貴公子の劣等感
「坊ちゃまには劣等感はないの?」
暖炉の前、エドモンドの長い脚の上に落ち着き、お腹にはクマ執事のロビンを抱えるという最高の午後を過ごしているリリーが、思い出したように質問した。
横顔を見るだけで、主エドモンドが「いきなり何を言い出すのか」と怪しんでいるのが、ロバートにはわかる。
「劣等感の意味を間違えて覚えたな」
しばしの沈黙の後、エドモンドが指摘する。
なるほどそういう事ですか、とロバートは合点がいったのに。
「間違えてません――。劣等感とは、自分が他の人より劣っていると思う気持ちです――」
心外だとリリーが頬を膨らます。そうすると子供の頃のようにお顔がふっくらとして、大変可愛らしい。そして、リリーの答えは、リリー流に言えば「せいかい!」だ。
公国一の貴公子に劣等感。無いと思うが有るのだろうか。兄殿下に対し父に対し……?
ロバートもほんの少しの好奇心を持って、成り行きを見守る。
ほどなく「無い」と、清々しい一言が返った。でしょうとも、と納得するロバートと違い、リリーはこの会話をまだ続けるつもりらしい。
「誰でもあるって聞いた」
「では、私はその『誰でも』ではない。考えても無駄な事は考えない。他人と比べる気はない。わたしより上はない、下と比べる必要はない」
「坊ちゃま、すごい自信……」
「セレスト家は、揃って同じ考えだ。お前の『オーツ先生』も似た考えだろう」
「そう聞くお前に劣等感はあるのか」
ついでのようにエドモンドが問う。
「ん――と」
考えないと出ないならば大したことではないのだと思われる。ロバートは気楽に聞いていた。
「……ある」
エドモンドが、ロビンを抱えるリリーの手をトントンとした。
「聞きたいの?」
小さくため息をついてから。
「坊ちゃまより物覚えが悪い。坊ちゃまみたいに楽器が弾けない。坊ちゃまと同じようにはどれもできない」
まさかの比べる相手はエドモンドだった。それは相手が悪すぎる。ロバートとしては「比べてはなりません。エドモンド様は特殊です、人ではありません」と教えてやりたいのだが、主の前で口にできるはずもない。
「お前ができなくとも、私ができればいいのではないか」
リリーがぐいっと頭を反らして、エドモンドの顔を見ようとする。顎にあたる寸前で回避した主が、何ごともなかったように続ける。
「一緒にいるのだから、二人共が出来る必要はない。どちらかが出来ればいい」
「ふぅん。そういうものなの」
「そういうものだ」
エドモンドが本気で言っていると伝わったのか、ロビンを撫でるリリーから気の抜けた雰囲気が伝わった。
「なぜ、いきなり劣等感などと言い出した」
それはロバートも是非聞きたいところだ。
「昨日読んだ聖人の教本に、人心掌握術の項があって、『人は誰しも劣等感を持つものです。そこを刺激し認めてやりさらに赦すことにより、人は聖人に心をひらき、いずれ心酔します。そうなれば自ずと布教活動の先頭に立ってくれます』と書いてあった」
スラスラと諳んじるリリーに、エドモンドは動きを止め、ロバートは瞠目した。おそらく傍目にはわからない程度ではあるが。
リリーは話すのに飽きたらしく、目が半分閉じている。すっかり閉じるまで待ったエドモンドが、頬に落ちる赤毛を耳にかけてやる。
「聖女など、辞めてしまえ」
いつになく甘くささやく。ほぼ猫撫で声だ。
「まだ……やめないの。なぜなら、始めたばかりだから……」
眠気に負けて反論は弱々しい。
「辞めれば、毎日甘い菓子をくれるぞ――ロバートが。だから辞めてしまえ」
異能が使われているのではないかと思うほど、男のロバートにも魅惑的に響く声音。
「……やめてもいい」
リリーが陥落したのは声音にではなく甘い菓子にだと、ロバートは知っている。
すぐに辞めるのは無理に決まっているが、明日から毎日菓子を支部まで届けるとなると、一週間の「菓子計画」を立てねばならない。いくらクリームが好きでもそればかりでは、芸がない。日持ちする菓子も含めなければさすがに連日届けるのは難しいかと、脳内で日程を組む。
「いい子だ」
聞こえてきた主の含み笑いが微妙に恐ろしく、ロバートはそっと背中を向けた。




