第十八章(1)
一年の最後の月、十二月、黒朱の月。
去年と同じく、月の始まりとともに雪がちらつき始めた風見鶏は、あっという間に一面の雪景色へと変わった。
屋根や木々は白い帽子をかぶり、学生たちはコートのフードを目深にかぶって、足早に教室を目指している。
僕たちも同じように、「寒い寒い」と言いながら講義棟へ向かっていた。そのとき、マーガレットがあさっての方向を指差し、あっと声を上げた。
「あれ、イーノスじゃない? 何をしているのかしら」
僕もそちらに目を向ける。
食堂と図書館のあいだ、資材倉庫のあたりに、数人の人だかりができていた。
ほとんどの人は分厚いコートを着込んでいたが、屋根の上にいる二人だけは薄着で、ひどく目立っている。
「本当だ。イーノスと……コリウス先生かな?」
僕が呟くと、マーガレットが僕の腕を引っ張った。
「授業までまだ時間があるし、ちょっと行ってみましょうよ」
彼女は「すみませーん」と声をかけながら、屋根の下に集まっている人たちへと歩み寄った。
「ねえ、あの人たち、何をしているのかしら?」
「こんにちは、学生さん。今は、雪下ろしの練習をされているんですよ」
「雪下ろしの練習?」
人だかりの中には、若い男の子もいれば初老の男性もいる。
どうやら風見鶏の清掃や修繕を担当している人たちのようで、普段あまり関わらない学生に話しかけられ、少し驚いた様子だった。
「あれって神子よね? どうして彼が雪下ろしなんかを?」
「僕もびっくりしたんですが、コリウス先生がどうしても、って」
「コリウス先生が?」
マーガレットの声に気づいたのか、屋根の上からコリウス先生が声をかけてくる。
「お、どうしたお前たち。授業はないのか?」
「これからありますけど……。それより先生、一体何をしているの?」
「雪下ろしだ」
「それは今聞いたからわかっているわ。どうしてそんなことをしているの?」
先生は豪快に笑い、手にしたスコップで雪をどさどさと落とした。
「どうしてって? 雪を下ろさなければ、潰れてしまう建物があるからだ」
「そうかもしれないけど、それはここの人たちの仕事なんじゃないの?」
マーガレットが周囲の人たちを指差すと、彼らは気まずそうに苦笑した。
「もちろん彼らもやるさ。ただ、冬休みのあいだは人手が少ない。だから私も手伝っているんだ」
「これくらいなら、割とうまくやれるからな」と言って、彼はまた豪快に笑った。
「どうして先生は冬休みのあいだ、風見鶏にいるの? 実家に帰らないの?」
マーガレットがそう口にした瞬間、僕は思わず声を上げ、慌てて彼女の言葉を遮った。
「ど、どうしたの? フリック」
「いや、その……コリウス先生は、実家が……」
「え? 実家が何?」
――そっか。
マーガレットは、コリウス先生が孤児だということを知らないのか。
いや、名字を見ればわかるはずだし、ただ忘れているだけかもしれない……。
どう説明すべきか悩んでいると、頭上から「あはは」と軽い笑い声が降ってきた。
「私には、冬休みにわざわざ帰る場所がないんだ。それに、養父から直々に風見鶏の管理を任されていてね。どこにも行けないんだ」
「養父……」
マーガレットは、ようやく察したようで、さっと顔色を悪くした。
静まり返った彼女に代わるように、僕が口を開く。
「それで、どうしてイーノスに雪下ろしを教えているんですか?」
「それは、こいつも暇だからに決まっているだろう。なあ、イーノス」
