第四章(2)
講堂にたどり着いた僕たちは、マーガレットの先導で裏口の前まで行く。
「正面玄関を開くとさすがに目立つから、こっちから入りましょう」
こぢんまりとした扉には鍵が掛かっていない。この学校にはあまり施錠するという文化がないらしい。
僕が知っているわずかな知識で言うと、父さんが下請けとして出入りしていた研究所、あそこは『施錠だらけで面倒だ』と父さんがボヤいていた。だから国の堅苦しい施設はみんなそんな感じなのだと思っていたけど、風見鶏は違うらしい。
ここには必死で隠さないといけないものは何もないのかもしれない。
それならなんで七不思議とかいう噂があり、何十年も不思議のままでいられたのか。
こんなにたくさんの人が知っていて、たくさんの人が探ろうとしてきたのに、噂話の内容が空っぽのままなのか。
僕たち新入生だけが深い内容を知らないだけならまだわかるのに、数年間調査したはずの先輩だって、大して話の出所を知っているわけではない。
僕はこの一ヶ月のやり取りで、そのことに違和感を覚え始めていた。
僕はやっぱり暢気な気持ちが抜けていなかったんだろう。サファー先生が言っていたように、七不思議とは新入生だけが踊らされるただのお遊び、ホラ話の類いなのだとどこかで思っていた。
この先には神の子の棺なんてものはなく、へまをして侵入がバレたとしても、どうせ大したことにはならないだろうと思っていた。
これは、退屈な学校生活を楽しくするための"スパイス"なのだ。
可愛い女の子と校則を破るという甘美な優越感を味わいながら、この時の僕はフワフワした足取りでマーガレットの後を追っていた。
建物の外壁に沿うように設えられた螺旋階段を上る。一階部分の天井にあたる所にたくさんの鉱石ランプがぶら下がり、星空のように瞬いているのを近くで見て、内心感動したりもしながら階上に上がる。
階上にはバルコニーのようなスペースがあった。そこをぐるりと半周歩くと、屋内にさらに上へ登る階段が見える。
「この階段の突き当たりに、例の六角塔の部屋がある」
「そうなんだ」
マーガレットは迷いなく、ずんずん階段を登っていく。どうして部屋までの道を知っているのだろう。ロイドさんに聞いたのかな? 僕は首を傾げたけど、特に気にせず彼女の後を追う。
中は窓がほとんどなく真っ暗だったので、外壁に寄り掛かりながらゆっくりと足を進めた。しばらく上り、螺旋階段の外周が目に見えて狭くなってきたところで、明かりが差し込む階上への入り口が見えてきた。
「あの上に、例の場所があるわ」
「石像があるとかいうところ?」
「そうよ」
ここで彼女は僕に進路を譲り、先に行ってみてよと目で訴える。
恐ろしい石像か……どんな石像なんだろう。僕はちょっぴり不安になったけど、情けない悲鳴を上げてマーガレットを幻滅させたくはない。頼れる男を演じ続けなくてはと気合いを入れ直して、階上にゆっくりと頭を出す。
僕の予測通り、六角塔の内部は月明かりがよく入って明るかった。見えたのは広々とした何もない部屋で、奥にまっ平な石壁が立ちふさがっている。
「石像は見えた?」
マーガレットに問われて、ぐるりと部屋を見回すけど、それらしいものは見当たらない。ただ、石壁に遮られた向こうには部屋がありそうだとわかった。ぽっかりと壁にアーチ状の入り口が開いていて、その下に小さな置物がポツリとひとつ置いてある。
「石像なんてないよ。向こうの部屋の入り口が見える」
「えっ! 嘘!」
マーガレットはそう声を上げて、僕を押し退けて階上に顔を出す。だけどすぐに悲鳴を上げて首を引っ込めた。
「あるじゃない! なに言ってんのよ、フリック!」
「え……どこに?」
「目の前よ! あんなに大きいものが見えないなんて、あなた目がおかしいんじゃないの?」
ええ? 僕は再び部屋を見回す。目を擦ったりして、何度も見回す。だけど最初と変わらず、そこには壁と向こうの部屋の入り口と、その真下に小さな置物があるばかりで他には何もない。
「あるじゃない! あそこ、天井まで届くような大きさの、三つ首の犬の化け物!」
「ええ……?」
確かに犬らしきものはいる。だけど、両手を広げたくらいの小さい犬の置物だ。マーガレットが何を恐れているのかが、僕にはさっぱりわからない。
ただ不思議なことに、部屋の中はボンヤリと霞が懸かったようになっている。入り口のアーチは見えるものの、あちらの部屋の中に何があるかはよく見えない。
