主人公不在の世界で
小説の執筆を趣味とする青年、有馬清史郎は、突如かつて自分が作り上げた物語の世界に放り込まれる。当初から危機に見舞われるも、なんとか脱した彼は、自身が愛したキャラクターに会えると期待を膨らます。しかし最重要人物である主人公は既に亡き人となっていた。
物語の行く末を案じた清史郎は、主人公の代わりとなる人物とすべく、彼の盟友へと会いに行く。その傍らには、本来主人公と行動を共にする少女が付き従っていた。
盟友に会うことが叶った清史郎であったが、協力を得るために正体を明かしたことで、民の苦しみを生んだ元凶と批難される。その言葉に、自身がいまだこの世界に対して他人事であった事を気付かされ、自ら命を賭けることを決める。
作者としての知識を使った決死の潜入により民草を苦しめる大領主の悪事を掴んだ清史郎は、それを帝へと上奏し、見事創造主としての責務を果たしたのであった。
暖かな陽射しが、それを照らしていた。
木造家屋の裏にある菜園。その片隅に少し大きめの石が置かれている。川辺に転がっているような、何の変哲もない石だが、手前に供えられた野花によってそれが墓標である事を示していた。
「これが……?」
「はい……」
喉から出た声は、背後で応えてくれた老人のものよりか細かった。陽に照らされた石に手を伸ばす。表面は微かに温かかったが、触れ続けるうちにその熱は失われていった。
死んではならない者が死んだ。その事実を理解したとき、私、有馬清史郎は男にあるまじき嗚咽を抑えることが出来なかった。
◇
最初に目覚めたのは薄暗い森の中だった。
――ああ、夢か
昨夜は自宅で眠りについたことから、私は夢を見ていると思い込んでいた。周囲を見渡しても誰もいない。白の寝間着姿はそのままだったが、気温が明らかにおかしかった。冬の寒さに備えて着ていた起毛の上下では、微かに汗ばむほどの暖かさだ。
妙な夢だが、醒める気配は無い。仕方なく木々の合間から差し込む星明かりを頼りに森を進むと、まもなくひらけた場所に出た。
そこには、泉が澄んだ水を湛えていた。やわらかな星の光でも底が見えそうなほど透明度が高い。浅瀬にそっと足首を浸らせると、心地よい冷たさが伝わる。明敏な感覚に驚きつつも、その時の私は夢を楽しんでいた。
水から上がり、ごろりと草むらに横になって空を見る。東京では見ることの出来ない程の美しい星空だったが、その時初めて、私は違和感を覚え始めた。
――月は、どこだ?
空には月を隠すような雲は無い。おかしな点はそれだけでは無かった。輝く星々も、見覚えの無い位置にあるものばかりだった。
「夢、なんだよな……?」
身を起こし、自分に言い聞かせるように呟く。しかしそれをあざ笑うかのように、がさりと、何かをかき分けるような音が背後から聞こえた。
振り返ると、森のくらがりから黒い影がずるりと抜け出ていた。
薄汚れた毛並みをした野犬だ。中型犬程度の大きさだが、今まで目にしてきたペットの犬などとは全く異なる生き物に見えた。鋭い目つきはこちらをまっすぐに捉え、その剥き出しの牙からは、唾液がしたたり落ちている。その脚が進むたび、荒い息が徐々に大きくなっていった。
――逃げなければ。
頭は警鐘をかき鳴らしていたが、身体は思うように動いてくれなかった。まごついているうちにも近づいてきた野犬が、一メートル程の距離でぴたりと止まる。そして、ぐんと身をかがめた。
「しまっ」
咄嗟に反応出来たのは奇跡としか言い様がなかった。驚くほどの跳躍を見せた野犬が、首筋に噛みつこうとしたのだ。その試みは反射的に突き出された右腕に遮られ、しかしその代償に腕には深々と牙が突き立てられていた。
「ぐ、がぁぁぁっ」
赤熱した鉄が触れたような激痛に、否応なく叫びがほとばしる。がむしゃらに腕を振るってようやく牙が抜けた時には、寝間着の右腕部分は鮮血に染まっていた。
目覚めるどころか気絶しかねない痛みを受けたことで、最早夢ではない事は明白だった。混乱する思考の中、離れた場所に放られた野犬が再び身を起こす。
――さっきと同じではダメだ。
仮に何度か腕で防げたとしても、やがて血を失って崩れ落ちるだろう。俊敏な犬相手に森の中を逃げられようはずも無かった。
――なにか、使えるものは。
視線を周囲に配りながら後ずさっていると、足首に水が触れた。泉の淵まで追い詰められていたのだ。だが、その水が脳内にひらめきをもたらしてくれた。
野犬が、再びにじり寄ってくる。それに対して私はだらりと両腕を下げたまま少し後ろに下がった。
繰り返される跳躍。それに対して今度は意図的に右腕を差し出した。
「捕まえたぞ」
腕を咬み砕かんばかりに食らい付いた野犬を、空いた左腕で更に上から締め上げる。そしてくるりと向きを変え、泉の中央へと身を投げた。
泉は、野犬の身体を沈ませるには十分な水深があった。水中に押しつけられ、自身が罠に嵌められた事に気付いたのか。半狂乱に暴れ始める。だが、水で俊敏さを失った野犬に、体重差を覆す手段はなかった。
腕を咬む力が、段々と弱まっていく。そして数分後、牙から完全に力が失われた。
