その災いは雪の日のこと
十一月の始めに積もるほど雪が降ることなんて、なかった。
雪の日に母のもとを客が訪れることも滅多になかったのに。
部屋を出ようとしたら「今日はジェニーと飲もうと思っただけだから、遠慮することないよ」と愛想良く客が言った。
少し迷ってやはり出よう思ったら「いればいいわ」と母さんまで引き留めた。それで出掛けにくくなった。
うたた寝をして、気がつくのが遅れた。
母さんの客の顔がすぐそこにあった。
「静かにしてれば痛いことはしない」とささやく。
坊ちゃまに習っていた。
「狙うのは目。どの生き物にも急所だ。目を狙うのが難しければ鼻でもいい。できれば手ではなく肘打ちにしろ」
さらに。
「男は『女は顔を殴ればおとなしくなる』と思っているものだ。だから顔は殴られると思え。そして、それで怯むな。何としてでも逃げ出せ。男が自分のベルトに手を掛ける時には隙が出来る。そこが最後の機会だ」
忘れるな一番大切なのはこれだ、と。
「何があっても、お前の価値が損なわれることはない。だから自分で自分を終わらせるような真似はするな」
言われた通りに、相手の顔を目掛けて手を突き出した。頬を引っ掻くだけにとどまり、客の怒りに火をつけた。
力任せに顔を殴られた。叫んだ。口を押さえられ喉を指で潰された。
酔って寝ていたはずの母さんが覚束無い足取りで来て、酒瓶を客の頭に振り下ろした。加減がなかったらしく、派手に瓶が割れて飲み残しの赤ワインが辺りに飛び散る。
客が唸り声を上げて床を転げ回った。
助けてくれた母さんが充血した眼で睨みつけて、大声を出す。
「人の客を盗るな。男を見境なく誘うな。お前なんて育てるんじゃなかった。二度と顔を見たくない、とっとと出ていけ」
足蹴にされた。喉を強く押されたせいで、うまく「ごめんなさい」が言えない。
母さんはひどく酔っていて、思ってもない事を言っている。
私が出て行ったら困るのは母さんだ。
年が明けて十三になったら、買ってくれる客はもう決まっていると嬉しそうにしていたのに。
「出ていけ」が本心であるはずがない。
だって私は「金になる」のに。
「とっとと出ていけ」とわめく母さんに蹴り出されるようにして、部屋を出た。
何かが壁にぶつかる音がし、母さんが客を罵る声がする。耳をふさいで階段をおりた。
靴に気がまわらなかったから裸足。
この冬最初の雪の上に座り込んで部屋を見上げる。
辺りはすっかり白い、雪化粧って言うんだったか。
引き倒す音、怒声、金切り声。
いくら寒くてもさすがに近所の人が様子を見に出て来た。
「リリーじゃないか。こんなところで、どうした」
「あれは、母さんか? 今日はまた凄いね」
酔って喧嘩して暴れていると思われている。
「何があった?」
口々に聞いてくれて、目が合ってすぐ息を飲む。
「顔、ジェニーに殴られたのかい? いくら何でもアンタ」
違う。と言いたくても、うまく声にならない。
誰かが部屋を指差す。
「火――、火が出てないか」
皆が見上げる先、まだ大きな物音は続いている。
誰もが目を凝らすなか。
「出てる! 火だっ」
窓の隙間から煙。
「おい誰か、様子見てこい!」
「水! 水! 」
騒然とする大人は、もう誰もこちらを向かない。
リリーはただ動かなかった。




