第三章(2)
サファー先生は、生徒をやる気にさせるのが本当に上手だ。授業が終わってからもしばらく、同級生の間では七不思議の話が続いていた。
「でもさ、あの先生、絶対に賢者の錬石使ってるよね」
「えー? まだ見つかってないって言ってたじゃん」
「だって私、聞いちゃったの。サファー先生がクラウジウス先生を“あだ名”で呼んでいるのを」
クラウジウス先生というのは、その次の授業『為政学基礎Ⅰ』に登壇した教師だ。
「皆さん、初めまして。キュービット・クラウジウスです」
抑揚のない声。
四十代ほどの、くたびれた印象の男性。
長い銀髪を後ろで束ね、真っ黒な紳士服に、冷たい切れ長の目。
雑談ひとつなく、几帳面な板書を淡々と写させる授業だった。
正直、かなり退屈だった。
「あのおじさんを、あだ名呼び……? それは確かに普通じゃ無さそうね」
「でしょ? だからサファー先生は老けないのよ。賢者の錬石の研究をしているから!」
「いいなぁ……私も錬石学、専攻しよっかな」
七不思議の話は、食堂でも寮でも広がっていった。けれど僕は、どの輪にも入れなかった。
誰かが話しかけてくれることはない。
それは僕が嫌われているというより、隣にいるライズの存在を気にしているからのようだった。
当のライズは、七不思議にはまるで無関心。淡々と日課をこなすばかり。
ただ、彼の生活態度はひどく極端だった。
その最たる例が、『為政学基礎Ⅰ』の授業態度だ。
確かにその授業は、毎回つまらなかった。地理や政治体制の話が、子守歌のような声で流れ続けるのを耐えなければならない。
「アスティリア国は、大陸歴一二八二年に建国された五州連邦国家で——」
僕は必死でノートを取りながら眠気と戦っていたのに、その隣で、ライズは分厚い教科書を立てて完全に眠りこけていた。
初めて目撃したときには、思わず目を見張ってしまった。
僕は見開いた目を、左右に泳がせる。そのとき、後ろの席のハーベストと目が合った。
彼も見開いた目をライズに向けて、再び僕と視線を合わせる。彼はこう言っているような気がした。
(ヤバイぞ。ヤツを起こしてやらないと!)
僕はこくりと頷く。しかしどうすれば良いやら。
怖じ気づいていると、ハーベストは震える手で羽ペンを構え、ゆっくりとライズの肩をつついた。
反応がない。もう一度つつく。やっぱり反応がない。
僕は首を横に振った。これ以上は良くない。変に物音を立てたら逆に目立ってしまう。ハーベストも頷いて、羽ペンの先をノートに戻した。
ライズは本当におかしなやつだった。
地方政務官を目指しているんじゃなかったのか?
だったらキュービット先生に嫌われたらまずいだろう。
何故だかメイ先生が来たときは眠らないし。
他の授業でも眠らないのに。
本当によくわからない。
そんな風に数日が過ぎ、七不思議の話題も少し落ち着き始めた金曜日。
その日錬石学基礎Ⅰの教壇に立ったのは、いつもと違う教師だった。
「早く席に着きなさい、クソガキども!」
鐘が鳴るのと同時に教壇に現れた赤毛の先生は、ぎりぎりまで雑談していた生徒たちを一喝し、教室を一瞬で静めた。
四月の始めに出会った、あの先生——ライズにそっくりなアイビー・ブレガー先生だ。
「錬石学の権威であるあたしが直々に、錬石ってものが何なのか教えてやるわ。感謝しなさい」
シンと静まり返った教室に、カツカツとチョークの音だけが響く。
彼女が最初に取り上げたのは、『単晶』と『連晶』についてだった。
「錬石ってのはね、いろんな形があるの。『グロウリーグロウ』だの『イグノクラフト』だのってのは成分の名前であって、それだけで魔法の効果が決まるわけじゃないのよ」
黒板に描かれたのは、六角柱の先端が鋭く尖った形。
「これはグロウリーグロウの単晶よ。錬石っていうのは、その成分ごとに最も取りやすい結晶の形が決まっているの。どんなに小さくても、錬石はまず単晶の形を取るのよ」
アイビー先生は鞄からランプ石とルーペを取り出し、最前列の生徒へと渡した。
「観察しなさい。単晶の形をしているでしょう」
拳大のクォーツにルーペを当てると、中の砂粒ほどの結晶は、確かに小さな六角柱だった。
石は次々と後方へ回されていく。その間に、先生は黒板へいくつもの図形を書き足していった。
正方形の板、平たい六角柱、菱形の平面から上下に山が生えたような形——。
ランプ石が教卓へ戻ると、先生は言った。
「単晶ってのは、こういう板、柱、錐といった単純な形から成るの。正直つまんない錬石よ。クズ錬石。……まあ、大きければそれなりの価値はあるけどね」
「クズ錬石……」
教室がざわついた。
ランプ石や火力石だって、一般人にはなかなか手が出ない高級品だ。
代々錬石研究者を輩出するブレガー家の感覚は、やはりどこか常識とずれている。