二人してここに釘付けになっていては、いつまで経っても目的を果たすことは出来ないだろう。
「僕、行ってみるよ」
「えっ! 行くの?」
僕は頷いて、階上に足を踏み出した。
六角塔の最上階であるこの部屋は、アーチ状の窓が外壁に並んでいて、月明かりがよく入って明るい。僕の部屋と同じくらいの高度で、学校の敷地がよく見渡せる見晴らしの良い部屋だ。
石壁と石床に囲まれた殺風景な部屋は、おそらく六角形のど真ん中で一枚の壁に区切られている。
向こう側が僕たちの目的の部屋であり、そこに繋がっているのは中央にあるあの入り口だけのようだ。
足音を忍ばせて歩を進める。入り口の輪郭はハッキリと見えるのに、向こう側の景色は霞がかっていてよく見えない。天井から透明なカーテンでも吊るされているんだろうかと思ったけど、何だか違うようだ。
足元にいる白い物体……置物かと思ったけど、近付くにつれてそれがフカフカのぬいぐるみのようなものであることがわかる。その物体を中心にして、部屋全体が蒸気のようなものに覆われているような気がする。
僕は屈み込んで、しげしげとそれを眺めた。
驚くことに、それはぬいぐるみではなく、生きている犬だった。
犬だ。真っ白な毛並みの、小型犬だ。
似たような犬を、故郷の誰かが飼っていた気がする。食糧庫を荒らすネズミをとるために飼う、駆除犬とかいうやつだ。
でも目の前のそれは、駆除犬よりも小さくて、毛並みがフワフワしていて可愛い。
スヤスヤと寝息を立てている様子はとても愛らしくて、僕はつい触ってみたくなった。
ドキドキしながら手を伸ばし、背中を触る。規則正しく上下する体は暖かい。
とても気持ちが良かったので、僕は調子に乗って首に手を沿えた。駆除犬はここを撫でてやると、クルクルと声を出して体を伸ばす。
その犬も例に漏れず、気持ち良さそうに声を出して体をだらりと伸ばした。
可愛いなぁ。僕がそう思って頬を緩めたときだった。信じられない事が起こった。
「うーん。おなか、おなかも撫でてほしいですぅ……」
「?!」
僕は仰け反った。しゃべった? いやまさか。犬が喋るわけ……。
「うう、撫でてくださいです、撫でて……」
やっぱりしゃべっている。僕は震える手を、もう一度犬に伸ばした。その時その犬は、パチリと目を開いて僕を見た。
「「わああああ!!」」
僕たちは、同時に叫んだ。お互いに叫んで、数歩仰け反った。
「犬がしゃべった!!」
「しゃ、しゃべってないです!!」
犬はそう条件反射で答えてしまったことに慌てふためいた様子で、ゴホゴホと咳払いをしてからこんな声を出し始める。
「ケイコク! ケイコク! シンニュウシャ! シンニュウシャ! サガリナサイ! サガリナサイ……」
「えっ、どうして急にそんな……」
さっきまで、可愛い声を出していたのに。
抑揚のない声は恐ろしくもあったけど、容姿は変わらずちっぽけな犬のままだったので、やっぱりあまり怖くない。僕はけたたましく吠える犬に向かい、眉根を寄せながら訴えた。
「しっ、静かにして。お願いだから。おなかを撫でてあげるから……」
「ピャッ」
彼(彼女?)は妙な叫び声を上げてうずくまる。頭を抱えて、床に擦り付けながらプルプルと震えている。
「ど、どうしたの……?」
僕は心配になってそう尋ねた。彼は前足の隙間からちょっと顔を出し、緑の瞳をこちらに向けて言った。
「き、聞いてました……? ワタシの寝言を聞いてました……?」
「おなかを撫でてと言うのなら、聞いたけど……」
「ピャーッ! ピャーッ!!」
彼は再び頭を床に擦り付け、身悶える。
どうしたんだろう。何が起きているんだろう。
どうやら彼は、おなかを撫でてという発言が恥ずかしかった様子で、ごろんごろんとのたうち回っている。
「アナタは、どうしてっ、ワタシを怖がらないんですかっ」
「え……だって、小さくて可愛いから……」
「どうしてっ、ワタシの本当の姿が見えているんですかっ」
「本当の姿?」
「ワタシは今、幻術を使っているのですよ。石像に変身しているのですっ」
「石像……? それって、三つの頭がある、大きな犬の?」
「そうですっ! そうですっ!」
ああ、なるほど! 僕はぽんと手を打った。だからマーガレットは怖がって階上に上がってこなくて、僕は上がってこれた。
僕には何故だか、この子の言う『幻術』が効いていない……?
