愛する夫がいるのに、竜の王子が「二番目の男でいいから」と口説いてくるのですが
わたしには愛する夫がいる。結婚してからもう15年になる。
ほかの男性とどうにかなることなんて考えたこともないというのに、十年来の付き合いである部下が、三ヶ月前から「愛してます」だとか「二番目でいいですから」だとかいってくるようになってしまった。
最初は聞こえないふりをしていたのだけど、一向に諦める様子が見えないので、わたしは渋々、彼を仕事帰りに飲みに誘った。
落ち着いて話ができるようにと、いつもの焼き肉屋ではなく、半個室の居酒屋だ。
しかし、情報通の同僚に『たとえグラスの水をぶっかけられる事態になっても大丈夫な店』としか条件提示しなかったのが悪かったのか、店員さんが皆、人類種に限らず、ふりふりのエプロンにふわふわのワンピースを着用している。六つ足で有名な水棲種グラッパ族の男性店員は、ワンピースがきわどい所まで上がって、ミニスカート状態になっていた。これはもしかして、居酒屋というよりも、コンセプトバーなのかもしれない。
わたしは店内の一種異様なムードに気圧されつつも、今夜の目的を果たすために、目の前の男を見据えた。
彼は、見かけは完璧に人類種だが、実際は竜種である。
この広い宇宙において、そして数多の惑星連合国において、もっとも異端であり、幻想であり、神に近いといわれる種族だ。
なんといっても、個体の平均寿命が三千年だという。
惑星連合国における多種多様な種族をもってしても、長寿の種族ばかり集めたとしても、平均で三百年 ─── 人類種は未だ、生命改造なしでは平均百年の壁を越えられていない ─── である現代において、三千年はもはやお伽噺の領域である。
実際、そのあまりにも深い溝である寿命差のため、竜種は、この宇宙旅行や惑星間移住がもてはやされる時代であっても、誰一人としてその竜の星から出ることはなく、誰一人としてその星へ迎え入れることはないといわれている。
過去には、その長寿の秘密を求めて、いいがかり同然で戦端を切った国家もあったが、科学の粋を集めた兵器であっても、竜種の身体に傷一つつけられずに滅ぼされた。彼らは侵略はしないが、報復はするのだ。
竜には関わるな ─── というのは、惑星連合のお偉方の間では、今や暗黙の了解となっているらしい。
もっとも、わたしなんて、このラミア星系第32領域エンデ星から出たこともない、ごく普通の庶民だ。法務官という、少々荒事を含む仕事にはついてはいるが、それだけだ。
毎朝、コーヒーとトーストを流し込んで、ゴミ袋を持ちながら、慌ただしく仕事に出かけていく。休日には読書をしたり、庭で花を育てたりしている。
昔は料理を頑張っていたこともあるけれど、今はほとんどやっていない。一人分作るのは億劫だ、というのは、よほどの料理好きでなければ、誰もが感じるところじゃないだろうか。使わないので、キッチン道具は、もうずいぶん前に片付けてしまった。今はトースターとコーヒーサーバーが置いてあるだけだ。
部下である彼は、わたしの食生活が気に入らないらしく、昔から口うるさく「もっと栄養のある食事をしてください。コーヒーだけで生きていこうとしない! そんなに早死にしたいんですか!」だとか「野菜や肉も食べてください。人類種はその二つが大事でしょう。……は? その売店のサンドウィッチにレタスとハムが挟まってる? そんなものはカウントしません!」だとか「ほら、僕がお弁当作ってきてあげましたから、夕飯にはこれを食べてくださいね。聞こえないふりをしない!」だとか、ごちゃごちゃといってきたけれど、わたしはすべて聞き流してきている。人類種はパンとコーヒーがあれば生きていけるのだ。
そんな平凡な一般人であるわたしに、長年の部下である男は、胡散臭いほどににこにこと微笑んでいった。
「チーフに飲みに誘ってもらえるなんて嬉しいです。それもこんな、ロマンチックな店に」
「きみは男性の六つ足にロマンを感じるタイプだったの?」
「薄暗い店内っていいですよね。たとえば、僕がここでそっとあなたの手を握りしめても、誰にも気づかれないわけですよ」
「へえ、いいね。きみをセクハラで懲戒解雇できる」
「いいね、というチーフの合意がある以上、セクハラには当たりませんよ。……というか、僕がいなくなったら困るでしょう? あなたの仕事ぶりについていけるのは、僕くらいですよ?」
わたしはビールを飲んで、部下の戯言を聞き流した。
仕事上がりのビールは最高だ。我が家の冷蔵庫にも、ビール缶だけは冷やしてある。
しかし、無限にビールがあふれ出るグラスというのは、現代においても未だに開発されていないので、飲み続けたら底が見えてきてしまう。ええい、なんて軟弱なグラスなんだ、根性を見せなさいよ。そう、胸の内で八つ当たりしてから、わたしは諦めて、グラスを置いた。
改めて、目の前の部下を見据える。
