思い出づくり・9
「ジャスパー、そこ」
言いかけたリリーの唇が柔らかくおさえられた。続く言葉を飲み込む。誰か近づいているのかもしれない。
自分の鼓動が耳につく。打ち合わせは不要だ。扉が引かれたら、ジャスパーがまず出る。その後ろから出て裏口を開け放つのは自分の仕事だ。考えていると、リリーの唇は自由を取り戻した。集中しても、やはり人の気配は感じ取れない。
またジャスパーが口を塞いだ。つままれるような感覚があって、これではまるで。
まるでキスしているようだと頭をよぎるけれど、そんなはずはない。
気がつけば唇には何もあたっていなかった。
「ジャスパー」
「なんですか」
「……何でもない」
ジャスパーの声音は平然としたものだ。という事は「キス」ではなく「静かに」だったのだろう。「今、キスしなかった?」なんて、聞けるわけがない。「そんな勘違いある?」と笑われたら、二度と顔向けできないほどに恥ずかしい。
「まだ時間にならない?」
リリーは質問を変えた。
時計なしで正確な時間が分るのは、ジャスパーの特技のひとつだ。体内時計と言われるものが、しっかりとしているのだろう。
昼寝をすると目が覚めた時に、夕だか朝だかわからなくなるリリーとは大違いだ。
「あと十分程で出れば、頃合いだと思います」
「こっちには来なかったわね、集団スリ」
「捕まったか、表から逃げ出したか。どちらにせよ、私達を追う余裕がなかったのでしょう」
それなら。
「隠れなくても良かったわね」
「結果論です。あの時点で出て寒いなかで身を潜めて待つと思えば、最善はここです」
リリーは鼻の頭にシワを寄せた。ジャスパーには見えない。
「臭かったけど」
「許容範囲です。不快な感触は消えましたか?」
またジャスパーの手が頬を包む。見えてるんじゃないかと疑いたくなるほどに、正確な位置だ。身長差を把握しているだけなのだろうけど。
「もう取れた」
別の場所に別の感触が強く残って前のが消えた、とは言えない。
出るのなら、そろそろ背中にのしかかる荷物を置き直してとお願いしないと。
「ジャスパー」
呼びかけたリリーの唇に、また何かが触れた。指の腹なのか、なんなのか見当がつかない。
「少し黙って」
ジャスパーが命ずる。そのままジャスパーの手が背中にまわる。抱かれる形だけれど、控えめながらカタコトと音がたつので、後ろの荷を動かしていると分かる。
でもまたこの唇に触れているのは、なに。舌を少し出してペロリと舐めてみた。さっぱり何か分からない。人は視覚に頼るところが大きく、触覚と味覚は案外鈍い(自分だけかもしれない)と実感しただけ。物音が止んでしばらく待つと、唇にあたるものも離れた。
「静かにして下さるのは結構ですが、悪戯はいただけませんね」
ジャスパーはどんな表情をしているのだろう。見られないのが、リリーはとても残念だった。




