薔薇の香りに虫はたかる・3
「坊ちゃま、今日は髪からいい匂いがしない」
すぐに気がついたらしいリリーが振り返る。
「動くな、髪を引っ張る。痛くすると泣くのだろうが」
背にまわり今日も櫛を片手に、リリーの髪を乾かしているエドモンドが咎めた。
「髪を引っ張られたくらいで、泣いたことないわ」
不服そうにリリーが唇を尖らせる。
その唇は濡れたように艶々だ。
先程リリーの唇が荒れているのを見つけた若き主人が、ロバートがパンケーキに添えるつもりで出した蜂蜜を塗ってやったからだ。
そしてロバートは見た。塗った直後にリリーが舐め取ってしまったのを。
そっと周囲を窺うリリーと目が合うと、本人も自覚はあるらしくバツの悪そうな顔をした。「メッでございますよ」小声で伝えるロバートに「えへへ」と笑う様子も子供らしい。
すぐさまエドモンドに見つかり再度塗りつけられ、唇がダメならこちらをとばかりに、エドモンドの指に残る蜂蜜を舐めて叱られていた。
甘い物は高価で、なかなか口に入らない。舐めたくなるのも当然だとロバートには思われる。
「髪から花の香りがすると虫がたかるからな」
何気なく口にするエドモンドに、わかりやすくリリーが驚いた。
「そうなの?」
振り返ろうとする頭を押さえ付けられている。
「動くなと言ったばかりなのに、もう忘れたのか。お前の頭は鳥並みだな」
「……ごめんなさい」
素直に謝るリリーとは違い、ロバートは思う。
「ヒヨコのバスローブなど着せて、お嬢さんに何という嫌味を言うのです」と。
無論いつもと同じく思うだけに留める。
「……鳥は頭が悪いの?」
「あれだけ簡単に罠にかかるところを見れば、良くはないだろう」
ほとんど乾いている髪をまだ丁寧に櫛けずりながら、エドモンドは無表情で返している。
「ふぅん。坊ちゃまは、良い匂いがしても虫はたからないの?」
エドモンドの手が止まった。後ろを振り返ることを禁止されたリリーは、自然にロバートを見る。
「坊ちゃまは、いつもお花の匂いがするわ」
大公家二男であるエドモンドは、大公家の習いで何に使う香りにも多少の薔薇を組み込んでいる。
リリーはその事を言っているのだろう、子供は鼻が利くものだ。
「坊ちゃまも集られていますよ。ですがそれほど害のある虫ではありませんので、坊ちゃまがお困りになる事はないのです。むしろ虫を虫除けとして利用なさる事もあるくらいで」
答えないエドモンドに代わり、ロバートが当たり障りのない返答をしておく。
若き主人が苦情めいた目を向けている気もするが、リリーの髪をときながらでは文句を言いにくいのを良い事に、ロバートは素知らぬふりを決め込んだ。
「眠くなったのなら、もたれて良い」
寝かしつけて有耶無耶にするのは、大人の常套手段だ。
もう半分目を閉じているリリーは、すっかり言われるがままになっている。
「坊ちゃまは、いい匂い」
呟くリリーにエドモンドが返す。
「お前は甘い匂いがする」
ロバートは口を出したくなった。
「それは蜂蜜の香りでございます」
言いはしないが。
今日はおやつの前に少し眠るらしい。パンケーキは後にしようとロバートは部屋を出た。
薔薇に蜂蜜。次の小菓子は薔薇の砂糖漬けを用意しようと思いながら。




