家令ロバートは腹痛をおこした・1
黒い夜会服に身を包み仕上げに指を入れた白手袋が、きゅっと音を立てた。
ロバートから銀の柄のついたステッキを受けとったエドモンドは、寝椅子にちんまりと座って支度を眺めているリリーを一瞥した。
「坊ちゃま、今日もとってもステキ」
いつにも増してうっとりと見つめるリリーの眼差しには熱がこもっている。
エドモンドが微かに眉を寄せた。
「語彙が明らかに不足している。素敵の一言で済ませずに具体的に言ってみろ」
リリーが宙に目を向ける。襟に白薔薇を差しながらさっさとしろと言わんばかりの顔付きになるエドモンド。確かに出掛ける時間が迫っている。
「天使さまみたい。キレイ」
「天使など目にしたこともないクセにな。そして、天使という言葉は使用を禁じたはずだが」
鼻で笑うようにしたエドモンドは、それでもどこか優しい口調で言うと、リリーの首筋に指先を触れさせた。
少しおいて体をかがめ、リリーの丸いおでこに自らの額をつけた。
今までにない行為だが、リリーは特に何か言うでもなく、普段より赤みの増した頬と潤んだ瞳でおとなしく受けいれている。
「私が帰るまで、そこで寝ていろ」
命じたエドモンドは、手袋をした指でするりとピンク色の頬を撫でると、うなずくリリーに背中を向けた。
馬車のなか。何事か考える様子のエドモンドの向かいに座った家令ロバートは「珍しいこともあるものだ」と、出掛けのエドモンドの行動を思い返していた。
あまりに素直に賞賛の眼差しを向けられて、少しからかう気持ちでも起きたのだとしたら、からかい文句のひとつも口にしそうなものなのだが。
そして隠れ家を出立してからずっと、若き主は何かに気を取られている。
遅い時間に外出予定のあった今夜は、本来ならば隠れ家へ行く時間的な余裕はなかった。
リリーが訪れたと察知したエドモンドが「支度はあの家でして、あそこから出掛ける」と言い出さなければ。
さすがのロバートも無理があると思う指示に、顔に焦りが浮かんだはずだが、そんな事で発言を撤回してくれるなら、それはエドモンドではない。
頭をフル回転させて間に合わせた。万にひとつの場合を考えて、すぐに履ける磨き上がった夜会用の靴や糊のきいたシャツなどを隠れ家に置いてあった事が幸いした。
本当に、よき準備は主ではなく自分を助けると実感する。
「ロバート、ファーガソンに用があると言っていたか」
何の前触れもなく出されたのは、弟殿下の侍従長の名。今夜、集まりの裏で、彼とは打ち合わせの約束をしている。
「はい」今後のいつくかの公務をどちらの殿下が担うかを話し合うつもりでいた。それが何か。
「話をさっさと済ませて、腹痛を起こせ」
真顔でエドモンドはそう言った。




