事故物件
―― 世の中には、科学的理論に基づいても説明できない事象に溢れている。
人間の進化とてそうだ、なぜ指が手足に十本あるのか。医学が発展を遂げた現代でも、その明確な理由が判明していないことはあまりに有名だ。
そうした中で、ここ日本には古より伝わる妖 ――、もとい妖怪。現代では“怪異”といった呼び名が主流だろうか。“怪異”という人ならざる存在が多くの認知を残している。
怪異、そう呼ばれるものは都市伝説における口裂け女や八尺様。そして、人の死後も現世に留まり続ける幽霊や、河童や天狗、鬼と言った有名な妖怪まで。その定義は幅広い。
特に馴染みのある怪異といえば、ポルターガイスト、事故物件など ―― そう、その事象を引き起こす“幽霊”である。幽霊によって引き起こされる事象の多くは霊障と呼ばれ、生きる人にまで影響を与える。
体調不良や不慮の事故、最悪の場合は自死や事故死にまで繋がる。一体全体、どうして同じ“人”という種であったにも関わらず、死後に霊体となってまで他人を不幸に引きずり込もうとするのか。
そう言った魔訶不思議な存在や現象は科学技術が進歩した現代においても解明されず、人々の認知の中に存在し続けている。
「はぁ…、今日も寝不足だ…」
金縛りで、そう言えてしまえばどれだけ楽なのだろうか。恐らく、他人には理解されないだろうと言うことは想像に容易い。おおよそ変人扱いがいい所だ。
通勤バスを待つ停留所、大きな欠伸を噛み殺しながら一人の若い男はそう考えていた。いかにも平凡なスーツに身を包み、背にはリュックを携える。どこにでもいる、サラリーマンだ。
そんな彼が自分の体に異変を感じたのは、新卒として先の春から上京しほんの二ヶ月後のことだった。都会というのは人口密集地でもあり、土地がない。すると、必然的に彼のような若い新社会人ともなれば、住居を構えるのは都会のベッドタウン。若しくは、古い格安賃貸物件となる。
通勤時間を考慮した結果、彼が選んだのは古い格安アパートだったのだ。しかし、どうにもそれがよくなかった。そこは、所謂“事故物件”というやつなのではないかと眠たい頭で考える。
始まりは些細なことだった。夢見が悪く、朝起きると体が倦怠感で重たかった。しかしながら、それは春から大きく変化した環境に体と気持ちがついていけていないからだ、とそう納得した。
すると、翌週から夜中に目が覚めるようになった。日々の仕事の疲労から交感神経が興奮して寝付けないとばかり思っていた。が、どうにも違うらしい。
ギリギギギ…、ギリギリ……――。そんな音がどこからともなく聞こえてきた。よくよく聞いてみると、それは耳鳴りのように聞こえていた音だった。自分の知らぬ間に、ずっと歯ぎしりのような音がしていたかと思うと薄気味悪い。
彼はその不愉快な音に思わず眉を寄せた。どこからその音がしているのか確認しようと、薄っすらと目を開けて、体を起こそうとした時だった。
(動かない……、まじかよ。……重い)
金縛りというのは本当にあるものだと、この時に初めて知った。
体の上に何かが乗っている、そんな重さを感じる。薄っすらと開けていた目を慌てて閉じる。きっと、その何かを視てしまえば自分は恐怖のあまり、もうここには住めないだろうと思考が巡る。
そして、徐々にその音は大きさを増していく。時折ぴたりと止まったかと思えば、またギリギギギ……、ギリギリ……、と規則的な音を鳴らす。人間、気になり始めると完全に無視をして寝付くのはなかなかに難しい。結局、未明までその音は続いたのだった。
―― そうして、そんな事があった翌々日。
「うわっ、何だよこれ……」
彼は目にした光景に、思わず悪態をついた。
手狭い水洗式のトイレ。どうにも上の階から水漏れをしているようで、天井からぽたぽたと水滴が滴り落ちているではないか。それも、その水は赤褐色に淀み、鉄臭さが鼻につく。古い格安アパートだ、おおかた水道管でも錆びているのだろう。
「最悪……」
依然、天井から滴り落ちて来る水滴に向かってそう言葉を溢すしかなかった。
溜め息をつきながら、水滴を目線で追うと ――。水洗式のトイレに浮かぶのは、長い毛髪。ひゅっと、息を呑んで目を擦る。しかし、何度見てもそこにあるのは毛髪だ。
彼は慌てて、トイレの横のレバーを引いた。すると当然だが、その毛髪は水の流れによって姿を消す。
―― 気のせいだ、きっと気のせい。仕事で疲れて変なものを見たような錯覚を起こしているだけだ。そう、必死に自分に言い聞かせる。
その日はなんとも言い難い疲労感を抱えることになってしまった。上の階からの水漏れのことを大家へ連絡することなど、すっかり忘れてしまっていた。
* * *
「あの、先輩は心霊現象とか、幽霊とか…信じてますか?」
「うん?」
