僕の彼女はマスクが似合う
「小宅くんはマスクを外した私のこと、本当に好き?」
なんたらという感染症が流行してから、世の中マスクをしていないのなんて、アニメの中くらいのものだ。
アニメを見るたびに、マスクを着けずに自由に過ごすキャラクター達をうらやむ小宅くんには、なぜだか美人の彼女がいた。出会ったときからマスクをつけていて、本音をなかなか見せない彼女。橘さん。
小宅くんは半年近くたってようやく、彼女を自宅に呼ぶことに成功するのだが。
彼の部屋にはなぜか、彼の愛するアニメキャラクターである、結川さんが顕現していた。
二次元の嫁と三次元の嫁は両立できるのか。避けようのない修羅場に放り込まれた、ちょっぴしイタいオタクくんのラブコメ。
マスクのない生活に憧れる。マスク美人なんて言葉もあるけれど、やはり僕は、マスクがなくても美人な方がよっぽど良いと思う。冬の厳しい寒さの中、不織布に覆われた口元だけが生暖かい。
冬の早朝、住宅街の間を縫った通学路を見渡す。誰もいないことを確認してから、僕はマフラーを緩め、マスクを外して、中の空気を入れ替える。そろそろ、マスクの内側に結露がつく季節かもしれない。憂鬱だ。
それこそ、もう少し通学時間を遅くするだけで、多少はマシになる。僕の寝ぼけ眼にすっと切り込んでくる朝の太陽さんがもう少しでも高くなっていれば、ちょっとはぽかぽかもするだろう。高校生が部活もないのに、朝の六時に登校する道理はない。
だけれども、僕はあくびを噛み殺して、この時間に登校する。待ち合わせがあるからだ。
細い路地を抜けて、忙しなく車の行き交う幹線道路へ出る。道路を挟んで向かいのコンビニの駐車場には、すでに人影があった。学校指定の、紺色のピーコート。心が急いて、横断歩道のおんぼろなボタンをぐっと押し込んだ。
すぐに信号は青になり、向こうもこちらに気づいた様子。こちらへ振り返って、手を振ってくる。
「あ、小宅っち! おはよう侍!」
「……」
「うそ、無視するの?!」
「侍なんだろ? 斬捨御免だ」
「――おおっ! そういうことね!」
小柄な体でひょこひょこ動いて、おさげにした髪の先がぴょんぴょん揺れる。朝っぱらから謎の元気を引っ張り出してくる宇宙人、僕の幼馴染たる柊明日葉だ。彼女のテンションに合わせて大きな声を出す気力はなかったので、適当に適当を言ったのだが、うまく誤魔化されてくれたらしい。
一応、「おはよう」と挨拶だけ返しておいてから、僕はもう一人に声をかけた。
「おはよう、橘さん」
「おはよう、小宅くん」
デニールの高い黒タイツに包まれた膝をぴっちり合わせて、車止めのブロックに腰掛けていた彼女。僕の挨拶に応じて立ち上がり、制服のスカートをぽんぽんと払う。
僕の目線の高さになったショートボブは、冬の日差しにすかすと、わずかに茶色っぽいことがわかって。マスクの上から覗く猫のように優美な瞳が僕を捉えていた。
「マフラー」
「――え?」
「マフラー、緩んでる」
言われて、僕は首元に手をやった。そういえば、汗ばんだ首筋に冷たい風が入り込んでくる。慌ててマフラーを巻き直して見せると、彼女は自分のマフラーに顔を埋めるようにこくんと頷いて、そのまま歩き出してしまう。
「ひゅう、朝からお熱いじゃないの。このこのぅ」
「吹けてないぞ、口笛」
にやにやと脇腹を指でついてくる柊の手を払って、僕は彼女の横に並ぶ。文字通り僕の『彼女』である、橘悠希の隣に並ぶ。
学校の男子どもの間で噂されるほどのすらりとした美人だから、それだけで心臓は高鳴っていた。そんな、面映い喜びを噛み締めるばかりでなく、小粋なトークでもしなければと思うのだが。悲しいことに、言葉は喉元まで上がってきては差し戻されてしまう。
「ゆきちゃんも小宅っちも、相変わらず全然喋んないよねぇ」
後ろからついてきていた柊に茶化されて、僕の心がぎくりとする。肩越しに非難の視線を送ろうとして――
「昨日、デートに行ったんでしょ。明日葉はその感想が聞いてみたいなー」
慌ててウインクで誤魔化した。なんだか冷たい笑顔に弾かれた。
ともかく、柊のおかげでキッカケができた。下世話な野次馬たる彼女の目論見は放っておいて、ここから話題を広げればいいのである。
「橘さん。昨日の映画、面白かったよね」
「……まぁ、うん」
「危機に陥った主人公が、死んで行った仲間たちの力でパワーアップするところとか」
「……」
「え? 小宅っち、デートでそんな映画見たの? 正気?」
ネットでも高評価だった、有名スタジオ制作の劇場版アニメだったのだが。目をパチクリさせる僕に、柊は深いため息をついている。橘さんは相変わらず、淡々と歩いている。
「ごめんね橘さん。うちの幼馴染が」
「別に、そんな」
「気を使わなくていいんだよ? 今度、よーく言っておくから」
ちんちくりんのくせに大人ぶって橘さんに謝る柊。僕は釈然としない気持ちをぐっと飲み込んだ。これで本当に柊の言う通り、橘さんが我慢して僕に付き合ってくれていたなら。僕は強気に出れなかった。