黒髪に、黒曜の瞳。彼が配属された当初から、さほど変化の見られない、整った顔立ちをしている。実は彼は竜種の王の三番目の息子なのだという。しかし昔、それを知ったときに、思わず「きみは王子様だったの?」といったら、ものすごく嫌そうな顔をされた。
なんでも、竜種は普通一人っ子であり、二人目が生まれたら奇跡といわれるほどらしい。「二人目は奇跡でも、三人目になったら異常事態なんですよ」とうんざり顔でいっていた。さらに、黒竜というのも珍しいらしく、異例と異例の掛け合わせのような彼は、生まれたときから悪目立ちしていて、それが嫌で星を出たのだという。
「つまり、家出だね?」といったら、彼はなぜか得意げな顔をして「自分探しの旅に出たんですよ」と返してきた。人類種の間ではそれを家出というのだ。
仕事面においては、彼はとても有能だ。そこは認める。
彼を部下として受け入れた当初は、ただ、わたしの眼の前で死ぬことはないから(おそらく、この星の技術や種族で、竜である彼を殺すことは不可能だから)という理由だけだった。
でも、今では彼は、かけがえのないわたしの相棒だ。自分でいうのもなんだが、法務官としてまあまあ無茶をしがちなわたしのフォローを完璧にしてくれるのは彼しかいないし、背中を預けて安心できるのも彼だけだ。……あの人を除けば。今となっては。
だけど、だからこそ、わたしは彼をきっぱりと振らなくてはいけない。
彼が次の恋へ進めるように、引導を渡すのも、上司兼相棒の務めだ。
わたしは、密やかに、深く息を吸い込んで、いった。
「あのね、はっきりいうよ。きみの気持ちは迷惑だ」
「……はい」
「わたしには愛する夫がいて、きみの気持ちに応えることはない。永遠にない」
「……ええ」
「きみが……、ほかの法務官と組みたいというなら、どこへでも推薦する」
「僕が組みたいのは、あなただけですよ、チーフ」
彼は困ったように微笑んだ。
わたしは、胸がずきずきと痛むのを感じながらも、心を鬼にして告げた。
「なら、今後は二度と、愛してるだの、そういう言葉は口にしないで。部下として、仕事に徹してちょうだい」
わたしは、彼が頷くと思っていた。
そして、しばらくギクシャクはするだろうけれど、やがて、時間が風化させてくれるだろうと思っていた。
しかし彼は、あっけらかんとした笑顔でいった。
「それは無理ですね」
「……いま、空耳が……?」
「無理ですね! 残念ですけれど! でも、こういうのって、よくあることだと思うんです。二体の知的生命体がいたら、お互いの希望が一致しないなんて、ありふれていますよね。チーフと僕の希望は一致しなかった。悲しいけれど、そういうことですね!」
わたしは、思わず、無言で彼を凝視した。
きらきらと輝く黒曜石の瞳が、冗談ですといってくれることを期待して、見つめ続ける。
しかし彼は、前言を撤回するどころか、照れたように頬を赤く染めてきた。控えめにいっても気持ちが悪い。
「まっ、まって……、わたしは今、迷惑だといったよね?」
「いいましたねえ」
「普通、普通はさ、好きな人に『迷惑』とまでいわれたら、諦めるものじゃない? どんなに好きでも、そこは引くところじゃない? 好きな人の迷惑になってはいけないとか、愛しているからこそ迷惑はかけたくないとか、そういうことを思わない……?」
「思わないですね、残念ながら!」
「残念すぎるわこのアホ竜が!!」
わたしが思わず叫ぶと、アホ竜は顔をしかめて「僕が竜種なの、一応国家機密なんですからね。叫ばないでくださいよ。国際問題になっちゃいますよ」といい出した。なんて腹の立つアホ竜だろう。今度から黒竜ではなくアホ竜と自称すべきだ。
※
わたしだって、あの人のことが好きで好きで、恋人にしてくださいと追いかけまわしていたときでも、迷惑だと一言いわれたら、諦めるつもりだった。そこは越えてはいけない一線だと思っていた。
でも、あの人は「ガキは対象外だ」とか「俺はお前が12歳のときから知ってるんだぞ。ガキにしか見えん」とか「お前を拾ったのは俺の女にするためじゃねえんだよ。俺をロリコンの性犯罪者にする気か?」とか、年齢を盾に拒むばかりだった。
だから諦めきれなかった。大人の女になったら、そのときは恋人にして、と追いかけまわした。
わたしが二十歳になって、成人したその日に、あの人はついに折れた。
「今さらお付き合い期間なんていらねえだろ。結婚するぞ。最後まで責任を取らせろ。それがいやなら、その指輪だけ置いていけ」
そういわれて、わたしは泣きながらあの人に抱きついたものだ。結局、結婚式を迎えることは、永遠になかったけれど。
だけどあの人はわたしの夫で、わたしの胸元には、今もあの人がくれた指輪が輝いている。
仕事柄、指にはめていると傷がつきそうなので、銀のチェーンを通してネックレスにしているのだ。
※
しかし、わたしの過去も、わたしの夫のことも、知っているはずのアホ竜は、アホの極まった笑顔でいった。