それから翌日。その目元に隈を携えながら、彼は昼食を一緒に摂っている先輩社員に気付けばそう話しかけていた。
彼には入社してからよく相談相手になってもらっている。面倒見がよく、気兼ねなく話せるため、ついそんな言葉を口にしてしまったのだ。
「まぁ、俺自身ホラー映画なんかが好きでよく観に行くんだけどな」
「はぁ」
どうやらなんて事のない世間話 ―― ホラー映画の類の話かと思われたようだ。
他人に尋ねるにしてはなんとも突拍子もない話題に、変人扱いされないか内心冷や冷やしていた彼は、そう伝わったことにほっと胸を撫で下ろした。のも、束の間 ――。
「いると思うよ」
ぞくり、と悪寒が背中に走る。心なしか肩が重いような ――、気もする。
「事故物件に住んでみる、なんて言う映画もあったけど……。あれは実話を元にしてるらしいし。まぁ、俺には視えないから縁のない世界だけどな」
「……」
「おい、顔色悪いぞ?大丈夫か?」
「え、えぇ…はい」
なんとも歯切れの悪い返事をする彼の様子を心配そうに見やる先輩社員。すると、彼は何かを思い出したかのように携帯を取り出した。
「そうそう、友達の知り合いの…知り合いにな、聞いたんだけど」
(知り合い遠いな……最早、他人じゃん)
彼のそんな率直な感想はとても口にはできないだろう。
「何か困ってるなら、ここへ行ってみ?」
そう言って先輩は未だ携帯を手に操作をしている。そして、彼のスマートフォンに転送されてきたのはやや解像度の悪い一枚の画像。それは一枚のメモの切れ端を撮影したもので、綺麗な文字で住所が書かれているようであった。解像度が悪くよく見えないが、小さく何やら事務所、そう書かれているように読めた。
どうしてそんなものを送って来たのだろうか、と怪訝な顔をする彼に対して先輩は ――。
「まぁ、いっぺん。騙されたと思って」
と、なんとも悪戯な顔をしていた。
* * *
先輩社員とそんな会話をした日の夜のこと。彼はもう何度目だろうという金縛りに遭っていた。そして、例の歯ぎしりのような音。今日はやけに大きく聞こえて来る。
(いい加減にしてくれよ……!)
彼が抱くのは恐怖もさることながら、睡眠不足と疲労による苛立ちだ。そんな苛立ちは、彼にいつもとは異なった行動をさせた。
ぱちり、と目をはっきり開けたのだ。徐々に暗さに慣れて見えてくるもの ――。
(は?)
それは、自分の体にのしかかる黒い塊。それは靄のようにも見える。
一瞬にして血の気が引いた。手足の先が冷たく感じる。一度開いた目は、恐怖によってなかなか閉じることができない。せめてもの打開策で、眼球だけを動かし天井を見た。
すると、そこには暗闇でもはっきりと分かるほどの ――、赤黒い染みが滲んでいた。
――― そうして翌朝。
昨日の夜中の出来事のせいか、彼は気づかぬうちに意識を失っていたようだ。流石に今日は出勤する気分にならない。早々にこの問題を解決しなくては、という焦燥感に駆られる。
上司に欠勤の連絡を終えた後、彼は出かける身支度を済ませる。先輩社員から送られてきた画像を頼りに、その場所を目指すのだ。
そうして彼が辿り着いたのは、雑居ビル群の一角に建つビルだ。そこはあと十数年もすれば取り壊されそうな雰囲気をした古いビルだった。そのビルは他にもテナント募集の貼り紙がされている様子であった。そして、彼は階段を上って目的の事務所を目指す。すると、目にしたのは古びたビルの外装とは異なった真新しい扉だ。
恐る恐るその扉を開くと、一人の男が事務机に向かい何やら作業をしている様子だった。ふと、その隣に長く黒い影が寄り添うように見えたのは気のせいだろう。そう、気のせいだ。
そして彼の姿を目にし、大きな溜め息をついたのは恵まれた体格を持つ青年。その表情は険しく、眉間には浅い皺が寄せられている。おおよそ齢は二十代前半と言ったところか。
黒髪は短く切り揃えられ、後頭部は刈り上げられている。その顔のパーツは日本人らしからぬはっきりとしたもので、切れ眉にやや垂れ目。そしてその若さ故か、その眼光は鋭い。
男は事務所を訪ねて来た彼を一瞥すると、低い声で「どうぞ」と中に招き入れてくれた。そうして応接スペースへと通され、簡易的な椅子へ腰かけるように促される。
彼はソファーに座るや否や、少し興奮気味に話し始めた。
――頼む、なんとかして欲しい。なんとか縋るような思いでここまで来たのだ。
彼は藁にも縋るような思いで、ここ数ヶ月の状況を男に説明する。
意図せず事故物件に住み始めてしまったこと。これまでの心霊体験の数々、日に日に酷くなる霊障。男は黙って彼の話を聞いていた。
そうして彼が体験したこと、相談したいこと、その全てを話し終える。すると ――。
「あぁー……、すみません。俺、幽霊は視えないもので」
―― は?
