第十九章(2)
こうして終年祭が終わり、翌日から生徒たちの帰省が一斉に始まった。
僕にはほとんど荷物がない。貸し出されていた制服やコート、ブーツは身につけて帰れないため、実家から着てきたボロボロのジャケットを羽織り、ちぎれそうな紐靴の紐を丁寧に編み上げる。
着替えとわずかなお金だけを入れた鞄を抱えて部屋を出ると、車輪付きの大きな鞄を引きずるライズと鉢合わせた。
「昨日はごめんね」
僕は、彼を食堂に一人残してしまったことが気がかりで、開口一番そう謝った。
「昨日? なんのこと?」
「えっと……昨日、ひとりで部屋に帰ったでしょ?」
「そうだけど。それがなに?」
「…………」
嫌味でも突き放しでもなく、彼は本当に何も気にしていない様子だった。
そのまま僕たちは食堂へ向かい、朝食を取りながら話を続ける。
「きみは何時に帰るつもりなの?」
「ええと……みんなが帰ったあとに、ゆっくり帰るよ」
去年と同じように、帰省の混雑が落ち着いてからバスに乗るつもりだった。
「どうして最後まで残るの。そんな格好じゃ寒いし、早めに発って少しでも標高の低いところへ移動した方がいいんじゃないの」
「そうかもね」
僕は弱々しく笑った。
けれど、彼の忠告に従うつもりはなかった。僕は、できるだけ長く風見鶏に残っていたかったのだ。
「やっほー! ふたりとも」
「おはよう」
しばらくして、マーガレットとバートが食堂にやってきた。二人とも大きな鞄を二つずつ引きずっている。
そんなに何を持って帰るのか僕にはよくわからなかったけれど、裕福な家の人間とはそういうものなのだろう。
「わたしたちはお昼頃に迎えが来るの。それまでにイーノスとコリウス先生に挨拶に行きましょ!」
その後、ハーベストやニースたちも合流し、いつもの顔ぶれでイーノスを探しに行く。
彼はまた屋根の上で雪下ろしを手伝っていたが、僕たちに気づくとすぐに降りてきた。
「フリック。雪が溶けるまで家に帰るというのは本当か?」
「うん。そうだよ。今日発つんだ」
何度か説明していたはずなのに、少し先の予定を彼に覚えてもらうのは難しい。
だから当日にわかってもらえればいい、と半ば諦めていたのだけれど――
「そうか。雪が溶けるなんてすぐだろう。適当に待っているからな」
案の定、彼はあまり気に留めない様子でそう言った。
「一緒にいられなくてごめんね。コリウス先生の言うことを、よく聞くんだよ」
「それは、あの背の高い大人のことか? あいつは良いやつだな。よく俺様と遊んでくれる」
彼が屋根にかかる梯子を見上げたとき、ちょうどコリウス先生が地面へ降りてきたところだった。
「おお、お前たち。これから帰るのか?」
「はい。今年もお世話になりました」
僕たちが揃って頭を下げると、先生はいつものように豪快に笑った。
「一年間、学業も神子の世話もご苦労だった。四月までは私が責任を持って面倒を見る。安心して休んでこい」
先生と話しているうちに、イーノスは帰省前の生徒たちに囲まれてしまっていた。
「イーノスが何も言わないからって、みんなベタベタしすぎじゃないかしら」
マーガレットが不満そうに言うと、バートが呆れたように肩をすくめる。
「僕たちも似たようなものだよ。結局、彼は僕たちの顔なんて区別していないんだから」
「まあ、そうだな」
そこに、コリウス先生が意味深な口調で言葉を添えた。
「イーノスにとって、我々は有象無象にすぎない。少し寂しくはあるが、それは同時に『害のない存在』だという証でもある」
「どういうことですか?」
マーガレットが怪訝な声を上げる。
「長い生を生きる彼が記憶に留めるのは、有益なものか、有害なものだけなのだろう。覚えられないということは、どちらでもないということだ」
「じゃあ……フリックは、有益な存在だと思われているのかしら?」
その一言で、皆の視線が一斉に僕へ向いた。
