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Oh My Kitty!

作者: 宵宮祀花

 世界有数の大富豪、ジェラルド・リリーホワイトが亡くなった。

 遺産相続に関する遺言状を開封するため、リリーホワイト邸に集められたジェラルドの親類縁者たちは、弁護士の一挙手一投足を食い入るように見守っていた。

 九十五歳の大往生。息子四人に娘二人、妻は既に亡く、孫もひ孫もたくさんいて、臨終の際には大勢の人が取り囲んでいた。しかし、彼らが揃って集まったのは『臨終の際』だけだったことを、屋敷に長年務めているメイドはしっている。

 相続候補者たる子孫も何人かは既に事故や病気で亡くなっているのだが、それでも相当の人数が残っており、そして待ち侘びた遺産配分のために集まっていた。


「読み上げます」


 その一言で、部屋の空気が刃のように張り詰めた。


「遺産は全て、“私のキティ”に相続する。また、後見人はキティが認めた者に限定する」

「はぁ!?」


 静かに読み上げられた遺言の内容に、まず六十五歳の娘ダナエが声を上げた。

 間違いではないかと詰め寄るダナエを制し、弁護士は冷静に続ける。


「遺産相続に関する全ての決定権は、キティにあります」

「意味がわからないわ! 寄越しなさい!」


 弁護士に向けて伸ばされたダナエの手を、傍に控えていたSPが撥ね除けて睨み付ける。僅かにたじろいだものの、ダナエも他の相続候補者たちも納得いっていない様子で弁護士を睨んでいる。


「尚、決定を待たず遺言状に許可なく触れた者は、永久に相続権を剥奪する。とあります。また、決定後であれば公開しても構わないとありますので、信じられなければ決定後にご確認を」


 動揺が室内を満たし、不満の声がさざ波のように広がっていく。

 五十代から六十代の子供に、三十代前後の孫たち。いい年をした大人たちが、夏季休暇に課題を出されたティーンたちのように文句を口に乗せ始めた。


「どういうことなの? キティって猫よね? さっき庭にいた……」

「なんで、なんでおじい様が飼ってた猫なんかに! どうかしてるわ!」

「冗談じゃない! こっちは会社を建て直すのに、当てにしようと思っていたんだぞ!」

「なに考えてんのよ! あたし、此処のお金で新しいドレスがほしかったのに!」


 現金だけではない。遺言状の通りならば、ドレスも絵画も貴金属も屋敷も土地も、なにもかもが猫に与えられる。それらの価値など知りもしない獣などに。


「取り敢えず、その猫とやらをとっ捕まえた人が後見人なんでしょ!?」


 そう叫ぶと、孫娘のエリカが部屋を飛び出した。ドレスをほしがっていただけあり、今日の服も猫を追うには些か不便な、よそ行きの格好である。だが、それは他の後見人候補者たちも同様で、一着数百万のスーツや靴を当たり前に身につけている。


「お、俺たちも探すぞ!」


 一拍遅れて、他の一族たちもバタバタと外へ駆けていった。


「遺言状は私が所持しておきます。皆さんは仕事に戻ってください」

「はい」


 壁際に控えていたメイドと従者たちにそう言うと、弁護士の男はソファに腰掛けた。室内には、警護のために残ったSPが二人と執事の男が一人。

 部屋の外では、はしたなく駆け回る足音が無数に響いている。普段は疲れるだの足が痛むだのと言ってろくに歩きたがらない生粋のブルジョワたちが、外聞も忘れて駆け回っている。


「ねえ、そっちにはいた!? 隠し立てしたら許さないわよ!」

「いねえよ! お前こそ抜け駆けしてねえだろうな!」

「なによ! 意地汚いマクラーレンの男に言われたくないわね!」

「なんだと!? 底意地の悪いグリーンバリーが!」


 叔父、叔母、従兄弟に父母。家系図を追うだけでも目が回りそうな複数の家族が入り乱れては、一匹の猫を探して走り回る。元は同じリリーホワイト家だった一族が、互いの家を罵りながら。


