聖女候補は夜会で顔を売る・6
歩くユーグ殿下の肩はぶれない。姿勢がよく美しい。着る人を選びそうな青色の上着も、華やかでよくお似合いだ。リリーがぼんやりと背中を眺めていると、軽く振り返りお尋ねがあった。
「聖人とは、そのような苦労人でなければ、なれぬものか」
そんな事はない。奇跡ふたつがあれば良い。ユーグ殿下もご存知のはずだ。
「苦労は必要ないと思います。私について申しあげますなら、生活に苦労していなければ人に助けられることも、持てる力に気づくこともなく、普通に生きたと思います。普通とはお世辞にも言えない生活だったから、力が伸びたのだと思います」
ユーグ殿下からの返答はない。
「だからと言って、皆が私のようだとは限りません。貧しい暮らしは心まで貧しくします」
本当は「荒んだ暮らし」と言いたいところを、聖女らしくない気がして「貧しい」に置き換える。少し大きくなって理解したけれど、あれは貧しいではなく「とても貧しい」生活だった。
「『生きるためにする悪事は許される』と考える人はまだいいほう。何も考えず人の物と自分の物の区別のない人もいます」
雲の上の方に言ってわかる事だろうか。歴史をみればお貴族様にも悪い人はいくらでもいるが、考えなしの悪人なんて殿下には想像がつかないかもしれない。
黙ったリリーに代わって、殿下が口をひらいた。
「劣悪な場にいる者すべてが、よい暮らしを求めて努力するわけではない、と?」
「その通りです」
「下々とは興味深いものだ」
前後にいる男性ふたりも、聞いている感じがある。
「本当に下流の暮らしだと、気まぐれな一助が命を助けることもあります」
後ろを歩く男性が隣へ来たので、リリーはつい問いかけた。
「底辺の生活を抜け出すのに大事なことって、何かわかりますか?」
男性は殿下の背に視線を向けたあと、リリーの目を見て「いいえ」と返した。
「その生活から抜け出せる機会があったら、逃さないこと。後ろ髪を引かれても、誰かに引き止められても、振り切って出ることです。二度目があるなんて思ってはダメ。そうしないと『ずっと此処』なんです」
しんと空気が冷えた気がした。暗くならないよう、努めて穏やかに微笑まで浮かべたのに効果はなかったらしい。
ユーグ殿下が下層階級に興味を持ってくださるならと話したけれど、余計な話をしすぎたかもしれない。
嫌がる気配はなくても、治める側からすれば耳に心地よい話でもない。
リリーが謝罪すべきかと考えた時、ひとつの扉の前で護衛が足を止めた。そのまま扉を開く。
「入るがよい」
ユーグ殿下が紳士らしく、先に入れとリリーを誘った。