「……やった」
そう安堵するも、辛うじて勝利した私も悲惨な状況だった。二度も咬ませた右腕には痛々しい跡が残り、今なお血を流している。他の部分も無傷とは言えず、ひっかき傷が至る所に付けられていた。
身を引きずるようにして泉から上がった私は、止血も出来ない程に疲れ切っていた。べしゃりと、うつぶせに倒れ込む。そこまでが、今できる精一杯だった。
「ああ……」
しかし、偶然目を上げたその先に光る双眸を見つけ、私は絶望の吐息をもらした。野犬が、もう一体現れたのだ。
こちらが満身創痍な事を知ってか、一回り大きな野犬は悠然と近づいてくる。そしてその牙が剥き出しになったその時、風を切るような鋭い音が走り、悲鳴と共にその頭が大きく揺らいだ。
どさりと近くに倒れた音を耳にしながら、私も意識を手放した。
◇
「お目覚めですかな」
再びの覚醒は、見知らぬ部屋の中だった。傍らには、顔に深い皺が刻まれた老人が椅子に腰掛けている。
「貴方は……っ痛」
「どうかそのままに。手当は終わりましたが、傷はまだ塞がってはおりません」
起き上がろうとすると老人は私の肩にそっと手をやり、再び横にさせられた。どうやらこの人物に助けられたようだった。
「ありがとう、ございます」
「いえ、礼は孫が戻りましたら言ってあげて下さい。お助けしたのはあの子ですから」
「そうでしたか……ですが、貴方もこうして手当をして下さった。ありがとうございます」
そういって横になりながら頭を下げると、老人は優しげな笑みを浮かべた。
食事の準備をしてくると老人が席を立った後、周囲を見渡す余裕が出来た。寝かされていたのは小さな部屋で、寝室のようであった。ログハウスのように見えるが、天井に明かりがない、そして、少し空けられた窓にはガラスはなく、観音開きの板が付いているようだった。それらの様相はまるで違う時代にいるかのような、不思議な印象を抱かせた。
「ただいまー」
周囲を観察していると、簡素な扉越しに声が届いた。若い女性の声だ。老人の言っていた孫が戻ってきたのだろう。何か老人と話していたかと思うと、軽快な足音がこちらに近づいてくる。
扉が開かれ、彼女の顔が見えた。その瞬間、私は信じられない気持ちにさせられた。
彼女の顔は、よく、誰よりもよく知っている顔であった。
◇
「改めまして、助けて頂きありがとうございました。志平殿。……そして奈津さん」
固めの寝台から身を起こし、側に座る二人に礼を言う。両者共に微笑みを浮かべ、無事を喜んでくれていた。
「特に貴女にはお世話になりました。野犬を撃退し、ここまで連れてきて下さった事、感謝の言葉もございません」
「い、いえっ! そんなに頭を下げられる事ではっ」
謙遜する奈津が大きく首を横に振る。黒く美しい髪がさらりと揺れた。
「いいえ。貴女は命の恩人です。悲鳴を聞きつけ、わざわざ助けて下さったのですから。そうでなければ、私はあそこで死んでいたでしょう。貴女は皇国一の烈女だ」
重ねて礼を言うと、恥じらいに白い頬を赤く染める。その何もかもが、私が思い描いていた姿だった。
私には、一つの趣味がある。小説の執筆だ。かつて自分が理想とするような主人公が国を救うという物語『皇国再興紀』を書いた事があり、その相方となるヒロインの名前は奈津といった。
――信じがたい事だが
どうやら自身の書いた物語に迷い込んだようであった。それも、主人公がヒロインと会う始まりの地である。
――だとしたら、主人公にも会えるのではないか
そんな期待が胸にわき上がる。主人公は自分がかくありたいという理想の人物だ。名前も清『志』郎というものにした。勇敢でありながら公平で、義心にも富んでいる。いま私がいる皇国北方領は、領主による収奪で民が塗炭の苦しみを味わっていた。それを救うために立ち上がったのが彼なのだ。
――だが、まだここには来ていないらしい
かつて国家の重鎮であった志平翁を捜し当て、その薫陶を受ける、そして彼を見込んだ志平は奈津を付け、救国の旅へと同行させるのだ。
奈津がいるとなると、まだ物語は始まっていないはずだ。
「つかぬ事をお伺いしますが、私以外に青年が訪ねては来なかったでしょうか」
それでも気が急いてそう訪ねたとき、二人の顔が翳った。その表情はなぜか私に言いしれぬ不安を感じさせた。
◇
「亡骸を見つけたのも奈津でした」
墓石の前で涙を流し続ける私の肩に、志平の手が慰めるように乗せられた。
「ですから貴方の悲鳴が聞こえたときに飛び出していったのです。彼の様に手遅れにならないように」
言葉を返す余裕は無かった。先ほどまでの浮かれた気持ちは消え、ただ寒々しい風が心に吹き荒れていた。
彼は、清志郎はすぐ近くまで来ていたのだ。救国の大志を抱き。だが何の因果か彼の道はそこで閉ざされてしまった。私と同じ、獣に襲われるという悲劇を以て。
呆然と空を仰ぐ。昨夜に続いて雲一つない晴天だが、私には国を覆う暗雲が立ちこめているように見えた。
私は、突如として迷い込んだのだ。私が作り上げ、最も愛した人物がいない世界。主人公不在の世界に。