そもそもの話だ。僕はこの通り、とても甲斐性のある人間ではない。そして、橘さんもあまり自分のことを話してくれる人間ではない。
夏休みに入る前の、終業式の日に。橘さんを柊に校舎裏へ連れてきてもらって、べったべたの告白をして。それで首尾よくOKをもらってから、僕はなぜ彼女と付き合えているのか、とんとわからない。
昨日のデートは成功したと思っていた。自分の手のひらを見つめる。昨日、初めて彼女と手を繋ぐことができた。映画館を出て、ほとんど僕が感想を喋る中で、しれっと握ってみたのだ。
彼女は驚いたように手を強張らせたけれど、ちゃんと握り返してくれた。握り返された僕の方が変な声を出してしまって、彼女は喉の奥でくすりと笑っていた。
僕が自分の手から目を上げて橘さんを見やると、ちょうど彼女と目があう。ふいと顔を背けられてしまった。髪の隙間から耳たぶがわずかにのぞいて、寒かさからか赤くなっている。
やはり、確かめなければいけない。傲慢な考えなのかもしれないけれど、彼女は本当に、僕のことが好きなのだろうか。
◇◆◇
時に、僕は重度のアニメオタクである。
広く一般にアニメオタクといえば、アニメのクールごとに嫁というものが変わり、今季のアニメの当たりがどうだとか、流行の中で生きているものだと思うのだが。僕はそこから一線を画す。
高校生になり、オタクとして目覚めてから、今までのお年玉貯金を切り崩して買い集めたタペストリーやアクリルキーホルダーは全て、たった一つのアニメ作品に集約されている。
否、正しくは。たった一人のキャラクターに捧げられている。結川有紗という一人の天使に。
僕の部屋は天真爛漫な女子高生たる彼女の笑顔と、ストーリーの正ヒロインとして主人公を支え続けた健気なワンシーンを映すブロマイドや缶バッジに埋め尽くされ、視線を巡らせるだけで濃密に彼女を摂取できる。主人公の名前が奇しくも『小宅』なので、彼女のセリフを思い出すとなんとも言えずこそばゆい。
裏を返せば、とてつもなく痛い部屋なのである。時折僕の部屋にやってくる柊が、その変貌の過程を見るたびに「うわぁ」と表情で語っていたのはいい思い出。
僕は家路を急いでいた。コンビニで橘さんと、ついでに柊と別れてから、それはもう全力ダッシュ。
今日、橘さんをその部屋に呼ぶのだ。だから、綺麗に掃除をしておかねばならない。神聖なる結川グッズを片付けるのではなく、埃一つ残してないないことを確かめるのだ。
どうせ僕はこのオタク趣味をやめるつもりはない。いつかバレるのなら、最高のコンディションでバラしてやる。
そうして、僕の秘密を一つ打ち明けた上で、彼女の気持ちというのを聞いてみたい。
僕は息急き切って家の玄関扉を開けて、自宅に飛び込んだ。親はいない。仕事で遅くなると言っていた。息苦しいマスクを取り去って、階段を登る。
さぁ、忙しいぞ。最後の掃除を徹底して、特に僕のお年玉貯金にとどめを刺した結川フィギュアの埃を丁寧に落とし、その後お茶の用意とかをしておかないと。
どたどたと二階にたどり着いて、僕は自室の扉を開く。
「あれ、小宅だ。ねぇ、ここどこだかわかる?」
そして、フリーズしてしまった。
ここは僕の部屋だ。それはいい。
この部屋には結川のイラストが溢れている。それもいい。
部屋の真ん中には、リアルの女の子がいる。
いや、それはダメだろ。
「なんで、僕の名前を知ってるんだ……? それに君は」
「なんでって、ひどいじゃん。結川だよ。彼女の名前も忘れちゃったの?」
「ゆい、かわ……」
ベージュのカーディガンの上からブレザーを羽織った、アニメの美少女のようにメリハリのついたスタイル。人前だというのにマスクもしない彼女は、マスクなんてしなくても可愛い顔立ちをしている。ぷっくりとほおを膨らまして、長く伸ばした黒髪を指でくるくるとやる。
見間違いようもなかった。アニメの中のようにデフォルメこそされていないが、その特徴、声、振る舞いは、間違いなく結川有紗で。
「思い出した? それより小宅、ここってどこなの? なんか、私みたいな女の子のイラストがいっぱいで、ちょっと気持ち悪いんだけど」
「えっと、それは……」
彼女は確かに質量を持って、足音とともに部屋の中を歩き回り、僕の宝物である結川フィギュアを取り上げて、眺め回す。パンツまで再現されているのをみて、うへぇと顔をしかめた。
――まずい。
脳が警鐘を鳴らす。何かよくわからないが、不思議なことが起こって結川がこの世に顕現してしまったのだ。しかも、名前が同じ僕のことを原典たるアニメの主人公と勘違いして。
何がまずいって、これからこの部屋に橘さんが来るのだ。その時に巻き起こる修羅場を想像すれば、心穏やかではいられない。
大丈夫、大丈夫。
僕ですら精一杯急いで帰ってきたのに、もうよっぽど楽しみにしていない限り、橘さんがこんなに早く僕の家に辿り着くことはない。
とりあえず一旦、この推定結川さんにはどこかに行っていただいて……
そう思った時、ぴんぽーんと、玄関のチャイムが鳴った。