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かき氷

作者: とみー(碧)

かき氷


 先生の話が終わって、当番の生徒が帰りの会をすすめた。誰が言い出したんだろう、『五分間スピーチ』というものが帰りの会のプログラムとして行われている。教卓の前には、今日が担当の男の子が立って、何か喋っている。麻里は、教卓の方に顔を向けたまま、一度しずかに目をつぶった。

 喋ることは何でもいい、本を読んだ感想や自己紹介(自己紹介! 中学三年の、もうすぐ六月にもなるというのに、今更、自分の何について喋ればいいのだろう)、それに、最近思っていることを喋ってもいいし、もし、なにか披露するような芸があればそれをやってもいいということだった。実際、ただなんとなく喋っているようなひとが多かったけれど、どこで仕込んできたのかわからない手品もどきをするひともいたし、テニスボールでジャグリング(お手玉みたいなやつだ)をするひともいたし、トランペットを吹くひとなんかもいた。その、『五分間スピーチ』が帰りの会の日課として加えられてから半月くらい経っている。そしてそれは、中学校のルールに則って出席番号順に喋る順番が回ってきていた。麻里は給食のときにわざと残した牛乳をかばんにつめながら、どうして全員がやらなくちゃいけないんだろう、と思っていた。でもきっと、自分の番になったら無難なことを喋るんだろうな、とも思っていた。それよりも――それよりも、もう中学三年生だ。難関校の偏差値が下がってきているとはいえ、受験生としてそれなりの知識をまだまだ詰めこまなければならない。



 麻里は学校という組織が大嫌いだけれど、学校というその場所は嫌いじゃない。

 自分のことを『先生は』という一人称で喋る大人がいることとか、一ヶ月に一度は割られる窓ガラス(在校生だけじゃなくて卒業生もわざわざ窓ガラスを割りに来ることがあるようだ)とか、帰りの会が終わると突然嘘くさくなる黒板とか、その上についていて、ときどき、思い出したように――そして必死に――音を鳴らす、陽あたりの悪い借家のトタン壁を思い出させるような金属をまとっているスピーカー、とか。



 帰りの会が終わると、半分くらいの生徒が部活に出ていった。麻里はいつも、すぐに帰るひとたちとはタイミングをずらして、それでいて教室に残っているクラスメイトに『教室のこり組』に間違われないため(帰りの会が終わってから下校時間まで、教室でうだうだと喋っているグループがどのクラスにもある)、感付かれないように教室を出ていた。ひとりでいたほうが楽だったし、相槌をうったり話題を探したりするのも億劫だし、たとえば歩いている途中でかたつむりを見つけても、誰かと一緒だと、立ち止まってじっくり眺めるわけにもいかない。麻里はつくづく自分が団体行動に向いていないんじゃないか、と思う。



 三日前のはなしだ。

 麻里はいつもの帰りみちとは違うところを選んで、なんとなく家の方に足を向けるようにして歩いていた。いつもと違うみちを選んだのは、不安になるくらい気持ちのいい最後の春の日差しのせいだろうと思った。五月最後になるかもしれない日差しをもっとよく感じるために、麻里は川の流れているほうに向かった。

 川沿いに土手の上を歩いていると、まわりに家がないぶん日差しも強かったし、春の空気が濃いようで、麻里は、こっちをまわってよかったな、と思った。

 川といっても、ぜんぜん大きいやつじゃなくて、川幅なんてきっと五十メートルもないような川だった。でもちゃんと、まるい石だらけの河原があったし、強い日差しをうけて、なんだかこれはきっと必要以上にあざやかに見えているんじゃないか、と思うくらいの緑色の雑草もたくさんあった。


 歩いている麻里の目の端に動くものが入った。

 すこし先の橋の下、対岸の土手をゆっくり歩いていく女のひとが見えた。

 あの歩き方には見覚えがあった。井上先輩だ。

 井上先輩とは、生徒会の活動で一緒になったことがあった。麻里が一年生のとき先輩は三年生で、麻里には彼女がとても大人びて見えた。そして春、先輩は地域で一番偏差値の高い県立高校に合格した。