「僕はあなたが好きですし、これからもあなたと働きたいと思っていますし、あなたの二番目の男でも全然オッケーです! これはもう、あなたが折れるしかないのでは? 僕とあなたの間にある意見の相違は、あなたが僕を二番目に愛してくれることで解消できます! 素晴らしいですね!」
「きみにこのグラスの水をぶっかけるべきか悩んでいるから、ちょっと黙っていてほしい」
「じゃあ聞きますけど、この宇宙において、あなたが二番目に好きな生命体は誰ですか?」
「グランくん」
「職場の観葉植物の名前を上げるのはやめてくださいよ。食肉種のあれに名前をつけて餌やりしているの、チーフだけですよ」
「この世で最も愛着がある」
「ヤバ。心が荒みすぎじゃないですか、チーフ? 目の前の美青年の腕の中で癒されるべきでは?」
「今の録音しておけばハラスメントの証拠になったかな」
だいたい、と、わたしは深くため息をついていった。
「きみは寿命が三千年でしょ?」
「どうぞお気遣いなく。僕は寿命差なんて気にしない男です」
「故郷に帰りなよ。帰って、人生を共にしてくれる同胞を探しなさい」
「もう手遅れですよ」
「そんなことはない。まだ引き返せるよ。きみが突然、その、恋心とやらに目覚めてから、まだたったの三ヶ月だ。いま、終わりにしたら、数年後にはただの夢になってるさ」
わたしは、教え諭すような口調でいった。
しかし彼は、呆れたような顔をしてわたしを見た。
「僕があなたへの愛を自覚したのが三ヶ月前だと? 本気でそう思ってるんですか?」
「告白まで一ヶ月くらいは悩んだと?」
「あのですね、僕は、もっと時間をかけてもいいと思っていたんです。何なら、一生黙っていてもいいと。あなたの傍で、あなたが天寿を迎えるまで、沈黙とともに寄り添っている覚悟だってしていましたよ」
でも、と、部下は、怒りに満ちた声でいった。
「あなたときたら、いつまで経っても、あの男の後を追いたがる」
わたしは、沈黙の後に、静かに告げた。
「だとしても、きみには関係のない話だ」
「ほらね? あなたはそうやって僕を締め出すんだ。だったらもう、戦うしかない。諦めるべきは、僕ではなくあなただ」
わたしは彼を睨みつけた。
しかし彼は、怯む様子もなく、逆にわたしを睨み返してくる。
「わたしはきみに幸せになってほしいと思ってるんだよ」
「あなたのいない場所で、でしょう? 心底余計なお世話です」
「万が一、わたしがきみに振り向いたとして、わたしがいなくなった後はどうするんだ」
「あなたの思い出を胸に生きますよ」
「きみにそんな真似をさせられるか」
「これが僕の望みです。あなたが気に病むことじゃない」
「わたしは気にするんだよ。それに……」
はあと、深々と、二度目のため息をついた。
「置いていかれるのがどういうことか、きみはわかってない。きみは宇宙で最も頑丈な種族で、まだ若くて、失ったことがないから、わかっていないんだよ」
声が震えていないだろうかと、それだけが気がかりだった。
アホで有能な部下は、わたしをじっと見つめて、それから、静かな声でいった。
「僕は決してあなたを置いていかない。僕があなたより先に死ぬのは、現実的に……、物理的にも、ありえないことです。あなたにとって大事なのは、そこだけじゃないですか?」
「わたしは必ずきみを置いていくんだ! わたしがそのことに、なにも感じないとでも……っ!?」
「僕に、あなたと同じ思いをさせたくないと? なぜです?」
「決まってるでしょ、きみは大事な部下だからよ」
「それだけですか?」
黒曜の瞳が、わたしをじっと見つめる。
射貫くように、絡めとるように。
「はっきりいっておきましょう。あなたにとって“部下”でしかないなら、僕は死んだ方がマシです」
わたしは、躊躇なく、グラスの水を、その顔めがけてぶちまけた。
竜の男は、頬からも髪からも水を滴らせると、少しだけ嫌そうな顔をして、ぶるぶると、犬のように頭を振った。濡れた顔を、袖口で強引に拭って、再びわたしを見る。その眼は怒っても嘆いてもいなかった。むしろ、喜んでいるようにすら見えた。
「 ─── あなたが、僕の命をそれほど惜しんでくれることに、僕としては、一筋の活路を見出しているわけですよ」
「部下の命を惜しむのは、上司として当たり前でしょう」
「でも、迷惑な部下ですよ? あなたの気持ちを無視して、好意を押し付けてくる、気持ちの悪い部下です」
「……仕事はできるし、付き合いも長いからよ」
褒めたくないのに褒めている。罠に嵌った気分だ。
わたしが苛立ちを込めて睨みつけると、有能なアホ竜は、喜びの滲む顔で、笑っていった。
「あなたを愛しています。だから、ねえ、長期戦でいきましょう。僕は決して、あなたに胸元の指輪を外してほしいと望むことはしません。だけど、いつか必ず、あなたに、死んだ男の幻影以外のものを抱きしめさせてみせますよ」
未亡人ヒロインを書きたかった。