コリウス先生に声をかけられ、奥で作業していたイーノスがひょこっと顔を出す。
そして、にかっと嬉しそうに笑った。
「雪は大変だよな。俺様の仲間も、たまに埋もれて姿をくらましていたぞ」
「埋もれて……?」
「ああ。急に上からドサッと来て、出られなくなる。だから溶けるまで、そのまま待つんだ」
「…………」
また突拍子もないことを言っている。
苦笑しながら周囲を見ると、使用人さんたちも同じような表情をしていた。
イーノスが校内を公然と歩き回るようになって、もう半年。
彼が気さくな性格であることは、すでに多くの人に知られている。
同時に、彼の不思議な話を耳にする人も増え、そのたびに首を傾げる者も増えていた。
「あの、学生さん。イーノス様の仰る『仲間』って、何のことなんですか?」
「聖地には、たくさんの神子様がいらっしゃるんでしょうか」
「ええと……ごめんなさい。僕には、よくわからなくて……」
そんな質問を受けることも増えたけど、僕にできるのは、そう答えることだけだった。
笑って誤魔化しながら、僕たちはその場の人たちに別れを告げた。
「最近、イーノスって大人のことも怖がらなくなってきたみたいね」
「そうだね。コリウス先生のお陰かな」
マーガレットの言葉に、僕は小さく頷いた。
コリウス先生との手合わせのあと、イーノスは徐々に彼と打ち解けていったように見える。
たぶん、過去のやり取りを思い出したわけではない。イーノスは、子供と成長した大人を同一人物として認識できないようだから、仮に記憶が戻ったとしても、学生だった頃のコリウス先生と、今の彼を結びつけることはできないだろう。
イーノスは「今の」コリウス先生と、新しく友情を築いているのだ。
それは、コリウス先生の地道な努力の賜物だった。
彼はイーノスを怖がる人たちを一人一人諭し、自ら率先して声をかけ、まるで普通の子供に接するように振る舞ってみせた。
周囲の人たちもそれに倣い、次第に特別扱いを避けるようになった。
風見鶏は、少しずつイーノスにとって過ごしやすい場所へと変わっていった。
「さすがコリウス先生よね。教え子として、鼻が高いわ」
「マーガレットは、彼の研究室を第一希望にしているんだっけ?」
「ええ。コリウス先生なら、イーノスのことも何とかしてくれそうだし……。彼の下でいろいろ学びたいの」
「…………」
僕はほんの一瞬言葉を飲み込み、ライズのほうを見た。
彼は相変わらずイーノスの話題には関心を示さず、教科書に視線を落としたまま、わずかに眉をひそめている。
『甥はともかく、コリウスは……正義感が強すぎるでしょ?
ああいうのがこの件に関わっちゃ駄目。ロクな死に方をしないわ』
先日、アイビー先生から向けられた言葉が、胸の奥に蘇る。
これまで僕は、能天気にコリウス先生を頼ってきた。
けれど、その姿勢を見直さなければならないのかもしれない――そんな考えが、頭を離れなくなっていた。
ライズとアイビー先生が、頑なにイーノスとの関わりを避けてきたのには、きっと理由がある。
禁書盗難の件で、真相を追おうとするコリウス先生を、アイビー先生が退け続けてきたのも、同じ理由なのだろう。
真実に近づきつつある僕は、その理由を、ぼんやりと察し始めていた。
『聖地には、神子様のお仲間がおられるんでしょうか』
この問いを向けられるたび、僕の精神は少しずつ削られていく。
――何と答えればいいのだろう。
もし誰かが真実に気づき、それが風見鶏の中で伝播し、思いもよらない大波を引き起こしたら?