「なんで?」
僕は首を捻る。全く見当がつかない。
「アナタ、こうしましょう。提案です。取引です」
犬はのたうち回るのはやめて、お座りをして僕を見上げた。
畏まっているのだろうか。そういう雰囲気だったので、僕も彼の前に腰をおろして背筋を伸ばした。
「ワタシは今日、アナタの事を見ていない。アナタが来たことは黙っています」
僕は頷く。ということはつまり、この子に見つかった生徒はやっぱり、キュービット先生に報告されてしまっていたということか。
「その代わり、アナタは黙っていてください。ワタシが寝言を言ってしまったことを。学長に。言わないでください」
「学長に?」
僕は驚いた。キュービット先生じゃなくて、『学長に』言わないでくれ?
犬は頷いている。聞き間違えたわけじゃないらしい。彼は学長に失態がバレることを恐れている。ということはつまり、彼の飼い主はキュービット先生じゃなく、学長なのだ。
「それは構わないけど……おなかを撫でてあげなくていいの?」
「い、いりません!」
彼は恥ずかしそうにそう叫んで、フイと視線をそらす。頑なな様子だったけど、本当は撫でて欲しいのがバレバレで、僕はつい口元が緩んでしまった。
よくわからないけど、僕はこの子の弱みを握ってしまったらしい。
これを利用しないのはもったいない。僕は思い切ってこう聞いてみた。
「あの。僕は、この先に何があるか知りたくてここまで来ました。差し支えなければ教えてもらえませんか」
「いいですよ」
ケロリとした表情で返されて、僕は驚いた。
君は後ろの部屋を守っているんじゃないのか?
彼……いや、この時はもう、目の前の犬がメス犬らしいということに気付いていたから、彼女と呼ぶことにする。
彼女は何の躊躇もなく優雅に立ち上がり、数歩右側にズレる。
「どうぞ。お通りください。見るだけだったら、何の問題もないのですよ」
「あ、ありがとう……」
僕は後ろを振り返った。もう危険はなさそうだから、マーガレットを呼び寄せようと考えた。
だけど彼女の姿はそこにはなく、ギョッとして視線を泳がせる僕。ふと目に入った奥の部屋の方に、見慣れた金色の頭がチラッと窺えた。
なんてことだ。いつの間にか、マーガレットは奥の部屋に侵入していたのだ!
僕は犬に会釈して、慌てて彼女の元に駆け寄る。
「マーガレット! いつの間にそっちに……」
彼女は僕を鋭い目で見て、口元に人差し指を立てた。
僕は口を抑え、辺りを窺いつつゆっくり彼女の隣に立つ。彼女は部屋の奧の壇上にある長細い箱の前で片膝を立てて座っていた。
「こ、これって……」
「『神の子の棺』。やっぱりここにあったのか……」
マーガレットが眺めていたのは、重厚な石造りの大きな棺の中。
そこには柔らかそうな白い羽毛に埋もれて、人体がひとつ、静かに横たわっていた。




