聖女候補は夜会で顔を売る・3
何をやってしまったのかと言えば。
馬車を降りて、少し足もとの暗いなか会場となるお屋敷へ向かって庭を歩いていたところ、踏み石の隙間にちょうど靴の踵が挟まってしまった。
細い割れ目か溝だろうと思う。半歩戻り、手で抜けばよかったのに、「えいっ」と力まかせに足を引いたのが悪かった。妙な手応え(この場合正しくは足ごたえ)があり、足首を痛めた……のではなく、傷んだのは靴の踵だった。折れたのだ。
信じられない気持ちと恥ずかしさが先に立ち、リリーは何ごともなかったかのように素知らぬ顔で歩き続けた。
おそらくあの場所には、靴の踵が突き出ているはずだ。後から来た方がつまづく事のないよう祈りたい。見つけた人は、とても驚くに違いない。私の靴だとバレないといいけど。
動きが不審にならないよう、リリーが片足だけ踵を浮かせて早一時間半。ふくらはぎが張りピクピクとしてきた。少しほぐしたいと、お化粧なおしを口実にして会場を出た。
ひと気のない場所を探すけれど、どこにも人がいる。外に行くしかなさそうでも、あまりに暗い場所は避けたい。見えなくて、ドレスを汚しては大変だ。
すれ違う人と会釈を交わしながら、リリーはようやく物陰をみつけた。
座れはしないが、スカートをたくし上げてふくらはぎを揉むくらいはできる。
壁に手をつき、スカートを膝の間に挟み込んで膝下を露わにし、指でグイグイと揉みほぐした。アラレもない格好で人には見せられないから、手早く済ませたい。
そういう時ほど、注意力が散漫になるもので。
「いかがした? ご令嬢」
と、思いがけずご親切な声がかかった。
誰にも好かれそうな良い声。こういう質の声が厄介なのだとリリーは知っている。
しかも後ろではなく前。聞こえないふりもできない。
「ご気分が悪いのなら――」
それ以上言わせないように嫌々ながら顔をあげると、この声の主ならこんな感じだろうと誰もが思うような若い紳士がいらした。
あまり近寄らないで欲しくても、言えない。なぜなら、絶対に身分の高い方だから。リリーはこっそりと息を呑んだ。
実際に見るのは初めての「紫の瞳」とはきっとこの眼で、髪は薄暗くてもキラキラして見える金色。このふたつが揃えば、お名前はベルナール。王国を治める貴い一族だ。
今日は紅いブレスレットをしていない。何かの拍子に見えては分不相応だと怪しまれる、と考えのことだったが正解だった、とリリーは胸をなでおろした。
「声も出ないほど驚かせたか」
返事をしろ、と言われている。
「いえ、出ます。あの、このような、はしたない格好をお目に入れてしまった事で、何と言いますか……困っております」
本当に恥じ入っていたら声もでないだろうに、つい遠回しに「取り込み中とわかったら、見ないふりをして去るのが紳士だ」と言ってしまった。
「そなた、足を痛めたのであろう」
華麗なる無視。さすがは王家、と感心している場合じゃない。
リリーは膝をゆるめ、挟んでいたスカートを落とした。これで脚は隠れた。後はここを離れればいいだけだ。
恥ずかしくて声も出ないから頭だけ下げて離れます、ではこれで。という気持ちを全身で表現してくるりと背中を向ける。
「イタめたのは足ではなく、靴であろう?」
向けた背中に冷や水を浴びせられた心持ちで、リリーは棒立ちになった。