「あーっ! 猫よ! 見つけたわ!」


 屋敷内を粗方巡った頃、ジェラルドの六番目の孫娘、グレタ・ボールドウィンが声を上げた。

 グレタの視線の先には、真っ白な毛並みに翡翠の瞳が綺麗な長毛種の猫がいた。首には銀の鈴をつけており、青いリボンが雪のような体に良く映えている。


「いたわ! 中庭よ! 中庭にいるわ、お母さま!」

「良くやった! そのまま追いかけなさい!」


 その声を聞きつけて、次男クリフと四男ニール、そしてその子供たちが中庭へと駆けつける。


「あっ……アンタたち、なんで来るのよ! 見つけたのはあたしよ!」

「五月蠅い! 捕まえたもん勝ちだろうが!」


 大人たちが大声で言い争うのを後目に、猫はするりと足元を駆け抜けて木に登り、ベランダから屋敷の中へと入ってしまった。

 そのことに数分遅れて気付いたクリフは、忌々しげに舌打ちをするとグレタを突き飛ばし、再び屋敷へと駆け戻っていった。そのあとをニールも追いかけ、邸内が騒がしくなる。


「なにすんのよ! 無礼者っ! 誰か! 誰かーっ!」


 尻餅をついたまま大声で喚き散らすグレタの元に駆けつける者はなく、誰もが遺産の源泉である猫を追いかけていた。誰よりも娘を案じる立場であるはずの、彼女の母親でさえも。


 小一時間ほど騒いで、追いかけて。

 普段から運動どころか歩くことすら滅多にしない上流階級の人々は、早々に疲れ始めていた。

 相手は身軽且つ小柄な猫で、追う側は数こそあるものの大半は中年以上の運動不足階級である。端から勝負になるはずもなく、苛立ちがピークに差し掛かっていた。


「クソッ……あの獣め……遺産を継いだら毛皮にして売り捌いてやる」


 ふらふらで邸内に戻ってきた一族の元に、執事が現れて一礼した。


「皆様。ご昼食の用意が整って御座います。よろしければ休憩も兼ねてお召し上がりください」


 黒い燕尾服に身を包んだ黒髪の男は、背に定規でも入れているかのような姿勢で一同を見据え、機械じみた声音で案内をする。


「酒はあるのか?」

「はい。ご希望の方にはお出しするよう仰せつかっております」


 アルコールに目が無い長男オズワルドが、真っ先にダイニングへ向かうと一番の上座へ座った。其処はジェラルドが生前腰掛けていた誕生席の真横で、まるで次の家主は自分だと言わんばかりの態度である。


「なんて図々しい。身の程を弁えたらどうなの?」

「何だと? 文句あんのか? 女の分際でこんなところにまでしゃしゃり出て来やがって。親父の遺産を継ぐのは長男の俺しかいねえだろうが」

「ちょっと兄貴、姉さんも、食事の席でまで言い争わないでくれよ」


 長男と長女アリソンのあいだで一触即発の空気となったとき、三男のサイラスが割って入った。


「ケッ、昔っからそうやっていい子ぶりやがって。どうせお前も腹ん中では自分が気に入られてるつもりでいたんだろ? 相続人に選ばれなくて残念だったなあ」

「やめてくれよ!」


 図星をつかれたサイラスが声を荒げるのを見て、オズワルドは愉快そうに笑ってエールを呷る。

 誰もが渋い表情で席に着き、何とも言えない空気のまま食事が始まった。


「おい、其処のメイド! 此処はワインも出ないのか!?」

「はっ……はい、ただいまお持ちします……!」


 ビクリと肩を跳ねさせ、深くお辞儀をするメイドに使用済の布巾を投げつけると、オズワルドは不満げに鼻を鳴らした。


「ふん、使えない女だ。屋敷を継いだら全員クビにしてやる」

「兄貴が継ぐわけじゃないけど、メイドの気が利かないのは同意だな。それに、シェフもお爺様が雇っていたにしては質が悪いんじゃないか?」

「此処で一緒に暮らしてたっていうひ孫とやらも全然挨拶に来ないし、どういうつもりかしら」

「遺産配分に興味がないならそれでいいじゃないか。籠ってる分には都合がいいだろう」


 テーブルマナーだけは完璧ながら、口から飛び出すのは不平不満と死者や身内への悪口という、最悪の食事会が終わると、相続人候補者たちは我先にと屋敷の中や外を走り始めた。

 万一メイドに捜索を命じて、そのメイドが猫を手にしてしまった場合、遺言状の文言通りならば相続権はメイドに渡ってしまう。ゆえにいつもは誰かに命じて結果を待つ立場の者たちは、必死に自らの足で駆け回る羽目になっているのだが。不慣れなことをしているからだろうか、既に疲れを見せて動きが鈍くなっていたり、半ば諦めて屋敷の酒に手を出す者も現れ始めた。

