弟を守り切れず自責し続けているのも知っている。
あの場面は何度も泣いた。兄を慕い守ろうとする弟に、その思いを無駄にしないように背を向けた兄。
それでも一度はゼノの命を奪った男。憎くて疎ましくてたまらない。けれど、私は悪を演じることは出来なかった。他人の過去を知っているというのはこんなにも厄介なことだとは。それにゼノはまだ生きている。それなら私がこれ以上関わる必要は無い。
背を向けゼノの元へ急ごうとすると、声を掛けられる。
「なぜ、とどめ刺さない」
「私の目的はあなたを殺すことではありません」
「そうか」
「アイン・ヘイル」
彼は驚いた顔をした。それもそうだろう。その名で呼ぶ人はいない。今は亡き弟だけだった。龍神、氷の王子、英雄。その責務を背負い続けた彼は、名前を失っていた。
「あなたはあなたです。もう少し自分の思う道を歩いてもいいんじゃないですか?」
「どうして……」
「私は、あなたにも幸せになって欲しいと思っているんですよ」
本当にそう思っている。けれど、私が介入したことでその道順は変わってしまったかもしれない。
だからその謝罪として、彼の望みを叶えた。本当の名を呼んでほしいという、彼の願いを。
アインの目は少しだけ、戸惑っていた。だか、彼には寄り添えない。私には最重要任務があるのだから。
「ゼノくん、行こう」
「ああ」
困惑しながらも私の手を取り、歩くゼノ。平静を装っているが飛び跳ねたいくらい興奮している。隣に立つことも、触れることもあり得なかった人の手を握ってしまった。
ひとりそわそわしていると、怪訝な視線を向けられた。
「なあ、なんで俺を助けてくれたんだ」
「なんでって、君が好きだから」
「なんだよそれ」
そう言われても、それ以外理由はない。
「俺を助けて何の意味がある」
「ゼノくんが生きている。そのことに意味があるんですよ。意味ありまくりでしょうが」
少々声を荒げたせいでゼノは困惑した顔をしていた。最推しのご尊顔を見続けることが出来るなんて。しかも目の前で、この距離で。
この喜びをどうしたら、本人に伝えられるのか。思い悩んでいると、繋いだ手が離された。
「炎の悪魔の俺にそんな……」
「君の名前はゼノでしょ?」
「なんで、俺の名前を知っている」
さっきからそう呼んでいたのだが。ゼノには聞こえていなかったようだ。