十六、
瑠偉は各務を避けるようになった。
それまでは主人にまとわりつく子犬のように、機会があれば各務と一緒にいた。けれど、伝った紅を舐められて、瑠偉は各務を恐ろしいと感じるようになった。それはほんの契機に過ぎなかったのかもしれない。その一件の前にも、各務は瑠偉に対して、妹に接するには相応しくない態度を示していた。真実、恐ろしいのは、そんな各務を容認して受け容れつつある自分の心だった。信じられないと感じた。少女の潔癖は、危険から遠ざかることを選んだ。
あんなに好きだった各務を、このように思う日が来るとは想像もしていなかった。
各務は瑠偉にとって優しい陽だまりであり川のせせらぎだった。それらが幻のように霞み、消えゆくことを瑠偉は許し難いと思った。
そんな瑠偉の、瑠偉たちの変化を敏感に感じ取り、にやにや笑うのは鮮だ。
今日の夕食は帆立ご飯が供され、それは瑠偉の好物であるのに、咽喉を通らない。各務は、自分を避けて逃げ回る妹を、悲し気な視線で見つめるばかりだ。
「今日、あたしの部屋に来る? 各務兄様」
「何をしに?」
「〝なに〟をしに」
鮮の挑発的で、且つ扇情的な声色に、瑠偉はどきりとする。煩い。心臓が煩い。各務が鮮とどうなろうが、妹の自分が口を出すべき事柄ではない。そう思うのに、気づけば瑠偉の唇は勝手に動いていた。
「今夜は宿題を見てくださるお約束よね、各務お兄様?」
「ああ、そうだったね」
瑠偉の咄嗟のでまかせに、各務は対応してくれた。鮮が忌々し気な顔をする。食卓でなければ舌打ちの一つもしたかもしれない。瑠偉は内心、震える息を吐いていた。各務がまだ自分に優しいことが嬉しかった。晩餐はその後、粛々と進められた。何だかお葬式みたいだわと瑠偉はぼんやり思う。それでは弔われているのは、一体ここにいる誰なのだろう。瑠偉にはそれが自分自身に他ならない気がした。
瑠偉は長方形に切り取られた紺青の夜空とそこに散る星、引っ掻いたような月を眺めていた。悲しみを訴える心を持て余す。各務が遠くに行ってしまった。違う、本当は違う。近くに来られ過ぎて、怯えて突き放しているのは瑠偉のほうだ。
コ、コン、と戸がノックされ、振り返ると各務が立っていた。今日の夜空より静かな表情だった。欲情の欠片も見出されない。
「瑠偉。済まない」
各務は部屋に一歩だけ踏み入った場所からそう告げた。紺地の単衣を着ている。瑠偉は各務にはその着物が一番似合うと思っていた。
「何を謝るの、各務お兄様」
各務は泣き笑いのような顔をした。
「瑠偉を好きになったおぞましい兄であることを」
瑠偉の心は恐怖した。瑠偉の心は恐怖した。最も欲しかったものを得た気がするのに、その重みに打ち震える。
「各務お兄様。私もごめんなさい」
「何が?」
「いつも、ずっと各務お兄様のことを考えているの。気づけばお兄様の姿を捜すの。触れられると怖いのに、もっとって、欲しがっているの。私、浅ましい」
二人は数歩ずつ近づき合った。示し合わせた訳ではない、自然のリズムだ。
空を引っ搔いた月が自分も引っ掻けば良いと瑠偉は思う。
各務が瑠偉を掻き抱いた。瑠偉は花束になった気がした。それぐらい、荒々しくも優しい抱擁だったからだ。
「堕ちて、瑠偉。僕のもとまで堕天しておいで、僕の姫君。けれど僕はそう願うのと同じくらいそうなることが恐ろしい。瑠偉。……僕は瑠偉を愛しているんだよ」
妹ではなく一人の女性として、という熱を帯びた甘い声が瑠偉の耳に忍び込んだ。