 髪を乱し、服の裾を翻し、ズボンの裾を汚して、必死に小さな猫を追い回す候補者たち。


 そんな中、屋敷の三階奥の子供部屋にて、一人の少女がベッドに腰掛けて小さな足を退屈そうに揺らしていた。ドタバタと走り回る音を聞きながら、薄く開いている窓のほうへと顔を向ける。

 年齢は十歳前後。緩く癖のついた長い金髪を背に流し、翡翠色の大きな瞳をぼんやりと窓の外へ投げ出している。その足元には皆がいま必死になって探している猫がおり、少女は哀しそうに目を伏せた。


「ねえ、ケイト。おじさまたちはいったいどうしてしまったのかしら」


 猫は軽やかな動きで膝に乗ると、丸くなって喉を鳴らし始めた。ふわふわの毛並みを撫で、再び窓の外に意識を向ける。

 少女からは見えないが、庭師が綺麗に整えていた薔薇の生垣も青々と茂った芝が綺麗な庭園も、すっかり踏み荒らされて無残な姿を晒していた。


 * * *


 郊外に建つリリーホワイト邸を見上げながら、感心の溜息を零す青年が一人。

 彼もまた遺産相続候補者の一人ではあるのだが、親戚一同から違う日時を教えられており、つい先ほど事情を把握して飛んできたところである。


「遺産はともかく、顛末くらいは知ってないと後々面倒だからなぁ……」


 多額の金が動くとき、周囲がどうなるかは、彼もリリーホワイトの人間としてよく知っている。やったやらないの大乱闘から裏の人間を雇っての危ない仕事まで、僅か二十二年のあいだに色々と見てきた。彼自身はリリーホワイト一族の男であること以外、特別地位があるわけでも自由になる大金を持っているわけでもないというのに、だ。

 特に彼は、優しそうな見た目と年若さゆえ下に見られることが多く、今回も危うく知らない間に相続放棄をさせられるところだった。


「なんか騒がしい……ような?」


 首を傾げつつ、玄関を抜ける。どうやら親戚たちは裏庭のほうを走り回っているらしく、表には誰もいない。


「あの、すみません」


 青年が偶然通りかかったメイドに声をかけると、メイドは「あら」と言って足を止めた。


「アシュリー坊ちゃま、お久しゅう御座います」

「お久しぶりです、アメリアさん。キャシー嬢はいまどちらに?」

「お嬢様でしたら、お部屋で寛いでおいでですわ。今日は、その……旦那様方がいらしているので私どもも手が回らなくて」


 なるほどと呟いてから、遠くに視線を送る。

 何処だ、あっちだと騒がしく、足音が忙しない。


「ところでこの騒ぎはいったい……?」

「私も詳しくは存じ上げないのです。リビングに弁護士の先生がいらっしゃいますから、そちらでお訊ねくださいな」

「わかった、行ってみるよ」


 それでは、とお辞儀をして忙しそうに去って行くメイドを見送り、アシュリーはまずリビングに入った。メイドの言葉通り弁護士と執事が居り、アシュリーに気付くと目礼をして立ち上がった。


「こんにちは。遅くなってすみません」

「いえ、お待ちしておりました。これで全員おそろいですね」


 弁護士に軽く頭を下げると、アシュリーははす向かいのソファに腰を下ろした。次いで弁護士も静かに腰掛け、ティーカップを手に取る。


「皆さん裏庭でなにか探しているようですが、なにがあったんです?」

「それはジェラルド様の遺言が原因でして……」


 弁護士は改めて遺言状を取り出すと、一族の前で読み上げた内容を繰り返した。アシュリーは、ふむと頷いてから、遠くを見る目で苦笑する。


「なるほど、それで皆さん猫を……でも、猫は気紛れに見えて繊細だから、あんなに大勢で騒いで追いかけたら気疲れしてしまいそうですね。見かけたら静かなところに匿っておきましょうか」