 麻里は立ちどまって暫く土手の上から先輩の姿を眺めていた。彼女はしゃがんだままじっとしているようだった。首すじにじりじりと焼ける日差しを感じて、麻里はいま来たみちをまたすこし進んで橋を渡った。それから、河原に下りていこうかすこし迷ったけれど、下りていくことにした。

 河原に近づくにつれて、川の流れる音が直接身体に響くようになってきた。麻里の立てる音に気付いたのか、井上先輩はゆっくり振り返ってからすこし驚いたような顔をして麻里のことを見た。

「私のこと、覚えてますか」

 先輩そこで何してるんですか、そう訊こうとしていた麻里は、全く違う言葉を口にした。そうだよね、生徒会でちょっとのあいだ一緒になったくらいの自分を、しかももう、一年以上も顔を合わせていないというのに覚えてるわけないよ、とそこまで考えたとき、

「もちろん」

 と彼女はにっこりとして言葉を返してきた。「宮下さんだよね」

 麻里は、すこし唖然としつつも、はい、と答えた。

「覚えてるよ。あんなこと言うひとにそれまでに会ったこともなかったもの。でも、そのあとも会ってないけど」

「あんなこと、って」

「あたしは、自分が自分に嘘をついている時間をなるべくすくなくしたいから、って」

 麻里には思い当たるふしが全然なかった。先輩は笑っていた。先輩の長い髪が風に吹かれて、顔を隠した。先輩は手で髪の毛を分けてから続けた。「ほら、掲示係で校内回ったとき、宮下さんやけにゆっくりと歩いてたでしょ。私が早く歩けないから、なんだかこの子気を遣ってるのかなあと思って、私のことは気にしないでみんなと一緒に先に行ってていいよ、って言ったとき」


 思い出した。こんなにゆっくり歩くひとがこの学校に他にもいるなんて思わなかった、そのとき麻里はそんなことを言った気がする。そして、そのあと先輩は、私、足が悪くて、と言った。よく見ると、歩き方がなんだかすこしぎこちなかった。その瞬間麻里は、ものすごくまずいことを言ってしまったと思い、色々な考えが頭の中を駆け巡っていたけれど、ただ、すみませんとだけしか言えなかった。気にしないで、慣れてるから、と言った先輩はとても大人っぽい笑い方をした。それにね、と言って続けた。私、嫌いなの、団体行動。本当はもうちょっと早く歩けるんだ、と。

 先輩の左足首から先が義足だと知ったのは、そのもう少し後になってからだった。


 何をしてるんですか、と訊く必要は麻里にはもうなかった。先輩の座っている前には、すこし毛並みの汚れたトラ猫が、麻里がそこに下りてきたことにもまるで気付かないような熱心さでさしみを食べているところだった。さしみは強い日差しに当たってなんだか必要以上に赤く見え、毒々しかった。ひとつを食べ終えて、次のさしみに取りかかるときにすこし上げたその猫の顔を見て、麻里は目が離せなくなった。

 片目が真っ黒になっていた。

 すわる? と言った先輩の声に我にかえった。麻里はあたりを見まわすと、適当な大きさの石に腰をおろして、学生かばんを石だらけの河原の上に倒した。

 麻里は、何をしてるんですか、と訊くかわりに、学校はどうしたんですか、と訊いた。先輩は笑って、午後、体育だったから早退しちゃった、と言った。ときおり吹く風が、先輩の長い髪と麻里の制服のスカートを揺らしていき、思わず横になりたくなるほど心地よかった。先輩は、近くの回転ずし屋さんでアルバイトをしていて、売れ残ったすしをこの猫にあげにくるのだそうだ。



 片目の真っ黒な猫はもってきた牛乳を飲んでしまうと、麻里の座っているところからすこし離れた場所にまるくなって目を閉じた。昨日もおとといも先輩は先に河原にいたけれど、今日はまだ来ていなかった。もう仕事に出ているのかもしれない。

