九、
その日は朝から猛暑だった。蝉の声が王者のように君臨し、空は折り紙のように真っ青だ。自然、皆が別荘に引き籠り、冷房の恩寵に浴していた。折悪しく瑠偉の部屋の冷房が不調で、効きが余り良くない。瑠偉は八割方済ませた宿題の続きをする気にもならず、ベッドにぐったり横たわっていた。白く細い首に亜麻色の髪の毛が汗で張り付き、鬱陶しい。ピンクオレンジのワンピースは素材が麻なので、その点には救われた。
部屋の扉をノックする音が聴こえたので、気怠く返事する。
顔を出したのは各務だった。涼し気な紺色の紬を着ている。
各務はベッドに横たわる妹の様子を見て、足を止める。
そこには扇情的な少女がいた。ワンピースの裾から出た白い足は薄桃色めいて、暑そうに喘ぐ表情は悩まし気。ノースリーブなので剥き出しの肩は呼吸と同じリズムで微動していた。
はっとした。胸を掴まれるような感覚。
「お兄様……?」
「――――やっぱり冷房の調子が悪いみたいだね。柏木に言っておこう。瑠偉、きついようなら僕の部屋においで」
「お兄様の部屋……?」
「うん」
正直、各務は世にも稀な神獣を前にした気分でいた。この神獣を、自分の部屋に連れて行きたい衝動に駆られた。閉じ込めて。誰にも見せないで、自分だけのものに。
妄想は一瞬で終わった。
瑠偉がはにかむように頬を染めて、こくんと頷いたのだ。歩くのも辛そうだったので、各務は瑠偉をそっと抱き上げて自室まで運んだ。自分のベッドに横たえる。瑠偉は、余り訪れる機会のない各務の部屋に鼓動を早めていた。
「欲しいものはあるかい?」
しかも普段より一層、甘やかしてくれる。
「オレンジジュース」
「解った。待っておいで。ああ、机の上の物には触らないように」
「はい」
各務が去った部屋には、やはり各務の空気が満ちていた。地球儀や月球儀、その他分厚い本が見受けられる。各務らしく片付けはきちんとしていて、物は多いが雑然とした印象はない。
カラン、と涼しい音と共に、各務が戻って来た。
トレイには円筒形のグラスに納まったオレンジジュース。氷が目に涼し気だ。
「ほら」
「ありがとう、お兄様。……? 氷が別にも置いてあるのね」
「ああ、それはね……」
別の小皿に取り置かれていた氷を、各務が一口で食べる。咀嚼して、飲み込んでから瑠偉に微笑みかける。
「こうすると、夏バテもすぐに治るだろう?」
「でも。でもはしたないわ、そんなの……」
「そう? 瑠偉、口を開けてごらん」
言われるままに瑠偉が口を半開きにすると、ぎょっとした。
各務が氷を口に咥え、瑠偉の顔に近づいているのだ。つまりは、口で瑠偉の口に移そうと。やたら煌めく氷が、瑠偉に決断を迫るようだ。
逡巡の時間は長くは与えられていない。半開きにした瑠偉の口の端からよだれが一筋流れている。瑠偉は目を瞑って、ひどく顔を熱くしながら、各務から氷を受け取った。唇は触れなかった。そのことを惜しむ自分を、瑠偉は恥じた。各務の手が急に顔に触れたので、ぎょっとする。見ると各務は瑠偉のよだれを手で拭い去り、あろうことかその手をペロリと舐めたのだ。瑠偉は言葉にならない思いで顔を両手で覆ってしまった。
「夏バテ、酷くしちゃったかな」
そう言う各務が憎らしく、――――何より恋しかった。