「……そうですね。そうしてあげてください」

「では、私はキャシー嬢にご挨拶をしてきます」


 そう言い添えて立ち上がり、リビングを出て階段を上がる。目指すは三階奥にある子供部屋だ。

 部屋の前まで来ると、アシュリーは扉を二回ノックした。


「こんにちは。お久しぶりです、ミス・キャスリーン」


 扉越しに声をかけると、暫くして薄く開かれた。ドアノブとほぼ同じ高さの身長で、懸命に扉を支えている姿を見、アシュリーは一言断りを入れてから代わりに扉を支えた。


「ご機嫌よう、アシュリー。如何なさったの?」

「此方にはお爺様の件で伺ったのだけど、皆忙しなくしているようだから、挨拶だけでもと思って来たんだ。此処へは、お爺様の葬儀以来かな」

「ええ。……良かったら入って」

「いいのかい? レディのお部屋にお邪魔してしまって」


 アシュリーがそう言うと、キャシーは少し考えてから頷き、手招きをした。部屋に入り後ろ手に扉を閉めてからキャシーの背に合わせて腰を屈めると、耳打ちの姿勢になって囁く。


「あなたは特別」


 そう言うとキャシーはふわりとスカートを翻して部屋の奥へと駆けていき、ベッドに腰掛けた。先ほどまで膝にいた猫は何処かに隠れているらしく、見える範囲にはいない。


「わたしのところへ挨拶に来たの、アシュリーが初めてだもの」

「えっ」


 驚いて目を丸くするアシュリーに、キャシーはぽつりぽつりと続ける。


「皆、ケイトを追いかけているみたいなの。いったいどうしたっていうのかしら」

「うーん……何でも、お爺様が遺言状にケイトのことを書いたみたいでね」

「ケイトを?」


 アシュリーは肩を竦め、僕もなにが何だかと言って、キャシーの正面にしゃがんだ。


「それにしても、こう騒がしいんじゃ、ケイトが参ってしまっていないか心配だな」

「それは大丈夫だと思うわ。さっきもわたしのベッドで寛いでいたもの」

「そうだったのかい。それじゃあ、突然来て悪いことをしたかな……」


 俯くアシュリーの頬に、ぺたりと小さな手のひらが触れた。

 顔を上げると、キャシーがアシュリーを慰めるように撫でていて、思わず笑みがこぼれた。


「ありがとう、キャシー。ところで、君はどうして部屋に?」

「今日は皆、忙しいでしょう? わたしはまだ一人で外を歩けないから、仕方ないのよ」


 メイドが言っていたのは、ただ単に面倒を見る余裕がないという意味ではなく、キャシーの伴をすることが出来ないという意味でもあったのだ。

 仕方ないと言うキャシーの表情が寂しそうに見えたアシュリーは、キャシーの小さな手のひらにそっと触れて顔を見上げた。


「僕で良ければエスコートするよ。裏庭は何だか騒がしいから、西側のテラスかサンルーム辺りでお話でもどうかな」

「いいの?」


 顔を上げたキャシーの表情が、期待に輝いている。

 アシュリーは殊の外やわらかい声音で「もちろん」と答えると、キャシーの手の甲を撫でた。


「さあ、お手をどうぞ、お姫様」

「ふふっ、ありがとう」


 キャシーは飛び跳ねるように立ち上がり、アシュリーの手を握り返して共に部屋を出た。それを見送ってから、ベッドの下に隠れていた猫が窓の隙間から外へ出て行った。


 廊下に出ると階下の騒ぎがいっそう良く聞こえてきて、キャシーは思わずアシュリーに寄り添う格好で縋り付いた。足音だけでなく罵声も辺り構わず響いており、幼いとはいえ言葉もわからない年齢ではないキャシーは、すっかり怯えてしまっている。


「こんな状態が続いたんじゃ、ケイトも君も気が休まらないね。どうしたものかな……」

「アシュリー……ありがとう」


 屋敷の西側テラスは、正面の庭園ほどではないにせよ、手入れされた薔薇の生垣や丁寧に手入れされた花壇が一望出来る場所である。いまの季節はリリーホワイトの名に因んで植えられた百合が咲いているはずで、アシュリーもそれを楽しみにしてきたのだが。


「これは……」


 西側テラスに出たアシュリーは、言葉を失って立ち尽くした。

 花をつけているはずの花壇は踏み荒らされ、薔薇の生垣は乱暴にかき分けたあとが無数にある。泥まみれの足跡が其処ら中を埋め尽くしており、その足跡は泥汚れを纏ったまま屋敷の中へ続いている。あまりにもひどい有様で、言葉にするのも憚られた。