その波が、どんな方向へ向かうのかさえ、想像がつかない。
それが怖くて、アイビー先生たちは口を閉ざしてきたのではないだろうか。
どんな形の波であれ、収拾のつかない事態になる。
それを予測できたからこそ、彼らは――小さな波風ひとつすら、立てたくなかったのだ。
「コリウス先生が面倒を見てくれるなら、安心して実家に戻れるわね」
「あ……そうか。もうすぐ、今学期も終わりなんだね」
「そうよ。次の白曜日から、終年祭の準備が始まるって聞いた?」
「そうなんだ。今年も学年ごとに動くのかな」
「違うのよ。あれは寮単位でやるものなんですって。今年はわたしたち、一緒に準備できないの。ちょっと寂しいわね」
「そっか。去年は同じ寮だったもんね……」
終年祭のある十二月は、とても忙しい。
第二、第三白曜日には準備が入り、三週目の平日には期末考査が控えている。
そんな慌ただしい日常の中で――
僕は、学長から久しぶりの呼び出しを受けた。
部屋のポストに投函された封書には、『明日の午後三時、私の部屋に来てくれませんか』と書かれていた。
いつもならノギスさんが直接呼びに来てくれるのに、今回は日時指定。珍しいな、と思いながら、僕は一人で学長の部屋へ向かった。
奇妙なオブジェの並ぶ螺旋階段を上っていると、先の方から誰かの話し声が聞こえてくる。
「それでは、先生。失礼します」
「どうか、よろしくお願いいたします」
そんな声が複数重なり、コツコツと、まばらな靴音が響いた。
まずい。集団が下りてくる。
この狭い階段では、すれ違えない。
僕は空気を読んで、下の階の廊下まで後退することにした。
ぞろぞろと下りてきたのは、黒い正装に身を包んだ、見覚えのない中年の男たちだった。
彼らは廊下の端で硬直している僕に気づくと、驚くほど姿勢の良い敬礼を向け、そのまま昇降機に乗って階下へ降りていった。
……誰だろう。
明らかに学外の人間だ。学長に、いったい何の用事だったのだろうか。
疑問を抱えたまま、僕は約束の時間きっかりに部屋の扉をノックし、「失礼します」と声をかけて中へ入った。
「お待ちしておりました」
迎えてくれたのはノギスさんだった。彼女に促され、僕は応接机へ向かう。
先ほどの集団が座っていたのだろう。机の上には空になったティーカップや書類が並んでおり、ノギスさんは僕に一言断ってから、それらを丁寧に片付けていった。
「すまないね、フリックくん。お客様が帰ったばかりでね」
学長はすでに机の向こうに腰掛け、いつものようににこにこと笑っている。
「いえ、大丈夫です」
「すぐに用意をさせよう。紅茶がいいかね、それともコーヒーかな」
「お水で大丈夫です」
そう答えると、学長は机の上にあった茶封筒を脇へ寄せ、僕に対面の席を示した。
「来てくれてありがとう、フリックくん。久しぶりに、君とゆっくり話がしたいと思ってね」
「えっと……気にかけてくださって、ありがとうございます」
「最近はどうかね。イーノスくんとは、うまくやっているかい」
「ええと……まあ、仲良くしています」
「そうか。彼は君を、ずいぶん気に入っているようだからね」
これからも、よろしく頼むよ。
そう言って学長が微笑んだところで、ノギスさんが水の入ったグラスを運んできた。
学長の前に新しい紅茶のカップを置こうとした、その瞬間。
机の端に置かれていた封筒が、バサリと音を立てて床に落ちた。
「ああ、すまないね。フリックくん、拾ってくれるかい」
「はい」
僕の足元へ、一枚の紙が滑り出てきていた。
それを拾い上げようとして――僕は、ぎょっとして動きを止める。
写真だった。
隠し撮りのような構図で、写っているのは、ひとりの少女の横顔。
理由もわからないまま、手が震え始めた。
身体が言うことをきかず、脳裏にざわざわと泡立つような感覚が広がっていく。
視界が、目の裏から押し潰されるように歪んだ。
「どうしました? フリックさん」
耳元で名前を呼ばれ、僕ははっと我に返る。
いつの間にか、写真はノギスさんの手に渡り、学長へ戻されていた。
「ご気分が優れませんか?」
「あ……いえ。少し、めまいがしただけです」
「勉強続きで疲れているんじゃないかな。もうすぐ実家にも帰れる。ゆっくりするといい」
「は、はい……そうします」
二人に心配され、僕は慌てて笑顔を作った。
グラスの水を一気に飲み干し、両頬を軽く叩いて気合を入れる。
そんな僕の様子を眺めながら、学長はなぜか満足そうに頷いていた。
香りの良い紅茶を一口楽しんでから、彼はふさふさの口ひげを揺らす。