僕がはにかみながら首を傾げると、視線は再び先生へ戻る。
「そうなのだろうな。イーノスがここまで長く起きているのは、フリックがいるからだとしか考えられない。私たちの時代には、やはり誰の名も覚えなかったからな」
「フリック……あなた、一体どんな魔法を使ったの?」
僕は答えず、ただ苦笑いを返した。
どうしてそんなことになっているのか、僕自身にもわからない。
確かに、彼の興味を引くために言葉を選んだことはある。でも、それだけで説明がつくとは思えなかった。
イーノスは、出会ってすぐに僕の名前を覚えてくれた。
しかも、僕から名乗ったわけではない。彼の方から、僕の名を訊ねてきたのだ。
そもそも彼は、他人の名前にほとんど興味を示さない。
そんな彼が、どうして僕の名前だけを訊ねたのか。
僕たちの戸惑いを知ってか知らずか、イーノスは別れの挨拶に群がる生徒たちへ適当な返事を返し、再びこちらへ戻ってきた。
「フリック。俺様は、雪を下ろす仕事がなかなか上手いようだ。お前たちの学校とやらは、俺様がきちんと守ってやる。安心しろ!」
えへんと胸を張り、スコップを肩に担ぐ姿は、初めて役目を与えられた子供そのものだった。
「ありがとう。よろしく頼むよ」
「任せておけ!」
相変わらず、風見鶏を去る気も眠りにつく気もなさそうな彼に、僕たちは安心し、それぞれの寮へ戻ったり、別れの挨拶に向かったりした。
僕とライズはマーガレットたちに別れを告げてから、フロウリードームの談話室へ戻った。
「ライズは、いつバスに乗る予定なの?」
「三時過ぎくらいかなぁ。叔母さんと一緒に帰るんだ」
「アイビー先生と? 去年もそうだったっけ」
「いや。今年はなぜか早く帰りたいみたいでさ。普段は教員たち、帰省ラッシュを避けてのんびり帰るんだけどねぇ」
三時過ぎ――。
僕はロビーに立つ柱時計を見上げた。針は二時半を少し越えていて、残された時間がわずかであることを示していた。
「…………」
寮の中は静まり返っている。ほとんどの生徒が外へ出てしまい、足音も声も聞こえなかった。
その静けさに、不意に息が詰まる。
僕は衝動的に体を屈め、両手で顔を覆った。
「? どうしたの」
異変に気づいた友人が、怪訝そうに声をかけてくる。
どうしたんだろう。
気がつけば、じっとりと脂汗をかいていた。
暖炉のそばとはいえ、暑すぎるわけでもない。厚着もしていない。汗をかくほどの室温ではないはずだった。
マーガレットは帰ってしまった。
コリウス先生とも、イーノスとも別れた。
寮には、もう誰もいない。
その事実が、僕の心の表面をどろりと溶かしてしまったようだった。
平静を装っていたベールが剥がれ、中身が露になった僕は脂汗をかき、手がぶるぶると震えだし、背筋に寒気を催した。
マーガレットでもない。
ハーベストでもない。
コリウス先生でもない。
僕は、隣に残ったただひとりの友人に、何かを訴えたかった。
本心を吐き出してしまいたいという、抗いがたい衝動に駆られていた。
あまりにも強い衝動だったから、僕は逆らえなかった。
顔を伏せたまま、友人のほうを見ずに、呻くように言葉を零す。
「ねえ、ライズ。僕はさ……帰りたくないんだ」
「……え? 何の話?」
戸惑いが、そのまま声になって返ってくる。
当然だ。そんなことを突然言われても、困るに決まっている。
「帰りたくないんだよ……実家には、帰りたくない」
それでも僕は続けた。
胸に溜まっていた、どす黒い煙を吐き出すように。
ライズは困惑しているようだった。
いつもなら即座に短い助言を返してくれる彼が、珍しく長い沈黙を挟んでから口を開く。
「なんでそんなことを言うの。きみ、別に家族仲が悪いわけじゃないよね」
「悪くないよ。でも……帰りたくないんだ」
「…………」
衣擦れの音がする。腕を組み直したのだろう。