「アシュリー、どうしたの?」

「……すまない、キャシー。僕もどう説明したらいいのか……」


 一先ずキャシーをテラスのカフェテーブルまでエスコートし、椅子を引いて座らせた。

 改めて庭園を見渡してみても現実が変わるはずもなく。アシュリーは言いづらそうにしながらも庭園の有様をキャシーに伝えた。


「そんな……おじいさまの百合が……」


 美しい翡翠の瞳から、はらはらと涙が落ちる。屋敷も庭園も、彼女にとっては思い出が詰まった場所だ。特に花壇の百合は、ジェラルドが健在だったころ一緒に植えた大切な花だ。

 幼いレディを泣かせてでも、美しい庭園を踏み荒らしてでも手に入れたい遺産とは何なのか。

 アシュリーはハンカチを取り出すと、キャシーの頬にそっと触れた。


「キャシー、涙を拭いて。探せばもしかしたら無事な花があるかも知れない。騒ぎが落ち着いたら庭師を呼んで一緒に探してみるよ」

「ほんとう……?」


 朝露に濡れた花弁の如き滑らかな薄紅色の頬と、大粒の翡翠がアシュリーに向けられる。正面に座っていても、名前を呼んで言葉を交わしても、決して彼女と視線が合うことはない。

 こんなことをいうべきではないと思いつつも、アシュリーはいまこのときばかりは、キャシーの目が見えないことに感謝した。優しい彼女の目に触れるには、あんまりな光景だから。


「ああ。生垣のほうは、根っこまで抜かれたわけではなさそうだから、きっと来年にはまた綺麗な花を咲かせてくれるはずさ。そうしたら今度こそ花の傍でお茶会をしよう」

「……ええ、そうね。ありがとう、アシュリー」


 涙に濡れた瞳を和らげて、キャシーが淡く微笑んだときだった。


「退けッ!!」

「きゃあ!」


 アシュリーの目の前に白い小さな塊が飛んできたかと思えば、屋敷の外を回って駆け込んできたオズワルドの息子ランドルフが、キャシーを引き倒した。デッキの上に倒れたキャシーに構わず、髪を踏みつけたままアシュリーからなにかを引き剥がした。


「ふぎゃっ!」

「やめてください!」


 悲痛な声で漸くなにが起きたか理解したアシュリーは、立ち上がってランドルフに叫ぶ。だが、彼は追い回す人々から逃げ回っていた猫を乱暴に掴み上げ、高らかに笑う。


「はははっ! これで遺産は俺のものだ!!」


 片手で猫の首根っこを掴み、まるで戦利品を見せびらかすかの如く高く掲げて笑う。その足元、靴の下には、デッキに散ったキャシーの長い髪がある。頭を抱え、涙の滲んだ目をぎゅっと瞑って耐えているキャシーを見た瞬間、アシュリーは全身の血が逆流するかのような感覚に襲われた。


「……ッ、いい加減にしてください!!」


 アシュリーはランドルフを押しのけると、優しくキャシーを助け起こした。血液が沸騰しそうな怒りを覚えている片隅で、自分もこんなに大きな声が出るのかと変に冷静な感想を抱いてもいる。押しのけられたランドルフは舌打ちをしてアシュリーに言い返そうとするが、自分の手の中にあるものを改めて認めると、勝ち誇った顔で「まあいい」と吐き捨てた。


「あっ! アイツよ!」


 幾許もなく、ランドルフの高笑いとアシュリーの大声で気付いた他の候補者たちが、バタバタと集まってきた。そしてランドルフの手に猫が捕えられているとわかるや、目の色を変えて奪おうと掴みかかる。

 其処からは、最早地獄の様相。細い慈悲の糸を巡って争う亡者の如き有様で。


「やめろ! これは俺のものだ! 俺の遺産だ!!」

「冗談じゃないわ! アンタなんかに渡したら、あっという間に無くなっちゃうじゃない!」

「ギャンブル狂いのジジイは引っ込んでなさいよ!」

「色ボケババアもお呼びじゃないんだよ!」

「この業突張りのクソババア! 香水臭ぇから近寄んじゃねえ!!」

「キィィッ! なんですってえ!?」


 勢い余って放り出された猫を余所に、つかみ合っては髪を引っ張り、頬をつねり、爪を立てては罵り合い始めた。素早い猫を追うよりも先に、ライバルを蹴落とそうという算段だろう。

