お弟子さまのお父さま・1
宿で働き始めて一カ月。仕事に慣れて手際もよくなり、おかみさんに「これだけ働いてくれたら、宿代をもらうどころか、こっちが払わなくちゃいけない」と言われる頃。
思いがけないお客様が、宿の戸口に立った。
「お嬢さん、心配いたしましたよ」
旅装とは思えないほどきちんとしている紳士は、おじ様ロバートだった。
「おじ様!?」
一声叫んで、次が出てこない。なぜここに、と言うより、どうしてここが。予定していた道からは、壊れた橋のせいで外れてしまっている。リリーにしてみれば「よくぞ見つけてくれました」という気分だ。
「ご無事で良かった」
全身から安堵が伝わるのに、顔色は逆に悪くなったように見える。
「エリックがお嬢さんに懸想して、連れて逃げたかと――」
「ええっ!?」
女の子とは思えない大きな声が出た。さすがにそれはない。息子を信じないにもほどがある。
リリーの大声を聞きつけたらしいおかみさんが、奥から出てきた。
「中まで聞こえたよ。あんた、どっか品があると思ってたけど、お嬢さんだったんだねぇ。エリックもここにいるよ、ほら」
後ろからひょっこりと、エリックが顔を覗かせる。
「まずい」とリリーが思った瞬間、おじ様ロバートは、今までに見たことがないくらい険しい表情に変わった。
まだ何の説明もしていない。焦ったリリーが「ちがうの」と口走る。
「……とうさん?」
おずおずと問いながらエリックが小首を傾げると、ロバートの顔に朱が差した。
「この愚息が!お前は何をしている。主家にこれほどの御迷惑をおかけしておきながら、その腑抜けた面は何ごとだ!」
怒気をこれ以上ないほどに含んだ地を這うような低音の叱責に、叱られていないリリーでさえ首を縮めた。
当人であるエリックは、と見ると、激しい瞬きを繰り返している。異様に呼吸が早く額に汗が浮く。
倒れるかもしれないとリリーが手を伸ばした時、頭をかかえるようにして、エリックがうずくまった。
「頭いたいの? 大丈夫?」
隣りにしゃがんで、顔をのぞく。ロバートは黙って見下ろすのみ。本気で腹を立てているのだ。
「お願い、おじ様。叱らないで。エリックが悪いんじゃないの」
悪いのはキノコだ。
エリックの背中をさすりながら、いきさつを説明する。リリーの言葉の足りないところは、おかみさんが補ってくれて、ようやく伝わるくらいになった。
おじ様がいつもの落ち着きを取り戻したように見えるのは、おかみさんの手前そのように振る舞っているだけで、本当はまだ心底怒っているとリリーにはわかる。
「もう大丈夫」
さすらなくていいと、エリックがリリーを止めた。汗まみれでもどこかすっきりとした顔つきだ。
「父さん、先に顔を洗ってきていい?」
返答はない。顎がすっと動くのは「さっさと行け」。
「ちょっと失礼して」と軽く断りを入れるエリックは、ここに来てからの五歳のエリックではないと、おかみさんにも伝わったらしい。
「あんたも、育ちが良いとは思ったけど。立派な青年じゃないか」と言いながら、立ち上がったエリックの肩を叩く。
水場に向かうエリックの足取りは、とても確かなもので、リリーはほっと息を吐いた。




