花売り娘ネズミになる・2
階段を上がる足音に、リリーは身を起こした。
たいして拭きもしなかった髪はまだしっかりと水分を含んでいて、乾かしながらとろとろと眠くなるのを楽しんでいたのに。
この足音は坊ちゃま。
急いで辺りを見回す。
二つあるランタンには灯りがともっているが、部屋中明るいわけじゃない。
もうそこまで足音が来ている。
リリーがソファーの後ろに回り込むと同時に、ドアが開いた。ギリギリ脚が見えたかどうかのタイミングだ。
四つん這いの姿勢でそっと覗いた先に見えた坊ちゃまエドモンドは、白い手袋の手首を整え室内を見渡している。
前に垂らしたマフラーは正装時のものだ。お出かけだったのだろう。
「最近、この家にはネズミが出るらしい」
独り言にしては大きな声が続ける。
「今夜あたり出そうだと思ったが」
床を踏む乾いた音が響く。合わせてリリーの心臓も音を立てた。
暖炉側から来ると読んで、リリーはドアから一番遠い部屋の隅を目指すことにした。赤ん坊のように這っていけば見付からないと思う。
またカツンと靴音がした。
――今だ! 身をのりだしたところで、リリーの体が浮いた。脇の下に入れた手でひょいと向きを変えられる。
「――捕まえた。これはまた大きなネズミだ」
目の高さを合わせてじっと見ながら、エドモンドはネズミだなどと口にする。
釘が鍵になったみたいに、坊ちゃまには私がネズミに見えているのかもしれない。それなら。
「きー、きー」リリーは鳴いてみた。
無表情に見つめるだけで瞬きすらしないエドモンド。
きまりが悪くなってリリーは目をそらした。わきの下にある手はくすぐったいし、吊り下げられた人形のように手足はぶらんとしたままだ。
「さて、このネズミをどうするか」
その言葉に震え上がった。捕まったネズミが篭に入れられて水に沈んでいるのを見たことがある。水責めにされたら大変。
「坊ちゃま、ネズミじゃないわ、わたしなの」
急いで訴えると、エドモンドの口元がほころんだ。
「なんだ、もう降参か」と言いながら、いつものように縦抱きにする。
降ろしてくれてもいいと思いながらも、リリーは安定を求めてエドモンドの肩に手をまわした。
どうやら本当にネズミに見えていたわけじゃないみたいだ。水責めの回避に成功して、ほうっと息を吐く。
「すぐにわかったの?」
リリーの問いにエドモンドが浅く頷いた。
「先週『ネズミ』が出て、クッキーを一枚だけ噛っていった。おかしいと思っていたが、やり口が分からなかった。まさか釘一本で誤魔化すとはな」
お前の能力を過小に見ていた、と呟く。
「なぜ、わざわざ忍び込むのだ」
一番聞かれたくない質問が来た。
「……坊ちゃまのフタンが大きくなると、ゾウチョウして逃げ出すから」
説明するリリーに、エドモンドが難しい顔をする。
「――文脈がおかしい。また中途半端に大人の話でも聞きかじって、いらぬ気をまわしたのだろう」
どこがおかしいのかは分からないけれど図星だ、とリリーは後ろめたさに目をそらした。
「まあ、いい。好きにしろ」
エドモンドが言い放つ。
――捨てられた。慌ててリリーが視線を戻すと、エドモンドは整いすぎて冷たくすら感じさせる微笑を浮かべていた。
「今回はなかなかに面白かった。お前のする事で私が困るなど何一つない。これからも好きにするといい――危ないこと以外は。覚えておけ、危険な真似は一切許さない」
許さないってなんだろう。母さんでもないのに。とは、とても言えない威圧感がある。
「危ないことをすれば――」
そこで止めたエドモンドは、たっぷりと時間をおく。
「したら……?」
「――閉じ込めて……」
エドモンドの片頬だけに笑みが刻まれる。
――水責め!? リリーがゴクリと唾を飲み込んだ。
「お前が心根を入れ替えて『もうしません』と誓うまで、ロバートとお勉強だ。甘い菓子もなしで」
言って、いつもより可笑しそうにするのは、ドキドキとした自分の顔がよほど面白かったのだろう。そんな事かと思って、リリーは良い香りのする首筋に顔を埋めた。
珍しく小さく声を立てて笑ったエドモンドが頭を撫でる。
「私を出し抜くにはまだ早かったな。次のイタズラを楽しみにしていよう」
気をつかったつもりがイタズラとしか取ってもらえなかったけれど、坊ちゃまが笑っているならまあいいかと思う。
足音がする。今度はおじ様だ。
「まだ髪が湿っている。いつまでたってもキチンと拭けないのは、どういう訳だ」
エドモンドが顔をしかめる。
もしかして坊ちゃまが来たら、乾かしてもらおうと思っていたから。
とは言わずにリリーは「えへへ」と笑って見せた。