 キャシーを抱えて一先ずテラスから庭園へと逃げ、生垣の根元にしゃがんで顛末を見守っていたアシュリーの元に、猫のケイトが音もなく忍び寄る。ケイトは身を寄せ合っている二人のあいだに滑り込むと、小さく一声鳴いた。

 そのとき。


「――――テオ!」


 キャシーが大声で叫ぶと、リィンとハンドベルの音がなった。

 もみ合っていた一族が、ハッとして音のしたほうを見る。テラスから邸内へと通じる窓の前に、黒い燕尾服姿の男が静かに佇んでいた。ハンドベルを鳴らしたのはその男で、リリーホワイト邸で執事をしている人物だ。その横には弁護士も居り、手には遺言状がある。


「後見人が決まりました。以降は全て、後見人と相続人の意志に委ねられます」


 弁護士がそう言うと、ランドルフが笑い声をあげた。が、その笑いはすぐに曇ることとなる。


「後見人、アシュリー・オルセン。相続人、キティ――改め、キャスリーン・リリーホワイト」


 バッと布が翻る音を立てて、一斉に候補者たちがキャシーを振り返る。

 荒れ果てた庭園の、無残な生垣の傍で蹲る少女。彼女こそが、リリーホワイト氏が遺産を託したキティこと、キャスリーンだった。

 キャシーはアシュリーの手を借りて立ち上がると、スカートの裾を払って優雅に一礼した。


「わたしが、おじいさまより全てを任されていた、おじいさまのキティですわ」


 ざわめきが、動揺が広がる。

 特に先ほど彼女を引き倒して髪を踏みつけたランドルフに至っては、顔面蒼白の有様だ。


「お、おいアンタ! あの子供の言ってることは本当なのか!?」

「はい」


 オズワルドが弁護士に詰め寄ると、弁護士は静かに肯定した。そして遺言状の二枚目を開くと、皆に向けて読み上げた。


「私のキティ。改め、我が娘、キャスリーン・リリーホワイトが認めた者にのみ、後見人の権利を与える」

「娘だと……?」

「ええ。ジェラルド氏が三十二歳の頃に残された精子バンクの精子と、ある女性のあいだに出来た正真正銘の実子でいらっしゃいます」


 聞いていない、知らなかったと口々に言う一同を、キャシーが見えない目で見回す。


「アシュリーはどうだったかしら」

「え、ええ。キャシー嬢がお爺様の娘だということは知っていました。ただ、体面を気にされて、ひ孫ということになさっていただけで……戸籍の上でも血縁関係でも、確かにお嬢さんです。僕は直接お爺様から聞きましたし、キャシー嬢も把握していることです」


 アシュリーの答えに満足げな顔で頷くと、キャシーはろくに顔を合わせたこともない親戚たちをぐるりと見回した。盲目であるはずの幼い目に射竦められた大人たちが、僅かにたじろぐ。


「おじいさまがわたしに全てを託された理由は、わたしが子供で、盲目だからです。侮られやすい人間って、目が見えなくても人の本性がよく見えるものなのですわ」


 キャシーの言葉は、アシュリーにも覚えがあった。

 一族の大人の中で一番若く、見目が優しげで、実際に優しい性格をしているがゆえに割を食ったことが何度かあった。キャシーも幼い身に様々な理不尽を浴びてきたのだろう。とはいえ髪を靴で踏まれるようなひどい目には、二度も遭っていないと願いたいが。


「おじいさまに代わって申し上げます。皆様、すぐに出て行って。そして、二度とリリーホワイト邸の門を潜らないで頂戴」


 キャシーがそう宣言すると、散々暴れ回った大人たちをSPが屋敷の外へと追い出した。何人か渋った者もいたが、弁護士の「不退去罪で訴えられても良いならどうぞ」の一言で引き下がった。ただ、去り際にアシュリーを睨むことだけは忘れなかった。

 屋敷が半日ぶりに静寂を取り戻し、キャシーもアシュリーも、それから弁護士やメイドたちも、ホッと胸をなで下ろした。特に若いメイドは通りがかりに突き飛ばされたり髪を引っ張られたり、階段から落とされそうになった者もいたりで、心底安堵している。


