冬の入り口・4
坊ちゃまと過ごした午後が脳裏に浮かび、顔が熱くなる。
「薔薇の香り」と言われただけで「何をしていたのか」と聞かれたわけでもないのに、過剰反応だとリリーは自分を諫めた。
こんなに近くては胸のドキドキまで伝わってしまう。ジャスパーを盗み見れば、視線に気づいてこちらを見る。
「重いでしょう」
だから降ろして、と言いたい。
子供抱っこには慣れているけれど、横抱きは慣れない。これは顔が近すぎる。形のよい眉と肌の質感までわかるほどだ。
「羽根のようです」
「それはウソ」
断定できる。
「薔薇の香りは好きじゃないのに。ごめんなさい」
「いえ」
端的に答えて数秒の後、独り言のようにジャスパーが言う。
「薔薇の香りはあなたを連れ去り、離さない」
背筋がぞくりとした。ジャスパーの目の前で馬車に飛び乗った日をほのめかしているだけだと思うのに、整った顔立ちに凄みを感じるのは、どういうわけか。
もう部屋へ着く。ここまで誰にも逢わなかったのは、幸運だった。
「ねえ、ジャスパー。私があなたと仲良くしたいと思った理由を知ってる?」
切り出したリリーに、軽く首をひねるジャスパー。
「あなたの近くにいれば、安全だと思ったの。あなたの目の前で、分かりやすく嫌がらせをする人はいないと思ったから。下心だったの、ごめんなさい」
懺悔のようだと思った。さっきまで坊ちゃまといて、今はジャスパーに抱かれている自分からの。
「それは、謝る必要のない正しい判断です。知っていても、私はあなたといたと思います。たとえ今もそうだとしても、かまいません」
秀才と讃えられるジャスパーは、さすが心も広い。けれど。
「今は、そうじゃない。好きで一緒にいるの」
「カミラもスコットも?」
「そう、好きでお友達なの」
視線を一度天井に泳がせたジャスパーが、口調を改める。
「あなたの判断は常に正しく、間違える事がない。今後もあまり遠くへは行かないで下さい。あなたの安全のために」
安全は少し大げさ。そして私は間違えてばかりで、ここまで来ている。今だって長い目で見れば間違えている途中かもしれない。笑いたい気持ちを引っ込める。
「許してくれてありがとう、ジャスパー」
リリーはまず感謝して、続けた。
「人生って、いい時ばかりじゃないのですって。子供の頃に、大人が噂話をしながらよくそう言ってた。力がなくて泣き寝入りするしかないのも、しょっちゅう見たわ。だから私は大きな組織に入って守ってもらおうと考えての、軍部なの」
坊ちゃまには、こうは言っていない。
「でも、もしも軍部を出なくちゃいけないような何かがあって、誰にも頼れなかったら、ジャスパーに頼ってもいい? 迷惑をかけるのは確定だけど」