しばらく考え込んだあと、彼は静かに息をついた。
「風見鶏に残りたいなら、コリウスに頼めばいいんじゃない? あの人、ずっといるんでしょ」
「残りたいわけじゃない。ただ……帰りたくないだけだよ」
「……そんなこと言われてもねぇ……」
短い溜息。
呆れたようなその態度が、僕にはひどく突き放されたものに感じられた。
「………………」
「………………」
長い沈黙ののち、ロビーの方から足音が聞こえた。
「ライズさん。使いの方が到着されました」
ノギスさんの声だった。
「ああ、うん。すぐ行くよ」
ライズはそう答えると、ソファから立ち上がる。
「じゃあね。また来年」
遠慮がちに告げられたその別れの言葉を……僕は、顔を上げて受け取ることができなかった。
僕はどうやら、また彼に何かを期待していたらしい。それが叶わなかったことで、ひどく落胆しているらしいことがわかった。
重苦しい気持ちのまま、僕はしばらく顔を伏せていた。友人が去り、足音が遠ざかって消えていくのを感じながら、幻聴が聞こえてこないかと耳を澄ます。
――期待するだけ、無駄なんだよ。
背中に張り付いたアイツがいたなら、きっと嘲るように笑っただろう。
けれど、その声はいつまで待っても聞こえず、僕はかえって深い寂しさに包まれた。
パチパチ、パチパチ、パチパチ。
暖炉で薪がはぜる音だけが、かすかに響いている。
いったい、どれほどの時間、こうしていたのだろう。
流石にもうバス停へ向かわなければならない。最終便に乗り遅れたら大変だ。
そう思い、僕がようやく顔を上げた、そのとき――
「!?」
驚きのあまり、僕はソファの背に仰け反った。
「ノ、ノギスさん?」
僕の正面の席に、寮母さんが座っていた。いつからそこにいたのか、まったくわからない。背筋をぴんと伸ばし、両手を膝の上に揃え、人形のように虚ろな瞳で、じっと僕を見つめている。
僕はたぶん、一時間ほどここに座っていたはずだ。ライズが去ってから、誰の足音も聞こえなかったし、向かいの席に人が座る気配もまるで感じなかった。
ノギスさんは、いつからそこにいて、僕を見ていたのだろう。
驚きを通り越して恐怖を覚え、僕はひきつった表情のまま、じりじりと後ずさりしながら口を開いた。
「あの……僕、そろそろバスに乗らないといけないので……」
ノギスさんは真っ黒な瞳で僕を見据えたまま、形の整った小さな唇を開く。
「フリックさん。どうして、ここで項垂れていらしたのですか」
「いえ、別に……何でもないです。ただ、少し疲れが取れていなくて……」
「あまり、よく眠れていないと伺いました。そのせいでしょうか」
「……そう、かもしれません」
早く、この場から離れたかった。
けれど彼女は矢継ぎ早に言葉を重ね、あまつさえソファから離れようとする僕の前に、すっと歩み寄って退路を塞ぐ。
「あの……何か、ご用でしょうか」
眉根を寄せ、迷惑だという意思を精一杯、表情に滲ませる。
それでも彼女は動じることなく、人形のような無機質な微笑みを浮かべて言った。
「よく眠れないようでしたら、こちらをお試しください」
「……? これは……」
「薬です。よく眠れるようになる薬ですよ」
彼女は小さな麻袋を、僕の目の前に差し出した。無意識のうちにそれを受け取ると、彼女は一礼し、すぐに道を開けてくれる。
「よいお年を、フリックさん。また春に、お会いしましょう」
それから彼女は、僕の姿が見えなくなるまで、その場に立ち尽くして見送っていた。
一体、何だったのだろう。
この睡眠薬を渡すためだけに、ずっと僕を見守っていたというのか。
彼女の真意が測れず、僕は首を傾げながら麻袋をジャケットのポケットにねじ込むと、バス停へと向かう。
まだ終バスの二本前の便だったけれど、寮の談話室という居場所を失った僕は、予定よりも早く、この旅路につくことにした。