アイビー先生は黒板を消し、今度はひどく複雑な図形を描き始めた。
あまりにも入り組んでいて、僕は思わずノートを取る手を止めてしまう。
「単晶じゃなくて、こういう形を取るものにこそ、本当の価値があるの。これを『連晶』って言うわ」
左端の図に、先生はこう書き込んだ。
『十字連晶』
二本の柱が交差した、確かに十字形の結晶だ。
「例えばこれは、グロウリーグロウの十字連晶の模式図。誰も実物は見たことがないでしょうね。でも、ランプ石に含まれる単晶なんかとは比較にならないほどの力を持つ」
先生はくっつけた二本の指を、わずかに開いて示した。
「このくらいの大きさの連晶が砕ければ、教室の半分の生徒の目が潰れるわ」
教室に、息を呑む音が広がった。
「グロウ錬石は、特に十字連晶との相性がいい。逆に、他の連晶形じゃそこまで魔力は増幅しない。錬石ごとに、相性のいい形は違うのよ」
次に先生が指し示したのは、樹のように枝分かれした図形だった。
「クラフト錬石は、樹状連晶と最も相性がいい。この形を取ると、力は何倍にも増幅される」
その瞬間、教室の空気が一気に張り詰めた。
ほとんど全員が、その図を凝視していた。
——樹状連晶。
七不思議に語られる、『賢者の錬石』の形。
クラフト錬石であるクラフティクラフトが樹状連晶になったとき、その魔力は何倍にも増幅され、人を不老不死にするほどの力を得る……?
勢いよく、数人の生徒の手が挙がった。
「何よ。質問?」
不機嫌そうにしながらも、先生は一人を指名した。
「あの、クラフティクラフトの樹状連晶は……存在するんですか?」
うわ、すごく正面から聞いたな。
相手はサファー先生じゃない。
嫌な予感を抱いた僕の視線の先で、アイビー先生は、恐ろしく歪んだ表情を浮かべた。
「……その名を、軽々しく口にするんじゃない……」
教室の空気が、凍り付く。
「次にあたしの前でその名を出したら……潰すわよ」
「……は、はひ!!」
その子は勢いよく座り込み、身体を小さく縮こまらせた。
後ろのハーベストも、途中まで上げていた手をそっと下ろしている。他に質問する人はいなかった。
「くだらない噂話に振り回されてる暇があったら、まずは基礎を身につけなさい。あんたらの本分は勉強よ。身の程をわきまえなさい!」
先生は机をバンと叩き、再び授業へと戻る。
「七不思議は学校生活のスパイス」と言ったサファー先生とは、あまりにも正反対の反応だった。
僕たちはすっかり混乱してしまう。
先生方は、みんな噂を知っている。
それは確かだけれど、七不思議に好意的な先生ばかりじゃない……?
その日の夕方。
いつものようにライズと夕餉を済ませ、寮へ戻る途中のことだった。
談話室でたむろしていたハーベストたちの集団が、こちらに気づいて声をかけてくる。
「おい、君たち!」
僕は足を止め、笑顔を向けた。
ハーベストとは席も近く、同級生の中では比較的気軽に話せる相手だと思っていたからだ。
「どうしたの? ハーベスト」
「いや、ちょっとこっちで話さないかと思ってな……」
しかしハーベストが見ていたのは、僕ではなくライズだった。
ライズは僕を無視して、スタスタとロビーを通り抜け、階段へ向かおうとする。
「おい、逃げるぞ! あいつを捕まえろ!」
「了解!」
ハーベストの合図と同時に、三人の男子が駆け出した。
「な、何!? 何の用だよ、やめろよ!」
「いいから来いよ!」
可哀想に。
ライズはキーキーと悲鳴を上げながらも、あっさり捕まえられ、ずるずると引きずられて談話室のソファーの中央へと座らされた。
さすがに、僕だけ逃げるわけにもいかない。
仕方なくライズのもとへ向かい、同じようにソファーの中央にストンと腰を下ろす。
正面にはハーベストと、マーガレットの弟のバートがいた。
そういえばこの二人は同室だったはずだ。バートはベルフォート校出身ではないのに、このグループに混ざっていたんだな、などとどうでもいいことが頭をよぎる。
「で、何の用なの」
ライズが、いっそう刺々しい声で問いかけた。
晩ごはんのあとはいつも眠そうにしているから、普段の倍以上機嫌が悪い。
それを知ってか知らずか——おそらく知らないのだろうが、ハーベストは薄く笑いながら、ひそひそと僕たちに囁いた。
「君たちも、風見鶏の七不思議に興味があるだろう? 意見交換がしたいんだ。協力してくれないか」
なるほど、そういうことか。
僕が納得しかけた、そのとき。
隣から、場違いなくらい素っ頓狂な声が上がった。
「はあ? 七不思議? 何それ」
「……え? ライズ、知らないの……?」
「知らない」
ここ最近、クラス中であれだけ話題になっていたのに?
僕だけでなく、ハーベストも、周囲の生徒たちも、そろって唖然とした顔でライズを見つめていた。