「……ああ、思い出した」


 部屋へと戻る途中、アシュリーが突然声を上げて足を止めた。手を繋いでいたキャシーもそれにつられて足を止め、傍らのアシュリーを振り仰ぐ。


「キャシーは確か、お爺様に『私のキティ』って呼ばれていたんだっけ」

「まあ、アシュリーったら。いま思い出したの?」

「ごめん。屋敷に着いたら騒がしいし、君のことも心配で頭が回っていなかったみたいだ」


 くすくす笑いながら歩き出したキャシーに手を引かれ、アシュリーも歩き出す。

 屋敷のあちこちでメイドたちが忙しなく働いており、何処からか庭師を手配する声も聞こえる。散々に荒らされた庭が元通りになるには、それなりの月日がいるだろう。特に裏庭は荒れ放題で、廃墟と見紛う有様だった。

 部屋に入り、窓辺のテーブルにキャシーを導いて座らせると、アシュリーも正面の椅子に座ってそっと息を吐いた。あの騒ぎが一昼夜続いたりせずに良かったという安堵と、それから。


「……キャシー、怖い思いをさせてすまなかったね」


 キャシーを外に連れ出したせいでつらい目に遭わせてしまったという、後悔。

 テーブルの上で手を組み、ぎゅっと握り締める。キャシーの小さな体が大の男の足元に転がっているのを見たとき、アシュリーの心を埋め尽くしたのは紛れもない怒りだった。目の前が真っ赤に染まるとはこういうことなのかと、理屈でなく理解してしまった。あれほど恐ろしい激情が自分の中にもあるだなんて、知りたくなかった。

 骨が軋みそうなほど握り締められた拳に、キャシーの手が触れる。


「どうしてアシュリーが謝るの? あなたはわたしを気遣ってくれただけだわ」


 彷徨いながらも伸ばされた手の温かさに、アシュリーのささくれだった心がとけていく。


「ありがとう。でも……」

「いいの。もう終わったことよ。そして、終わらせるにはきっかけが必要だったの」


 それにね、と言ってキャシーは綺麗に笑って見せて。


「あのままケイトが怪我をしてしまわなくて良かった……そう思わない?」

「あ……」


 泣きそうな微笑に、アシュリーは彼女が抱えていた恐怖を理解した。大人たちが寄ってたかってケイトを追い回していると知って、どれほど心配だっただろう。

 ランドルフに掴み上げられたとき、彼女はケイトの悲鳴だけを聞いた。助けに行きたくとも髪を踏みつけられていて、動けないというのに無数の足音が近付いてきて、どれほど怖かっただろう。


「そうだね。猫だって人の気持ちや言葉を察することが出来るんだ。ずっと怖かっただろうに」

「その分、これからたくさん甘やかしてあげましょう」


 噂をすればなんとやら。

 窓の隙間からするりと鈴の音が入り込んできて、アシュリーの膝で丸くなった。


「ケイト?」

「ふふっ。ケイトもアシュリーのことが気に入ったみたいね」


 音の流れとアシュリーの反応で察したキャシーが、うれしそうにくすくす笑う。


「もちろん、わたしもよ、アシュリー」

「えっ……」


 突然の告白に驚き、思わずまじまじとキャシーの顔を見てしまい、慌てて顔を背けた。相手から見えていないとわかっていても、真っ赤になった顔を隠したくなる。

 キャシーの笑みが、悪戯が成功したと言わんばかりの楽しげなものだったから。


「キャシー、君はいつからそんな言い回しを覚えたんだい」

「クラスメイトのブレンダが言っていたの。レディは殿方を手のひらで扱えてこそだって」

「まあ……そういうタイプのお嬢さんもいるかも知れないけれどね」


 とんでもないことを吹き込んでくれたと、内心で顔も知らないキャシーの学友に恨み言を零す。

 アシュリーは一つ咳払いをすると、気を落ち着けるために膝上で眠るケイトを撫でた。暫くして喉を鳴らす音が聞こえてきて、火照っていた頬が徐々に鎮まるのを感じる。


「僕はどちらかというと、素直なほうが好きかな。駆け引きは苦手なんだ」

「なら、やめておくわ。後見人さんとは仲良くしていたいもの」


 顔を見合わせて笑い合い、テーブルの上で手を握る。

 アシュリーの手の中に収まるほど小さなキャシーの手が、いつもより僅かに熱っぽいことにも、いまは気付かないふりで。

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