金曜日のジャスパー
アイアゲートが見るからに高級な馬車に駆け寄り扉を開けるところを、階段の踊り場から偶然目にしたジャスパーは、急ぐでもなく出入口へと足を運んだ。
通りすがりにスコットと言葉を交わし、厩舎へと向かう。
出かけるにしては、彼女は大して荷物を持たないようだったが、と思いつつ庭へと出た。
アイアゲートは馬車の室内を覗きこみ、泣き笑いのような横顔をこちらへ見せていた。
横を通るのが厩舎へのいつもの通路ではあるが、会話を妨げるのは失礼だ。しばらく待つ事を選択したジャスパーは、そこで立ち止まった。
内容までは聞こえないが、珍しく焦れたような声音を出すアイアゲート。
つられるように呼び掛けた。「どうかしましたか」と。
聞こえているはずの彼女は顎をこころもち上げたままで、こちらを見ようとしない。
「アイアゲート?」
何か問題が起きたか。疑問に思い一歩踏み出すと、灰緑色の瞳がこちらを見た。
美しいと本人も自覚しているだろう見惚れるような笑顔。自然であればここまで整うはずもない完璧な笑顔に、わずかに気圧された。
その美しい顔で、月曜の朝には戻るなどと言う。
金曜の夜からどこでどう過ごすというのか。手荷物ひとつ持たずに。
彼女の両親は公都を離れ息子のいる地方で暮らしていると聞いた。そこへは行くだけで数日かかるはずだ。
「外出届けは出したのか」と咄嗟に尋ねると、事もなげに「出しておいて」と一言返し、茶目っ気のある目配せを寄越しざま座席にためらいなく飛び込んだ。
乗り込む直前に笑顔が削ぎ落とされ、こちらへ向いた冴え冴えとした瞳に浮かぶ覚悟めいた色は、馬車内にいる人物には見えなかっただろう。
馬車には男が乗っている。何の根拠もなく確信していたが、飛び込んだ彼女の肘を支える腕が目に入った。
濃紺の上着の袖口から真っ白いカフスがのぞき、男の手がアイアゲートをつかまえた。
本当に月曜日に戻るのか。あの手が捕らえたアイアゲートを還すことなどあるのか。
馭者は彼女の言葉で馬を出した。つまりは旧知の仲で、主人同様アイアゲートの指示に従う事に慣れていると考えていい。
状況の把握はしきれないが男に悪意はなく、彼女に危険がないと明らかである以上すべき事はない。
いつも機転が利き楽しげで付き合いやすいと評される彼女の知らない一面を引き出した男の白い袖口が、鮮烈な印象を残した。
馬で駆ける気が失せた。
ジャスパーは理由もなく鞭を一度しならせて、外出届けを出すために屋内へと引き返した。




