再会は金曜日・2
「坊ちゃま、ありがとう」
何の事だ、と手袋越しの指から伝わる。勿論くすぐられる事のお礼じゃない。
「坊ちゃまの配慮に気が付かないほど子供だと思った? ひよこだって大きくなるのよ」
焼け出された後に引き取ってくれた養父母。入学に合わせて始まった奨学金制度。危ない時に都合よく現れたペイジとモンク。たぶんカミラも。そして紅薔薇の貴公子のいう「兄の学友」オーツ先生は、坊ちゃまの御学友だ。
坊ちゃまエドモンドが手を回していると、気づかないはずはなかった。
入学してすぐに、保護者がアイアゲートの父母からおじ様に変更されて、エリックが来ているのだってそう。
そして坊ちゃまが異国へ留学しているとリリーが知ったのは、ずいぶん後入学してからのことだった。
子供の耳には上流階級の話題は入らない。
「坊ちゃまのおかげで私、生きてる」
「お前の物言いは相変わらず大げさだ。全てを救う事は出来ないしするつもりも無いが、お前ひとりなら何とでもなる。その程度のことだ」
なんでもないと、本心から言っている。それがどれほど有り難いことか。
「それでも――」
「リリー」
もうよせと言うように珍しく名を呼ぶエドモンドの声は抑制がきいているのに、甘さと苦さが混じってリリーの心を乱す。
「どうかしましたか、アイアゲート」
少し離れた校舎の入口から、いぶかしむような声がした。
エドモンドとリリーの視線が絡む。
「アイアゲート?」
聞こえていないと思ったらしく、先ほどより声が大きくなった。呼ぶ方を見れば、乗馬服姿のジャスパーがそこにいた。
「友達が呼んでいる。もう行け」
リリーが迷ったのは一瞬。大人らしく引こうとするエドモンドには、まだ言いたいことがある。
頬に手を添えたままなのに行けと言う坊ちゃまとは、今離れたらもう会えない気がする。
次の瞬間、自分から望んでの行動だと分かってもらう為に、リリーはジャスパーに向けてきゅっと口角を上げて笑顔を作った。
「ごめんなさい。私お出かけする。月曜日の朝には戻るから」
明るい声を放つと、エドモンドの驚いた気配がした。
ジャスパーも驚いたはずなのに、表情は変わらない。
「外出届けは出しましたか」
「いいえ。お願い、かわりに出しておいて。心配はいらないから」
親しみを込めて目配せすると、リリーは馬車のステップに足をかけ一気に室内に飛び込んだ。
後ろ手に扉を閉めるなり「出して」と馭者に叫ぶ。
本来なら主人であるエドモンドの命令を待つべきなのに、即座に馬車は動き出した。
飛び込んだ勢いのままに抱きついたエドモンドの上で、クスクスとリリーが笑う。
「お前は本当に――」
抱え直して言われても、嫌味にも聞こえない。
「いい香り」
エドモンドから懐かしい薔薇の香りがして、リリーはすり寄った。
「それは男に言う言葉ではない」
正しい指摘は聞こえないフリで目を閉じた。乗り際に見たジャスパーの唇の動きをなぞってみる。
「行くな」そう動いたか。いつも丁寧な言葉遣いの彼だから、それはない。
では「愚かな」字が余る。本当はなんと言ったのだろう。
「戻るなら今だ、リリー」
肩と腰に腕を回したままでエドモンドが囁く。湿度の低い声で紡ぐ言葉は退避を唆すのに、腕は「離す気はない」と告げている。
坊ちゃまのいない間に、いっそう読み取る力がついたみたい。もちろん、リリーはそんな事を正直に伝えたりしない。
「坊ちゃまこそ、戻すなら今よ」
アイアゲートになったから、過去とは区切りをつけた。という事にしてまた会ってもいいのだろうか。
それは坊ちゃまに決めてもらおう。
上目遣いにエドモンドの金茶の瞳を覗き込む。
黒いオニキスの瞳が頭をよぎったのは束の間。
「お前のする程度の事で、私が困るなど何一つない。好きにしろ。――危ないこと以外は」
つまらなそうに口にするのに、甘やかされていると感じる。
「戻らない」
懐かしい安心感にリリーは身を任せた。