そう思わず声を上げそうになった。“幽霊が視えない。”この男は確かにそう言ったのか。
―― 崖から突き落とされた気分だ。思わず、手が震えた。
ここに来て何も解決しないのだとしたら、自分は今晩からどうすればいいのだろうか。そもそもこの事務所は心霊現象など、そう言った不思議な相談事を解決してくれる場所ではないのか。だとしたら、この事務所は詐欺の片棒を担いでいる場所なのか。彼は巡る思考の中、そう考えて項垂れた。
しかし、次に男から発せられた言葉に今度は目を丸くする。
「代わりに、それ。お預かりしますよ」
男が“それ”と言って指差したモノ。それは彼の背に縋りついて離れない、重く、黒い、ナニかだ。すると、男はその黒いナニかに向かって話しかけ始めたのだ。
「怖かったな、もう大丈夫だ」
―― 気味が悪い。
それは彼が抱いた率直な感想だった。その言葉を相談者である彼に掛けるのであれば百歩譲って理解できるのだが、目の前の男は彼の背に向かってその言葉を掛けている。
すると ――、ずるり。肩から何かが落ちたような気がした。はっとして足元に視線を落とすと、うごうごと蠢く黒いナニか。さぁ……、と血の気が引いた気がした。
「これで金縛りの類もなくなるかと」
その男の言葉に、今度は大いに安堵する。のだが ――。
次に差し出されたのは、金額の書かれた一枚の用紙。はて、これは一体何かとしばらくその用紙を見つめていると ――。
「うちも慈善事業ではないもので」
ぎろり、と睨まれてしまえば従う他ない。彼はそっと財布を取り出した。
帰り際にちらりと扉を振り返る。すると、あの男はどこかに電話を掛けているようであった。時折、アパートの一室、事件性が、など物騒な言葉が聞こえて来たのは気のせいだということにしよう。
世の中、知らぬが仏ということもある。彼はそう自分に言い聞かせて、その事務所を後にしたのであった。金輪際あの男と関わることも、世話になることもないのだ。
そうして、数日後。彼はいつものように残業を終え、アパートに帰宅しようとしていた。
しかし、彼の住むアパートにはいくつもの規制線が貼られ、大勢の警官が報道規制、交通整理を行っている光景が目に飛び込んで来た。
一体どうしたというのだろうか、何か事件か、事故か?ぐるぐると巡る思考もほどほどに、自分は明日も出勤しなければならない。どうにか帰宅できないか、とどこか他人事のように目の前の光景を眺めていた。
すると、規制線をくぐって道路側へと出てきた一人の若い警官。彼はその警官に恐る恐る声を掛けた。
警官は背が高く、制服の上からでもその恵まれた体躯をしていることが分かる。そして出動帽から僅かに覗く髪色は警官にしては少し珍しい色をしているようにも見えたが、暗くてあまり良く見えない。それに、今はそんな事など気にしてはいられない。
「な、何があったんですか…?」
「あなたは関係者の方ですか?」
「ここの住人です」
「そうですか…」
その警官はそれ以上何も言うことなく、黙ってしまった。現在の状況が分からず、彼は怪訝な表情を浮かべるも、この警官がどうこうできるような問題ではないらしい。
すると、また別の警官が規制線をくぐってこちらへと出てきた。その警官は目の前に立つ警官を斑鳩、と呼んだ。彼は珍しい苗字だな、とふと思う。
そうして後からやって来た警官はこちらを振り向いて、少しだけ事情を説明してくれた。今日は捜査のために立ち入り禁止とさせてもらうこと、そして事情を考慮して宿泊施設を手配させてもらうこと。やや一方的な会話に、仕事で疲弊した彼には頷くことしか出来なかった。
―― そうして、その日は仕方なく職場近くのビジネスホテルへ一泊する事になった。
(ついてない……)
その一言に尽きるだろう。彼はなんとなく、ホテルに備え付けられているテレビの電源を入れた。
すると ――。
「え……、このアパートって俺が住んでいる……?」
彼の目に飛び込んで来たのは報道番組の速報。そして、そこに映し出されているのは紛れもなく自分が住むアパートだ。
彼は知ることになる、あの歯ぎしりのような音。それは上の階で起きた残虐な遺体バラバラ事件だということを。そして、その一部はトイレに流されていたという。
奇しくも、このアパートはこの日を境に“事故物件”となってしまったのだ。
ホラーっぽい話が書きたくて。心霊ホラーというよりは、人怖ですが…。
彼が訪ねた不思議な事務所、そこの主を中心とした長編を主に書いています。
長編連載中「禁色たちの怪異奇譚」です。気が向けば、覗いてやって下さい。
余談ですが、学生時代。
朝起きたらアパートの床が水浸しになっていた事件がありまして。どうにも夜中のうちに上の階の人がトイレの水栓を壊してしまったようで。あの時の、水浸しになった床を訳もわからず掃除する虚無感といったら。
そんな体験があったのを思い出したのでした。