 麻里は河原に来る途中でとってきたねこじゃらしを猫の前で揺らしてみたけれど、ぜんぜん反応を示してくれなかった。そのあたりはやっぱり飼い猫とは違うみたいだ。麻里はねこじゃらしの茎をくるくるまわしながら、ゆっくりと流れているようにみえる川面を眺めていた。

 三日前にここで先輩とあの猫に会ったときは暑いほどだったのに、今日は曇っていて、すこし肌ざむい。


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 この一週間、呪文のように呟いている言葉。なんとか言えるようになった。受験勉強なんてなんの役に立つんだろう、と思っていたけれど、記憶のテクニックとか、忍耐力の強化には役立つんじゃないだろうか。


 そろそろ帰ろうかと立ちあがったとき、土手を下りてきた先輩と目が合った。

「あ……、こんにちは」

 麻里のことばに、先輩はかなりぎこちない様子で笑い返してきたけれど、その口はなんの音も発することはなかった。先輩の口の左側には、見てそれとすぐにわかる青あざができていた。

 先輩は麻里のところまでゆっくり下りてくると、まわりを見まわして、いないね、と言った。

「え?」

「いつもの猫、きょうはいないね」

 言われて、さっきまでその猫がいた場所に目をやると、麻里が持ってきた牛乳パックが横だおしになっているだけで、片目の猫はどこかに消えてしまっていた。

「すわる?」

 先輩の声に、このまえもこんなことがあったな、とかるく笑いながらまた元と同じところに腰をおろした。

「なんだか、このまえも同じこと言われた気がします」

 麻里が言うと、先輩は目をつぶって口の端だけ笑った。


 そのままふたりして、ただ流れつづける川面をじいっと眺めていた。

 川というのは、風の通りみちなのだろうか。ときおりひゅうっと通りぬける風を何度も受けていると、まだ半袖ですごすには早いかもしれない、と思う。


「今日は、なにを持ってきたんですか?」

 ビニールから見えていた白身のさしみのことを訊いた。

「シマアジ、ってことになってるけど、どうなんだろ。どこで獲ってるんだろうね、これ」

 それから先輩は、あーあ、と言って河原に横になった。麻里は座ったまま川を眺めていたけれど、まだ自分がねこじゃらしを持っていたことに気付いた。暫く手の中でもてあそ弄んだあと、河原にそれを捨てた。

「今日、バイト出なくていい、って言われちゃった。この顔じゃあね」

 麻里は何も言わずに、手元の石を拾って川に向かって投げた。水の流れているところまで届かなくて、かん、かん、といって他の石にあたった。もういちど石を拾って投げた。こんどの石は、かん、か、か、と音をたてた。

「あの猫さぁ」

 先輩が口を開いた。「片目だけど、きっとそのことにコンプレックスとか全然ないよね……。非難も同情もさげす蔑みも」

 麻里は黙っていた。もういちど、力いっぱい石を投げた。石は、とぽん、といって水の中にのみこまれていった。「人間だけだよね、余分な感情がある生き物、って」

「余分な?」

「生きるために余分な感情。嬉しいとか、悲しいとか」

「……そうですね」

「楽しいとか疲れたとか憂鬱とかおいしいとかまずいけど栄養がある、とか」

「地球にやさしいとか」

 麻里の言葉に、ひと呼吸おいて先輩はくすくす笑った。体を起こして麻里の顔を見ると、

「宮下さん、って、結構面白いこと言うね」

 と言った。

「そうですか?」

「うん、ちょっといまので気が晴れた。よし」

 そう言うと先輩は、よっ、と立ち上がった。「かき氷、食べに行かない?」

「ええ? もうやってるところ、あるんですか?」

「学校から帰ってくるときに見たんだ。行くでしょ」

 肌ざむいときに食べる氷もいいかもしれない。なにしろ今年の初かき氷だ。

 それに、このことを帰りの会で喋ってもいい。

「いいですよ」

 麻里は笑って立ちあがった。

 先に土手をのぼりかけていた先輩は、あ、そうだ、と言って、手に持っていたビニールの中身を川に向かって投げた。

 水の中に落ちたシマアジのさしみは、流れに負けてゆらゆらと下流の方に流されていった。





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